12.曰く、過去は泡沫、消えるもの也。

 

「身元保証人となった以上、暫くは俺が貴女の面倒を見ることになります」


 とりあえずは俺と同じ宿に。依頼の受注、依頼達成後の報酬の受け取り、簡単な討伐とダンジョンの突破まではきちんとお付き合いしようと思っています。──等々。


 つらつらと並べ立てられるものの多いこと多いこと。

 袖振り合うも他生の縁とはいうものの、これでは袖を振りすぎだ。大盤振る舞い大出血サービス。そのうち身体を差し出せといわれたって驚かない。

 だが、あの美貌で、ランクAで、わざわざ得体のしれない女にそんな要求をする意味も分からない。

 だからまあ、厚意と責任感から……なのだろうけれど。


 出だしからこうも好待遇だと、今後一切、なにもかも甘えてしまいそうで厭だ。


 そんなにしていただくわけにはと言ったって、俺がしたいんですからと言われてしまえばそれ以上何が言えるわけでもなく。出資者に強く出られないのは世の常である。

 金は力なり。まったくもって真実だ。


 そんなこんなで悶々と、簡素だが清潔なベットに横たわったシキミは五回目の大きなため息を吐いた。


 とにかく、問題は山積みだし、わからないことは多いし、感情はグルグル回る思考に追い付かない。疲れが一気にシキミを襲う。

 横になった身体は重力に引っ張られ、知らず知らず張り詰めていた気持ちはぷつんと小さく途切れた。


 考えれば考える程、記憶は曖昧になってゆく。

 それはまるで自分が薄くなってゆくような、うすら寒い感傷。


 自己とは何か、と聞いたとき。

 彼女かえでは「記憶」と答える。


 自己を形造るのは記憶であり、過去の己である、と。

 そうわかっているのに、そう思っているのに。薄布を一枚被せたように、楓の記憶は明瞭はっきりとしないのだ。


 母の声、学校の喧騒、味噌汁の匂い、父の草臥れた大きな背中、車のシートと満員電車。

 記憶の欠片は浮かんでは消え、繋がらないままくらい水底へ沈んでゆく。



 時として過去それは今の自分が時間を遡行し、形造ることもあるけれど。それはそれでいいのだ。否、それならそれでいいのだ。

 小さいころ好きだったお姫様が、白雪姫であろうと、眠り姫であろうと、人魚姫であろうと。今の私が「昔は好きだったな」と、そう思えれば。

 のだ。

 それがお菓子であろうが人であろうが、記憶の本質は変わらない。


 だが、今の楓にはそれさえもできない。

 形造れないのだ。真実も、虚構も、かつての日常の一切を形成できない。

 一体自分がどんな人間で、どうやって生きてきて、何が好きで、誰が好きで、何が嫌いだったのか。

「創世」を中心とした過去の雑多な物事は、思い出そうとすればするほど朧になって。まるで、指の隙間あいだから零れ落ちる砂のように儚い。


 単語はわかるのに、文章が作れない。

 まるで英語のようだなと呟いて、そんなことは覚えているんだと泣きたくなった。


 この世界にも、私という存在の痕跡がなかったらどうしよう。

 いつか私という存在は、気が付かないうちに希薄になって。空気のように、だれにも知られずに透明になってゆくのかもしれない。



「──悩み事かぇ、マスター。浮かぬ顔よなァ」


 ふわりと甘苦い伽羅きゃらの香り。頬を撫でる、たおやかな女性の柔い肌の感触。ぱちりと瞬きをすれば、いつの間にか膝枕をされていたらしい。

 こちらを覗き込む逆様さかさまの顔は見覚えのあるそれで。


「に──惨劇の太刀ニシキ?」

「あい、マスター。妾は主が悲しむのを好まぬ故ナ、慰めに参ったぞ」


 黒から白にグラデーションしてゆく肩上までの髪は、やはり人間離れした美貌かおを淡く縁取り、くつくつと笑う彼女に合わせて揺れる。

 うなじから肩口へ流されている一房の長い髪は、シキミの顔の横でとぐろを巻いていた。

 闇夜の中、月光を集めたように光る金と萌黄の双眸は、眼尻に引かれた紅と共にゆるりと弧を描く。

 額から突き出た一対の角が、彼女が唯人ではないことを明瞭に示していた。


「よ──呼んでないよ」

「呼ばずとも来れるワ。呼ばせぬこともできる。先にヒスイの坊がやりおったろう」


 ──勝手にシャットダウンして、勝手にログインだなんてとんだ欠陥武器システムでは? と思っても声には出さない。これ以上勝手をされては困るというか、さっきまで悩んでいたのにもっと悩むような案件を持ち込まないで欲しい。


 そんな私を知ってか知らずか、艶めかしく彩られた唇は優しく言葉を紡ぐ。


「何が怖い。知らぬが怖いか──? 世は知らぬ事ばかりぞ」


 然らば知らぬを嘆くは愚かよ、オロカ。


 頬にあった手のひらは、そっとシキミの瞳を覆い隠す。

 世界の全ては闇に閉ざされ、自分という輪郭は曖昧になった。


「妾のマスター、今はただ寝りゃれ。妾は朝まで主の傍に居るでなァ」


 鼓膜を震わせるどこか懐かしい節の唄と、沈香の香りに何だか少し安心して。

 それから、シキミは漸く声を震わせて泣いた。


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