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「じゃあね、早月。今日はいろいろとありがとう」

 別れるときに椛は早月にそう言った。

 椛は今日のクリスマスイブのデートに自信を感じていたようだった。新宿駅の中で、早月とは違う方向に向かって歩いていく椛の後ろ姿には、これからの椛の幸せを感じさせる力があった。

 その椛の横には歩がいて、歩と椛は手を繋いだまま歩いて行って、そのままたくさんの人波の中に混ざり込むようにして、二人は早月の視界の中から消えていった。

「僕たちも帰ろうか?」二人が見えなくなると、奏が言った。

「うん」早月は言った。

 奏は早月に手を差し出した。

 その手を早月は握ろうとして、その直前で、……不意に止めた。

「どうかしたの?」

 奏が言った。

「……なんでもない」早月は言った。

 でも、なんでもないことはなかった。

 早月は奏の手をいつまでも握らなかったし、奏の顔を見ることもなかったし、ずっと立ち止まったままで、ここからどこかに歩き出そうともしなかった。

「早月。大丈夫?」奏が言う。

「わかんない」

 ようやく顔をあげた早月は無理ににっこりと笑って、そう言った。

 そんな病人みたいな早月の顔を見て、奏は家に帰る前に駅の中にあるベンチのところに移動して、そこで少し早月を休ませてから、電車に乗ることにした。


「ねえ、奏。外に行かない?」

 ベンチの上で少し休んでから、ずっと黙っていた早月がそう言った。

「外を歩きたいの?」

「うん。……それから、奏に聞いて欲しい話があるの」早月は言った。

 そのときの早月の顔は、まるで一人で誰もいない家の留守番をしている幼い子供のように、とても不安な表情をしていた。

「わかった。いいよ。早月の話を聞く」

 奏は早月を安心させるように優しく微笑んでそう言った。

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