番外編 心の雪解け
自然豊かな山間のダム湖には、雨上がりの湿気を含む冷たい秋風が吹き下ろす。
人の立ち入りを想定していない、ハイキングコースからも外れた森の中には樫井と杏花以外の人影は見当たらなかった。
それなのになぜか聞こえてくるすすり泣きを、樫井は地面にうずくまったまま耳を塞いで聞こうとしない。
「これくらい強烈な思念だと・・・あなたも感じますか?」
「・・・どういうつもりなの?自分で死んだ人間がどれくらい辛かったかなんて、
充分すぎるほど分かってる。だから家族は誰も・・・ここに来れなかったんだ。」
丁寧にアルミ缶の箱の泥を落とし、ハンカチで拭った手でそっと蓋を開けている杏花を見る事もなく、樫井は項垂れたまま動かない。
「彼女がこの地に来てこれを埋めたのは、自殺を決意したからではありません。」
杏花は中身を確認すると、静かに彼の震える体に寄り添って背中に手を置いた。
「・・・それがなんだっていうんだ。話も碌に聞かずに追い詰めた俺への恨みでも書いてある? それともあれはただ単に事故だったとでも?
俺は沢山の事故死を見てきたが、あの若さでこんな浅い水深で溺れるなんてほぼあり得ない。・・・実は誰かに殺されてたなんて衝撃の展開も知りたくもない。
どんな新事実が分かった所で、遺族にはこれ以上は辛さしか増えないんだ。
杏花さんの仕事に口を挟むつもりは無いけど、俺達の事はもうそっとしておいてくれないか?・・・凍らせたままにしておいた方が良い過去もあるんだよ。」
「・・・。」
初めて聞いた樫井の弱音や、体中から滲み出ている強い拒絶反応に圧倒された様に黙りながらも、杏花は彼の背中を撫でる手を止めなかった。
「彼女はこれ以上・・・冷たい水の中に閉じ込められることを望んでいません。
この日記には彼女の想いや希望、どんな未来を夢見ていたか・・・そのすべてが詰まっています。私からもお願いします!どうかあの子の愛を感じて下さい!」
杏花は地面に箱を置きながらそう呟き、最後は泣き叫びながら強く樫井の体を抱きしめた。いつの間にか美桜の悲しみと共鳴して、彼女は溢れる涙を止められなくなっている。
「・・・分かった。だから杏花さんはもう泣かないで。」
暫く唖然として固まっていた樫井は、根負けしたような顔で苦笑いをすると杏花の頬を伝う涙を長袖のTシャツの袖でそっと拭った。
森の草をかき分けて付いた朝露で濡れた服に、冷たい風が染み込んで行く。
樫井はTシャツの上に羽織っていたパーカーを脱ぐと、震える杏花の肩に被せて小さな箱を受け取った。
『先に日記を読んで』と杏花は呟き、彼に古い日記帳を手渡す。
最初の12ページはスケジュール管理のカレンダーだった。
沢山の予定が書き込まれている1月の後が全て白紙になっており、思わず目を逸らす樫井の様子を見て杏花もぎゅっと胸を押える。
1月4日 今日は里奈と初詣に行ってきた!あの子がスズランの美容部員なんてビックリ♪まだ予習しかしてないって言ったのに、少し前髪を切らせてくれた!
・・・上手く出来たと思う。
出来栄え見てから柚香も枝毛切れって言ってきた(笑)
1月8日 冬休み終わってもうちらは学校は行かなくていいっぽい!
勉強頑張っといてよかったー。お父さんもお兄ぃも忙しそうだし、自分でちょいちょい荷物運びますかなぁー・・・。
2月3日 警察が急に来た。部屋に隠れてたけどお父さんにバレた。
何で私が叩かれる?ママも泣いてるだけで全然助けてくれないし意味わかんない。
2月15日 引っ越しやめろとか言ってウザすぎる。
訳分かんない事のせいで夢を諦めてたまるかって感じ。
2月18日 久しぶりに学校いったら誰も話し掛けてこなかった。
里奈が佐武の従妹がみんなに言いふらしたって教えてくれた。
私が思わせぶりな事したから一家離散!?ふざけんなマジで。全員死ねばいいよ。
2月20日 先生がもう学校来なくていいって言った。
柚香が卒業旅行のグループメール私にだけくれなかった。
お兄ぃが佐武探し回ってるって噂になった。もうこんな町に二度と帰るか。
3月11日 里奈が前橋まで証書届けに来てくれた。
本当に嬉しかったけど、結局あのことは相談できなかった。
3月17日 仕事、上手くいった・・・お金もう貯まっちゃった。
明日、全て終わらせてまた頑張ろう!私は何も悪くない!
3月18日 病院、会計もしないで逃げ出しちゃったけど電話かかって来なかった。
謝りにいったら自費で会計しようって言われた。
3月23日 先輩に相談したら保険証の履歴?で家族にバレるって言われた。
引っ越しても連れ戻されて無理やり手術させられるに決まってる。
私に出来る事は、稼ぎまくって一人で48万貯める事しかないと思う。
3月28日 気持ち悪くてなにも食べられない。
予定通りに稼げなくて貯金も怪しい・・・先生が、あと11週?頑張ったら手術は出来なくなるから、家族にバレてもおろさなくて良くなるって言ってた。
お金も、国の支援?的なのがあるらしい。
樫井は急に手に力を込めてページを捲るのを拒否した。
じっと杏花の顔を見つめ、下瞼いっぱいに溜めていた涙を零す。
杏花は優しい微笑みを湛え、彼の目を見つめ返した。
冷たい風に吹かれているのに汗の滲んだ彼の額を撫で、前髪を整える。
「大丈夫、彼女の強さを見届けて下さい。私も一緒に背負いますから。」
杏花がそう囁いて樫井の手をぎゅっと握りしめると、彼は嗚咽を漏らしながらもう一度視線を古びた日記の続きへと戻した。
4月2日 先生がエコー写真をくれた。
この前は豆粒だったのに、手みたいなのが生えてて人間っぽくなってる(笑)
やっと決心がついた。学校はやめて、支援シェルターで産もうと思う。
無事に生まれた顔を見れば、ママだけは味方になってくれそうな気がする。
入学金を払ったお父さんにしたら、カンカンになって仕方無いかもだけど・・・
4月3日 来週、碓氷湖に行く準備をしてる。
ホームページ見たけど、あの頃と全然変わってなかった!
お兄ぃは釣りに夢中で、私が片足水にハマっても気付いてくれなかったな(笑)
そういえば、佐武君は頭がおかしくなるまでは優しかった。
いつも助けてくれたもんね。今回ばっかりは助けてもらえなそうだけど、私がもう恨んでなかった事は・・・いつかまた3人で湖に行けた時に話すね。
4月10日 今日、タイムカプセルを埋める!
夕方に施設の後藤さんと高崎で待ち合わせとか、なかなかのハードモードだー。
昨日の夜ずっと手紙書いてたから、めっちゃ眠いー・・・
べビちゃん、ママの栄養取り過ぎだぞー。
明るい文体で締めくくられた日記は、事故のあった日付で終わっている。
それより先は何も書かれていない事は分かっているのに、杏花が手を離した後も虚ろな目をした樫井はページを捲る手を止められない様子だった。
最後まで捲り終わって日記帳を閉じた樫井に、杏花はそっと手紙を差し出す。
一人で読み進める彼の感情が揺れ動き、張り裂けそうな心が苦しみに喘ぐたびに、杏花も胸の辺りのブラウスを千切れる程強く握りしめた。
手紙は両親宛ての物と佐武へ宛てた物もあったが、杏花はそれらを箱にしまうと、一番下に残されたエコー写真を彼に手渡す。
細長い雪だるまの様な、かろうじて頭と胴体の区別がつくだけの姿だが、美桜の幼さの残る文字で(すごくかわいい!)と余白にコメントが書き込まれていた。
「・・・あの日、本当は何があったんだろう?
知りたくないってずっと目を背けて来ておいて、本当に勝手な考えだよな。
でも今は・・・最期に美桜が何を思っていたのか、真実が知りたいんだ。」
樫井は杏花が全てを知っているのが分かっている様子で、彼女の目をじっと見つめたまま悲しく微笑んだ。
「これは彼女の証言と、私が法医学の本で得た知識を繋ぎ合わせただけの憶測に過ぎません。 信じるかどうかは御遺族の判断に任せます・・・。」
杏花がそう前置きするのを噛みしめる様に聞いていた樫井は、静かに頷いて続きを促した。
「妊娠初期の過度のストレスと過労によって、つわりが酷くなった妊娠悪阻といわれる状態にあった彼女は、食事が殆ど喉を通らなかったようです。
鉄分の不足により貧血気味だったとするならば、この湖にタイムカプセルを埋めた後に岸辺を歩いていて、4月のまだ肌寒い風にさらされた時に立ち眩みをおこしても不思議ではありません。急に顔面を冷たい水に打ちつけると、人は神経の反射がおかしくなり、手足を思うように動かせなくなることがあります。
あなたも仕事柄、十分わかってる事でしょうが・・・どんなに泳げる人間であっても、手足が動かなければ数センチの水深で溺死する事故は起こりえるんです。」
「・・・そうか。事故・・・でも、なんでわざわざこんな場所に?
時期を見て家族に知らせる方法なら、郵便へ預ける事だって・・・。」
聡明な筈の妹がおこした謎の行動が理解出来ない様子で、樫井は佐武への手紙にも手を伸ばそうとした。
杏花は両手でそれを止めさせて首を横に振る。
「幼馴染だった3人の仲が壊れ、子供の父親に連絡することも出来なかった彼女は、いつかまた皆が許し合えるように願いを込めて、想い出の地にこのタイムカプセルを埋める事にしました。
夢を諦めた彼女が、諦めきれずにもう一度求めたのは家族の絆だった。
そして、最期まで生きようと願った理由は子供を死なせたくなかったからです。
今、彼女の願っていることは2つだけ・・・樫井家には可愛い孫が居たって事、それを両親に知らせたい。自分と一緒に子供も供養してもらいたい。それだけです。」
「・・・うちの親がどこまで受け止められるかは、正直わからない。
でも、生きていれば10歳だった子供は確かにこの世にいたんだよな。
このまま誰にも供養されないのは、俺も嫌だ・・・二人に真実を伝えてみるよ。
いつか、佐武へも必ず手紙を渡す。そう美桜に伝えてくれないか?」
樫井は佐武宛ての手紙だけポケットにしまうと、日記などを丁寧に箱へ戻した。
杏花は隣で泣きながら頷いている美桜の代わりに、『ありがとうございます!』と笑顔で彼に答える。
穴を埋め戻した後、樫井が美桜との想い出を語り杏花はそれに頷きながら、一緒に岸辺までの道を歩き出す。
穏やかに陽射しを弾く水面を見つめる樫井は、胎児の分の花束を浅瀬に供えていつまでも静かに手を合わせていた。
樫井が実家の敷地内に車を停めて杏花を残し、一人で家に入ってから一時間ほど経つと、秋晴れの空を駆けるように2つの光が天へと昇っていった。
助手席でその様子を泣きながら見つめていた杏花は、家から追い出されるように出てきた樫井を見て目を丸くして驚く。
「杏花ちゃん!待たせてごめんねぇー・・・。」
大きく腫れた頬を擦りながら、ムスッとした表情で歩いてくる樫井を心配そうに追いかけてきた美織が助手席の窓を叩いた。
「えっ!?・・・ど、どうしたんですか?」
杏花は慌てて車の外に出ると、困り果てた様子の美織に尋ねる。
そんな二人の事をチラッと見遣った樫井は、車に置いたままにして冷えた空き缶で頬を冷やしながら不機嫌そうに携帯をいじっている。
「・・・あの子がね、美桜の遺品を突然持って来たからお父さんがパニックになっちゃって。『刑事になってすぐ碓氷湖で探して見つけたけど、ずっと隠してた。 東京に帰る前に花を手向けに行って、杏花さんに本音を言ったら家族にも話せって諭されたからやっと決心して持ってきた。美桜は事故死だった。子供も供養するべきだ。』お父さんに何を聞かれても、それ以外はなーんにも言わないの。
結局、家族に隠し事するなんて!って怒ったお父さんにひっぱたかれちゃった。」
「そうですか・・・。お父さん、大丈夫ですか?」
杏花は少し戸惑いながら口下手な樫井を振り返り、良治を気遣って美織に尋ねる。
「あの日記を見ちゃったからね・・・私も反省する事しかないわ。
母親なのに逃げてしまって、同じ女なのに美桜の体調に気付けなかった事にも。
・・・美桜の方がずっと立派なお母さんだったわね!本当に恥ずかしいなぁー。
お父さんも本当は、良太郎が弱い私たちのことを思いやって隠してた事くらい理解してるの。あの子がわざと冷たく話して、気持ちのぶつけどころになってくれてるのが分からない程ボケちゃいないわー。
・・・でもねぇ、私はあの子が下手くそな嘘ついてると思ってるの。」
「・・・。」
美織に真っ直ぐな瞳で見つめられ、杏花は言葉を失う。
その姿を見て何かを確信したように、美織は杏花の手を握って静かに語りだした。
「日記を探してくれたのは杏花ちゃんなのね。・・・綺麗な爪が真っ黒よ。
皆ね、お隣の芳子さんのことボケちゃった偽物霊媒師って思ってるんだけど、私は違うと思ってたの。杏花ちゃんに感じが似てるのよ!あ、変な意味じゃないよ?
それにねー、馬鹿正直で嘘がつけないあの子がさぁ・・・何年もこんな大切な事を隠しておけると思う?今日からはやっと、ちゃんと二人分のお線香をあげれるわ。
おもちゃも供えてあげなくっちゃ。 ・・・本当に、ありがとうございました。」
だんだんと掠れた涙声になっていく美織が、精一杯の感謝の言葉を告げる。
杏花は何も言わず、必死に強くなろうとしている母親の小さな肩を抱きしめた。
いつまでも見送っている母親に軽く手を振り、樫井はゆっくり車を発進させる。
「東京に着くのは夕方くらいですねー・・・ご飯どうします? 松宮さんも誘って皆で食べましょうか?まぁー準備してないから、簡単な物しかできませんが♪」
「今日は東京帰らないよー。」
心の荷が下りた様に、楽し気に話す杏花をチラッと見て樫井はそう答えた。
「えっ?3連休だけど、明日は家で書類仕事するって言ってませんでした?」
「まだ終わってない大事な用があるから延長。さっき香苗にも連絡しといたよ!
・・・あいつ、散々冷やかしやがって!帰ったらお説教だな・・・。」
「・・・。」
先程の彼が不機嫌にメールのやりとりをしていた相手の名前を知って、杏花は焦った様子で携帯のメッセージを開く。
【樫井から延長のお知らせ来たよー♪この床上手めー!
神様と生霊と猫たんのお世話はバッチリ任せてねーん♪ ごゆっくりぃー!】
「・・・なんか変な勘違いされてますし、今日は帰った方が良くないですか?」
「別に勘違いじゃないけど。杏花さんは明日外せない予定あるの?
あ・・・もう着いた!噂には聞いてたけどすげーな!なんの城だここは!?」
「あの・・・大事な用っていうのは・・・。」
「え?ここに来たかったって事だよ!あ、杏花さんは予定あるのー?」
「・・・ないですけど。」
「なっ、なんだと!?・・・宿泊は18時からだって。そんな決まりがあんだな!
まぁー予定無いなら良かった♪先にショッピングモールで明日の服買うか!」
「・・・食事も先にした方が良くないですか?」
「それもそうだねー!何食べたい?やっぱ肉かなっ!?」
「・・・もう任せます。」
グレーのセダンはインター脇から市街地へ、ぐるっと折り返して走り出した。
杏花にとって人生初の出来事は、意外にもあっさりと決定されたようだ。
呆れた様にクスクスと笑う彼女に、信号待ちで止まった樫井は照れ笑いを返す。
杏花が少し震える手を差し出すと、大きな手が力強く包み込んだ。
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