幕間の物語Ⅱ

PageEX03:だからアタシは前を向く

 手も足も出なかった。何一つ、奴には通じなかった。


 ギルド本部の医務室。

 フレイアがベッドの上で目覚めたのは、ゲーティアによる宣戦布告から一週間が過ぎた頃だった。

 目覚めた当初、フレイアは混乱していた。無理もない、フルカスの一撃を喰らってすぐに気を失っていたのだから。

 目を開けるとブライトン公国の夜空は無かった。あるのは医務室の天井のみ。

 フレイアは自分が敗北した事すら、認識できていなかった。


 事の顛末は、医務室を訪れたギルド長が教えてくれた。

 自分達が敗北した事、ゲーティアが宣戦布告をした事。

 そして……ブライトン公国が滅んだ事も。

 それらの話を新聞記事と共に伝えられたフレイアは、現実を受け入れざるを得なかった。

 もう一つ、フルカスとの戦いで大破したペンシルブレードが、現実を物語っていた。


 フレイアにとって、それは初めて経験した大敗であった。

 向き合い方が分からず、フレイアはベッドの上で呆然と時間を過ごしていた。


 転機が訪れたのは、翌日の昼下がりの事だった。

 朝食をとる気力も湧かず、フレイアはただ漠然と窓の外を眺めていた。

 窓の向こうは庭であると同時に、魔獣専用の治療スペースでもある。フレイアの視線の先には、救護術師によって治療を受けているイフリートの姿があった。

 身体のあちこちに傷が見える。治療の甲斐があったのか、今のイフリートは落ち着いた寝息を立てていた。

 そんな契約魔獣の姿を眺めていると、ベッドを仕切るカーテンの向こうから、フレイアがよく知る声が聞こえてきた。


「フレイアちゃーん。入るわよ〜」


 カーテンを開けて入ってくるのは、ウェーブがかかった栗色の髪が特徴の女性。

 寮母のクロケルだ。


「あ、クロさん」

「怪我は大丈夫?」

「うん。アタシのほうは大丈夫……ただ、イフリートが」


 そう言うとフレイアは再び、窓の外にいるイフリートに目を移す。


「イフリートちゃん、怪我が酷いの?」

「うん。攻撃を受けた時にアタシを庇ったらしくて……命に別状はないけど、しばらくは鎧装獣化はできないって」


 今までになく元気の無い声で話すフレイア。

 そんなフレイアを、クロケルは心配していた。


「そういえばフレイアちゃん。朝ご飯はちゃんと食べた?」


 フレイアは無言で首を横に振った。


「そうなの〜、じゃあ丁度良かったわ。パン焼いてきたから、一緒に食べましょう」

「あ、その……ゴメン、クロさん……今はちょっと」


 空虚な声で、食欲が無い事を伝えたフレイア。

 いつもの彼女からは考えられない返事に、クロケルはますます心配になってきた。

 だが同時に、フレイアに何があったのかも、クロケルは知っていた。


「……ギルド長さんから聞いたわ。ブライトン公国で何があったのか」

「ッ!」


 瞬間、フレイアの顔が強張った。

 想起してしまったのだ、ブライトン公国で出会った人々の事を。ゲーティアの虐殺によって失われた生命の事を。

 自分が救えなかった存在を強く再認識してしまい、フレイアの心臓は荒々しく音を立て始めた。


「ア、アタシは……」


 重過ぎる自責が、フレイアにのしかかる。


「アタシは、何もできなかった」


 ベッドの横に立てかけられいた、ペンシルブレードの柄を見つつ、そう呟く。


「ヒーローになりたいとか何とか言ってた癖に、手も足も出なくて……気がついたら全部手遅れになってた」


 ベッドシーツを握る拳に、力が入る。

 後悔に呑まれていた。フルカスに何も出来なかった自分への後悔、ブライトン公国の人々を救えなかった後悔。

 ヒーローという夢に背反する無情な現実が、フレイアの心を蝕む。


「アタシ、チームのリーダーなのに……仲間を守る事すらできなかった」


 チームメンバー全員が入院した事はギルド長から知らされていた。

 その事実が、フレイアに更なる追い討ちをかけていたのだ。


「守りたかったもの、何も守れなかった……アタシ、ヒーロー失格だ」

「フレイアちゃん……」


 ベッドシーツに顔を埋めて、落ち込むフレイア。

 そんな彼女の姿を見て、クロケルは一瞬言葉を失ってしまった。


 言い表わし難い傷が、フレイアの心を痛めつける。

 これは彼女にとって、初めての挫折でもあった。

 向き合い方も分からず、フレイアはただ目を瞑るばかり。


 深い深い闇が、フレイアを包み込む。

 だがそんな彼女を照らし出すように、優しい腕が包み込んできた。


「大丈夫、大丈夫よ」


 クロケルの腕だった。

 フレイアはベッドの上で、クロケルに抱きしめられていた。


「フレイアちゃんは何も悪くない」

「けど……アタシは……」

「あの国の人達に酷いことをしたのは、貴女じゃないわ。それにね……たとえ守ったとしても、きっといつかはこうなっていたわよ」

「それでも……守りたかった」

「相手が悪すぎたのよ。ゲーティアは強すぎる。そう簡単には勝てないわ」


 優しく、自分の弱さを再認識させられる。

 仕方ない事だったんだ。相手が悪かったんだ。

 そんな思いが、フレイアの中に灯り始める。


「終わった過去は誰にも変えられないの。ならせめて、生きている私達は前を向いていきましょ」

「前を……向いて」

「そうよ」

「……向けるのかな、今の世界で」


 新聞を読んで、世界の情勢は把握していた。

 ゲーティアの宣戦布告によって、各地で混乱や争いが起きている。

 誰もが辛い思いをしている世界で、フレイアは自分だけが前を向いていられる自信がなかった。


「でも、ゲーティアを倒さなきゃ――」

「あんなに強かったのに?」

「……」

「手も足も出なかった相手にまた挑む。そんな事したら、今度こそ死んじゃうかもしれないのよ」

「それは……」

「フレイアちゃんは、死ぬのが怖くないの?」


 クロケルの言葉に、フレイアはうまく返す事ができなかった。

 死ぬのは怖い。口ではどうこう言っても、あのフルカスに勝つ方法は思いつかない。ゲーティアを倒すイメージも上手く浮かばない。

 勝ちを想像できなかった。

 その時フレイアは初めて気がついた。自分がゲーティアに恐れ抱いている事に。


「アタシ……怖いんだ」


 無意識に出たのは、その言葉だけだった。

 目に光が灯っていないフレイアの頭を、クロケルが優しく撫でる。


「無理しなくていいの。フレイアちゃんが戦わなくちゃいけないなんて、誰も決めてないの」

「……」

「怖かったら逃げちゃっても良いの。他の人が責めても、私はフレイアちゃんの意思尊重するわ」


 優しく示されたのは、逃げという選択肢。

 そうだ、必ずしも自分が戦う必要はないのだ。

 逃げて平穏に暮らす事もできるのだ。

 その選択を責める権利など、誰にもない。


「(アタシは……)」


 心が揺らぐフレイア。

 ふとその時、彼女の視界に破損したペンシルブレードの柄が入り込んできた。

 レイが作ったフレイアの専用器。

 フレイアの脳裏に、レイと出会ってからの出来事が浮かび上がる。

 ヒーローを父親に持ち、誰よりもヒーローに憧れた少年。

 そして、フレイア自身が招き入れた整備士。


「(レイならこんな時、なんて言うのかな?)」


 一瞬の考え。

 だがその一瞬が、フレイアの心に火をつけた。

 どれだけ世界が残酷でも、どれだけ目標が無謀でも。彼は恐れる事なく挑み続けたではないか。

 何よりレイは、誰かの涙を許せる人間ではない。それはフレイアも同じであった。

 自分が戦わない事が、どのような答えを産むのか。それに気がついたからこそ、フレイアは決心をした。


「クロさん……」


 フレイアはそっとクロケルから離れる。


「やっぱりアタシ、ゲーティアと戦う」

「……どうして」

「クロさんの言う通り、逃げた方が楽かもしれない。そっちの方が長生きもできるかもしれない。でも、アタシが逃げたら他の誰かが代わりに戦う事になる。アタシはそれが嫌だ」

「怖くないの?」

「怖いよ……でも、この怖さを乗り越えなきゃ、ヒーローに近づけない気がするんだ」


 それにね、とフレイアは続ける。


「ここで逃げたら、レイに笑われる気がするんだ。アタシにとってはそっちの方が嫌だ」


 そう語るフレイアの目に、もはや闇は無かった。

 恐怖を乗り越えようとする意思。戦おうとする決意が、瞳に宿っていた。

 そんなフレイアの姿を、クロケルはどこか寂しそうな目で見る。だがそれも一瞬。クロケルは再び、いつもの笑顔を浮かべて、パンの入ったバスケットを差し出した。


「じゃあ早く怪我を治さなきゃね。その為にもまずは栄養補給」

「うん、朝から何も食べてないからお腹空いちゃった」


 そう言うとフレイアは、バスケットから丸いパンを手に取り、勢いよくかじりついた。


「もきゅもきゅ……う〜ん、美味しい」

「うふふ、よかった。いつものフレイアちゃんに戻ったわね」


 復活したフレイアがパンに舌鼓を打っていると、カーテンの向こうから新たな来客が現れた。


「よう。復活したみたいだな」

「レイ!」


 杖をつきながら現れたのは、包帯だらけのレイだった。


「実はさっきから居たんだけどな……雰囲気的に入り辛くてよ」

「アハハ、別に入ってきても良かったのに」

「そうよ〜。あ、レイ君もお一つどうぞ」

「あ、どうも」


 クロケルから丸いパンを一つ渡されるレイ。

 だがすぐには食べない。

 レイの視線はフレイアに集中していた。


「フレイア、戦えるか?」

「……うん」

「アイツらは今までの敵とは違うぞ」

「わかってる。それでも譲れないものがあるの。レイもそうでしょ?」

「あぁ……そうだ」


 抱いた意思は同じ。

 それを確認した二人は小さく頷く。


「フレイア、勝つぞ」

「うん。絶対にゲーティアを倒す。もう二度と、あんな事させたくない」

「その為にもまずは……新しい剣だな」


 そう言うとレイは、フレイアのベッドの上に大きな紙を広げ始めた。

 紙には複雑な術式とメモ、そして見たこともない剣の設計図が描かれていた。


「これって……」

「お前の新しい専用器の構想メモだ」

「剣、だよね? なんか見たことない形してるけど」

「王の指輪ってやつを見て思いついた魔武具まぶんぐだ。ハッキリ言って前代未聞の全く新しい魔武具。上手く出来るかは俺にもわからない」

「でも、作るんだよね」

「当然。その為にもフレイア、早く治して作るの手伝えよ」

「りょーかい!」


 笑顔を浮かべて、元気よく答えるフレイア。

 それを見たレイとクロケルは、もう心配はないと確信した。


「(絶対に勝つんだ……だからもう、後ろは向かない!)」


 新たな決意を胸に、フレイアは再びパンにかじりつくのであった。

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