番外編 朱莉の一日

 朝、誰も居ない部屋で朱莉あかりは目を覚ました。

そこにいつも慌ただしく身支度をしている家主の姿は無く、テーブルには少し冷めたおにぎりとインスタント味噌汁(しじみ味)が用意されている。

痛む頭を押さえながら食事をし始めた。

どうしても昨夜の飲み会の途中からの記憶がない。


 締め切った窓を開けることなくすり抜け、ベランダの手すりの上に立つ。

もし彼女が普通の人間だったら、この光景を見た者は迷わず自殺志願者がいると

通報するはずだ。

しかし、その心配は無用だった。

この静かなアパートの一室に住む生霊あかりは、鮮やかに花の舞い散る空へ飛び立つ。

流れる黒髪に桜の花びらをまとわせて浮かぶ天使を、振り返る者は誰もいなかった。



――― 4月3日 土曜日 眩しい青空を桜が舞う朝



 桜の薄紅色と杉やヒノキの緑が混ざり合い、いつもの薄暗い神社にも色が満ち溢れている。

ここに住む化け猫は、少し疲れた様子で参道の石段の上で日光浴をしていた。


「ミカゲちゃーん!おっはよぉーー!」


「あぁ・・・朱莉・・・おはよう。元気そうで何よりだ。」

幼さの残る朱莉のキンキン声に少し耳を伏せながら、御影は挨拶を返す。

「それがねーまた記憶喪失になっちゃったの!びっくりだよね?

香苗さんと杏花さんが遊んでたの見てて・・・どうしたっけ?」


「・・・お前は杏花の頼んでいた酒を間違えて飲み、酔いつぶれた。

誠士が・・・お前を介抱して寝かせてる間に、皆で話し合っていたよ。」

一瞬、朱莉の疑問に答えて良いものか・・・と悩んだ様子の御影は、

聞かせない方が良いと判断した情報を端折はしょって伝えた。

「えーーー!・・・私、変な事してないよね?」

「・・・。」

「・・・したんだ。何か知らない間に話し合い解決したみたいだし・・・。

私ってホントにダメダメだなぁ・・・。誠士くん絶対呆れてるよー。」

朱莉は自分に絶望したとばかりに頭を抱えてぼそぼそ呟いた。

御影は薄緑の目を細めてしばらくその様子を見ていたが、ゆっくり語りだす。

「香苗は・・・最初、かたくなに食事を拒み、樫井から離れるつもりもなかった。

お前も最初は香苗を怖がって遠ざけていたな?しかし、酔ったお前が本音で語りかけたことが切っ掛けとなり、その結果・・・香苗を説得できたのだ。

香苗は笑っていたよ。お前に感謝を伝えてくれとも言っていた。

・・・自分が悲惨な目に遭ったのだから、人を不幸に巻き込みたい。

本来は優しい心根なのに、本気でそんな事を思っていた天邪鬼でさえも、

お前の素直な『人を想う気持ち』には心を動かされたという事だな・・・。」


「人を想う気持ち??」

朱莉は首を傾げながら御影の柔らかい毛並みを撫でる。


「お前は、誠士に呆れられたら・・・どうして困るのだ?

・・・あいつが香苗の心の闇に引きずられて倒れた時、どんなことを考えて夜も眠らずに傍に付いていた?」

御影は朱莉の顔を見上げる。緑の鋭い眼光が、朱莉の揺らぐ瞳を捉えて離さない。

「・・・・。」



 御影は不意に立ち上がり、朱莉の傍を離れて境内の奥へと進んでいく。

朱莉は不思議そうな表情を浮かべ、フワフワとそのあとを追う。

薄暗い木々の中へ入ると、大蛇が身体をくねらせた様な大きい松の木があった。

―—その木の根元で何かがうごめいている。

それは地面から飛び立てずに羽をバタつかせるスズメの幼鳥だった。


「あぁ!可哀想ー!助けなきゃ・・・。」

朱莉は驚いて小さく叫ぶと、咄嗟にスズメの傍へ飛んでいこうとした。

「ダメだ!手を出すな朱莉!」

御影に制止された朱莉が戸惑って硬直する。

すると頭上の枝葉のどこからともなく、チュンチュンと小鳥の鳴き声が聞こえた。

「スズメの親は、巣から旅立った子供を暫くああやって見守っているのだよ。

私たちのような異能の力が触れてしまえば、二度と子供に近付かなくなる。

・・・誰かを助ける、心を救うというのは、そんなに簡単ではないものだな。」

御影は安心したように溜息をつく朱莉にそっと微笑んだ。

「しかし・・・その心の温かさは大切にしなさい。朱莉・・・想いの強さとは、

人の気持ちを変える力があるのだ。香苗の様な他人の人生をも左右する・・・。

杏花の迷宮の様な心もいつかは救えるのかも知れないな。」


「・・・私は、誠士くんに助けられてばっかりで・・・何も出来てないよ。

あのスズメの子みたい・・・心配かけちゃって、自立もできてない私が人を助けるなんて・・・無理だよね。」


「誠士は、お前と出会う前と今とでは、まるで違う人間になったと思わないか?

あいつがお前を見える様になる前から、陰で見てたのなら分かるだろう?

全てを諦め、他人をやんわりと拒絶するような態度は・・・少しづつ無くなってきている。

・・・お前を守りたい、そう思うからこそ変われたのだ。

スズメの親も・・・子供の巣立ちを見届けることで、さらに自らの力強さを増し、

厳しい夏や冬に耐えてまた春を迎える。

人と人の繋がりもまた、そういうものかも知れないな。」


 朱莉は御影の言葉をただ黙って聞いていた。

御影も口を閉じたあとは、静かにスズメの親子を見守っていた。

二人でどれくらいの時間、木々の隙間を眺めていただろうか?

記憶を失って生霊となった朱莉は、御影の温もりに親の愛情を重ねていた。

優しい人にずっと傍に居て欲しい。そう望まない者は殆ど居ないだろう。

もしもその手を離す時が来た時、支え合う人が他に誰もいなかったら・・・

朱莉は白いワンピースの胸の辺りの生地を、ギュッと掴む。


「最悪の結果を想像したとき、一番傍に居て欲しいと思える相手を・・・

これからは一番大切にしなさい。・・・分かったね?」

御影はそう言うと、言葉が出てこない様子の朱莉に優しく帰宅を促した。


 夕焼けの街並みを桜吹雪がさらに鮮やかに彩る。

見慣れたアパートの駐輪場には、家主の自転車が戻ってきていた。

空飛ぶ居候は、締め切られたベランダの青いカーテンをすり抜けて帰宅する。


「お帰りー・・・朱莉、また御影と花見してただろ?

今日は葉っぱまでついてるし・・・。」

無口な家主は台所で買って来た食材を並べて、何やら考え事をしながら出迎えた。

「・・・ただいま!誠士くん!今日は何を作ろうかねー?」

向日葵の様な笑顔で張り切る朱莉の袖から、誠士は苦笑いしながら木の葉を取る。

朱莉は何かを言おうとしたが、誠士はせわしなく玉ねぎを切り始めた。

そっと隣へ並んで人参の皮むきを手伝う朱莉の頬は、桜と同じ色に染まっていく。


 何でもない一日は人知れず誰かの宝物となり、静かに終わろうとしていた。


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