番外編 彼女の覚悟

 大きな寝室の窓から差し込む朝日が顔を照らす。昨日遅くまでヤケ酒を酌み交わした女2人は、ベッドの上でかすれた声を上げて両手を伸ばした。

「おい!杏花・・・さっきから携帯鳴ってるぞ。」

同じセミダブルベッドの隅で丸くなっていたもう一人の女性(メス猫)の御影は、

鳴りやまない電子音にうんざりした表情で耳を伏せた。

杏花はサイドテーブルに手を伸ばして携帯を握りしめ、布団から出ずに確認する。

「あ・・・松宮さん、おはようございます。え?はい、朱莉ちゃんはここにいますよ?・・・えっ!?香苗さんは・・・分かりました。私が迎えに行きます。」

杏花の話し声でもぞもぞと動き始めた朱莉は、電話の奥から聞こえてきた誠士の声が、只事ではない緊張感に震えているのにすぐに気付いた。

「・・・はい。樫井さんには私が似顔絵を確認すると伝えてください。

いえ・・・大丈夫ですよー!それより香苗さんを早く寝かせてあげたいんで、もう切りますねー!はいはーい!」

電話を枕元に置いてすぐに起き上がった杏花を、朱莉と御影はじっと見つめる。

「・・・杏花さん、今の話・・・なんだったか聞いても平気?」

「昨日、香苗さんが帰ってこなかったじゃない?バイト仲間とオールするってメール来てたけど、あれは本当の理由じゃなかったの・・・。」

杏花の絶望した様な話し方に圧倒され、朱莉は口を手で押さえて続きを待つ。

「居酒屋からの帰り道で、不審者に追いかけられたらしいんだけど・・・そいつは私の事探してたみたいなの。香苗さん・・・頑張って振り切った後も、この家に帰ったら私たちが危ないからって、1人で松宮さんのコンビニまで行ったみたい。

明け方に樫井さんと連絡ついて、3人で一緒に警察署行ってたらしいの。」


 心配そうな顔をした御影が杏花の手元にそっと近付く。杏花はフワフワの錆色の背中を一撫でして、すぐにベッドから降りて身支度を始めた。

「そ、そんな大変な事になってたなんて・・・。私も一緒に行かせて!」

「松宮さんが、自分はすぐに家に帰るから、すれ違いにならない様に朱莉ちゃんも家に帰ってて!って言ってたよ。・・・それに私も昔の事、聴取されるから。

朱莉ちゃんには聞かせたくないかな・・・。ごめんなさい。」

杏花の思いやりが痛い程伝わってくる。だからこそ一緒に居て支えたいとも思う。開きかけた口を閉じて、朱莉は自分が何も関われない悔しさを必死で飲み込んだ。

「杏花、1人で行くのか?警察が迎えに来れば良いものを・・・。」

「まだ調布の犯人って確定出来てないから、私に護衛なんてつかないの。」

ベッドから自らも飛び降りた御影は、杏花の足元に寄って引き留めようとした。

「大丈夫だよミーちゃん。朝から襲ってくるほど悪魔も馬鹿じゃないよ。

朱莉ちゃん・・・なんで松宮さんが警察に香苗さんを任せて、真っ直ぐ朱莉ちゃんと家に帰ることにしたか、わかるかな?」

朱莉は布団の端を握りしめた自分の手を見つめる。

「私が行ったってなんの証言も出来ないし・・・役に立たないからですよね。」

「私ね、前に樫井さんが好きだけど、気持ちは今は言えないんだって話してたでしょ?・・・それは、樫井さんの迷惑にならない為なの。

もちろん、あっさり振られるのに単にビビってるってのもあるけど・・・。」

杏花は何かを決心した表情で拳を握りしめながら語り続ける。

「親を失って、施設を出て・・・稼ぐようになって、何年経っても心の中の復讐心は消えてくれなかった。あの悪魔をこの手で殺すまでは、1人で眠りから覚める度に体中が震えるのは終わらないって分かってたから、早く楽になりたいのもある。

警察官はね、恋人や家族が犯罪者だと凄くまずい・・・クビもありえると思う。」


「だ・・・ダメだよ!それって杏花さんがまるで・・・」

「みんなでパーティしてる時とかね、こんなに幸せならスパッと忘れて、人に愛される人生も素敵だな・・・なんて思ったし、松宮さんに告白しちゃえって言われた時、心も揺れた。だけど、何にも関係ない香苗さんにも敵は手を伸ばしてきた。

もう・・・私は、宝物を目の前で失うのは絶対に嫌なの。」

杏花は朱莉の語尾に上書きするように言葉を被せ、目に力を込めて語った。

「・・・樫井はお前を救うのを諦めないと思うがな。」

御影の薄緑の瞳が悲しげに揺れる。朱莉もベッドから飛び降り、杏花の手を掴む。

「何百人の警察が、15年間も諦めずに探しても出てこない相手を誘き出すために、

もう一度犯人に会える研究ばかりした。人と関わることも極力避けて生きてきた。

友達が人殺しなんて、トラウマものだろうから・・・ってね。

でもね、朱莉ちゃんと松宮さんに出会って、人って良いなってまた思えたの。

友達って、傍に居るだけで凄く暖かい事思い出した。本当にありがとね!

でも・・・樫井さんは、私に無理矢理復讐を辞めさせようとはしなかった。

私は、彼が大切だから・・・好きだから、もう私に深く関わって欲しくない。

松宮さんは、香苗さんも私の事すらも大切に想ってくれてるけど、一番大切な人を危険な事件には巻き込めない。だから朱莉ちゃんの傍に居る事に決めたんだよ。」

朱莉は静かに泣いていた。杏花の覚悟に口を挟んで止めれるだけの、説得力も彼女を救う力もない事など、自分が一番分かっている。


「・・・なぜ人間は大切なモノを一つしか選べないのだろうな。」

「弱い生き物なんです。一人で生きられないくせに、失う事に耐えられないの。」

杏花は御影に悲しく微笑むと、ジーンズとブラウス、カーディガンを着ていく。

「私、強くなるから!誠士くんを不安にさせないくらい、強く!

誠士くんと樫井さんが組んだらねー、杏花さんが復讐するの間に合わないくらい早く犯人も捕まっちゃうと思うよ!だ、だから杏花さんは安心して待っててね!」

朱莉の今までの流れを無視した突拍子もない改革案に、杏花と御影は顔を見合わせて固まった。

「・・・分かった。ありがとね、朱莉ちゃん!ほら、松宮さん家で待ってるよ!

早く帰って、頑張って捜査会議してくれたまえ!・・・朱莉巡査♪」

「わ、わっかりましたー!!」

涙をサッと指で払い、とびきりの笑顔で窓をすり抜けた生霊が飛び立った方角を、

杏花達はしばらく見つめたまま動かなかった。



――― 6月14日 月曜日 生温い風に吹かれた雲が青空を流れていく朝



 フワリと住宅街を飛び越えて直線距離で帰った為か、朱莉の帰宅したアパートに家主の姿は無かった。

もうすぐ、彼はここに帰って来る。いつも謙遜して樫井さんばかりを褒めてるが、

正義感は誰よりも強い人だ。そんな人が、いま一番危険な香苗や杏花よりも自分を守ろうとしてくれた。

その事実だけで、心が強くなれる気がする。

朱莉は少しだけ自信のついた顔を鏡で確認し、お気に入りの歯磨き粉を手にした。


 微かな物音が玄関で聞こえる。疲れ果てて帰るであろう家主の為にベッドメイクをしていた朱莉は、短い廊下の方へふわりと駆け寄った。


「やぁ。若奥さん。そんな顔して僕の事待っててくれるなんて感激だなぁー。」

台所の前の狭い廊下に立っていたのは、彼女の待っていた人物ではなかった。

全身黒い学生服に身を包んだ少年は、朱莉の顔を見つめ屈託のない笑顔を見せる。

朱莉は咄嗟に玄関へと走った。閉めてある鍵のつまみに手を掛け、捻って開ける。

そのままドアノブを握ろうとした所で、少年に腕をきつく掴まれた。

「そんなに焦らなくてもいいじゃん。大体生霊なのに何を律義にドア開けようとしてタイムロスしてんだよ。ま、そんなおバカな所もめちゃくちゃ可愛いけど!」

そのまま引きずられるようにして、ローテーブルとベッドの間の隙間に倒された。

朱莉は急いでテーブルに手を掛けて上半身を起こす。

「も、もう逃げません。・・・なんのご用ですか?」

「あ、話聞いてくれる感じ?じゃー僕も座らせてもらうね!」

彼はすぐ隣に腰を下ろすと、朱莉の肩に青白い顔を近づけ長い髪の匂いを嗅いだ。

「記憶って無くなっても、好きなものは結構覚えてるんだね。桃の香りとか。」

「ひっ・・・」

少年は小さく息を飲んだ朱莉の顔を、意外そうな驚きを浮かべて見つめる。

「え・・・もしかして、した事ないの?一緒に住んでるのに?

ふーん。そんなさ、そこまで怖がることじゃなかったよ。普通ーって感じ。」

朱莉は胸の前で震える両手を握りしめ、抵抗する意思を込めた視線を相手に返す。


「ま、どうでもいいか。なんで今日ここに来たかっていうとね、僕さ、たぶんもうすぐ殺されるんだ。でも、やっと楽になれるってことだからさーお兄さんから刑事に余計な事するなって、伝えて欲しかっただけなんだよね。

ほら、あの刑事さー生霊見えないから、僕の力だけじゃ止められなくて。」

「殺される?・・・樫井さんはその犯人を止めようとしてるんですか?

捜査で分かった事なら、誠士くんがやめさせる事なんて出来ないと思いますけど・・・なんでそこまでして助かりたくないの?」

少年は長い溜息をついた後で、ワンルームの天井をぼーっと見つめた。

「うちは妹が生まれるまで、本当に幸せな家族だった。僕は小学校に入りたてで、何をしても褒めてもらえた。でも、妹が2歳になっても話せなかった時、真面目だった父親がおかしくなり始めた。あらゆる怪しい本を買いあさって、まだ4歳の妹を早朝から水風呂に入れたり、山登りさせたりした。母親は言いなりで、僕にも冷たく当たり始めた。僕が動物をストレスの捌け口にし始めたのも同じ頃だったなぁ。

妹は、口はきけないけど良い子だった。僕とは筆談でコミュニケーションをとれていたし、一緒にあやとりやカルタをしてこっそり遊んでいたよ。

妹は変な施設に入れられてからも、頑張って養護学校に通ってた。殆ど家には帰してもらえなかったけど、ある日なぜか学校帰りに逃げ出してしまってね。僕たちの家に向かってたらしい。・・・妹が事故で死んだのは僕の誕生日だったんだ。」


 朱莉の頬をとめどない涙が伝う。少年はそれを見て悲しく微笑んだ。

「妹の為にそんな風に泣いてやる大人は誰も居なかった。施設に面会にも行かなかったひきこもりの兄に会うために死んだんだと、父親は僕を何度も殴るだけだったし、母親は責任が施設にあると半狂乱で騒ぎ立てた。家を飛び出した僕は、その日初めてカラスを殺した。通販で買ったボウガンでね。

どれくらいの間、一人で外に居たかな?色々な地獄を見たよ。

父親がある日僕を見つけてね、妹がいた施設に引きずって行こうとした。そこで、母親ともみ合いになった。止めに入った僕はどうやら階段から落ちたらしい。

目が覚めた時はあの線路に横たわっていて、妹が僕の事をじっと見てた。」

自分が目覚めた時の状況と重なり、酷い吐き気が襲ってくる。思い出せない胸の奥の記憶が、五臓六腑を締め付けた。朱莉は口を押えてユニットバスへ駆け込む。

「・・・何にも出ないでしょ?生霊に排泄はないみたいだしね。涙が出ても、それは記憶がそう見せているだけ。ハンカチは濡れないんだ。」

風呂場の前の扉を塞ぐようにして立っている少年が、吐き捨てる様に呟く。

朱莉は強い意志を込めた瞳で、彼を真っ直ぐ見つめ返した。

「でも・・・どこかに居る本物の身体は、きっと本当に涙を流してる。

誰かとご飯を食べれば暖かい気持ちになって、きっとぐっすり眠れてる。

私は・・・たとえ戻った先がひどい状況で、生霊で居た方が楽だったって後悔したとしても、絶対にまた幸せになってみせる!何度でもやり直す勇気を、人を信じる素晴らしさを、私はこの身体と0からの記憶で手に入れたんだから!」

長い沈黙の中、受け入れられない答えに抗う様に少年は頭を抱えていた。

再び上げた血の気のない顔に浮かんだ敵意に、朱莉は後退りして身構える。

腕を掴まれるより先にバスルームの壁へ飛び込んだ。

無我夢中で進んで行くと、柔らかい感触が足に触れる。壁やクローゼットをすり抜けて誠士のベッドの上に着地したようだった。

急いでベランダへと飛ぼうとした刹那、腰に強い衝撃を受けて世界が反転する。

痛みの意味を理解した時には仰向けに返され、両手を頭の上で押さえられていた。

「や・・・やめて!離してっ・・・」


「ねぇ、その強い意志はどこから来るの?人に愛されるって、どんな気持ち?

あんな狂っていく世界の中で、妹に、母親に何をしてやればよかったの?

戻ったって、もう誰も助けてはくれない。あの母親はね・・・全員殺して僕と一緒に死ぬ気なんだよ?あんな地獄に戻って、僕に何が出来るって言うんだ!」

少年は朱莉の胸に顔をうずめて泣きじゃくった後、何かを決心した表情を見せる。

彼は左手だけで朱莉の細い腕をまとめて掴むと、彼女がもがいてバタつかせる足の内腿に右手の爪を食い込ませた。

痛みに顔を歪ませて朱莉は動かなくなる。しかし、諦めて目を閉じたりはしない。

「そんなことをしても、人の愛情なんて分からないままだよ。

・・・あなたが何をしても、私の気持ちも覚悟も変えられない。

お母さんを止めてあげられるのは、あなただけなのに・・・妹さんを安心して天国に行かせてあげられるのはあなただけなのに、何もかも捨てて逃げないでよ!」

少年の青白い顔が怒りに満ちて真っ赤になっていく。

「・・・どうして分かってくれないの?君だって同じ状況なのに・・・逃げたいとか楽になりたいって気持ちにならないの?僕は何がいけなかったの?

分からない分からない分からない・・・ねぇ、僕と一緒に生まれ変わってさー答えを見つけるの手伝ってよ。一人じゃ無理だよ・・・もう疲れたんだ。」


 少年は静かに朱莉の腕と足から手を離す。

その両手は、すぐに彼女の首に巻かれた。締め付ける力の強さに声も出せず、ただ手を外そうともがきながら、朱莉は少年の手の甲を引っ掻き続けた。

薄れゆく意識の中で、誰かの足音が聞こえる。

振り向いた少年の顔に、ゴスッと鈍い音を立ててめり込んだ靴底。

テーブルの角に身体を叩きつけながらふっ飛ばされた少年は、青いカーテンの窓の前まで転がった。

「そんなもんは・・・自分で探し出せ。甘ったれ・・・」


 聞き覚えのある声が耳から入ってきた瞬間、温かい血液が全身を駆け巡った。

朱莉は震える手を伸ばし、彼の名前を呼ぶ。

それが届いているかも分からないまま、彼女は気を失っていく。

真っ暗闇の中で誰かが手を握る。彼は優しい声で、『ただいま』と言っていた。

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