シェリアの欠点

 キセレとディノランテ、ミーシャの三人が例の遺跡に出発してすぐ、飛鳥は自分の血で汚れた服を着替えることにした。白のパーカーを着ていた飛鳥は、それを脱ぎ穴が開き血がべっとりと付いた両腕の部分を眺めていた。


「うっわ、ひっでぇ……」


 親に捨てられ、血の繋がらない祖父母に育てられた飛鳥は出来るだけ負担をかけないがために若干、貧乏性に陥っている。


「酷くやられましたね。お捨てになるのですか?」


 落ち込む飛鳥の後ろからヘレナが顔を出す。一通りの家事が出来るヘレナでも流石にお手上げのようだった。


 だが、飛鳥は違った。


「いやいや、まだ捨てませんよ」

「えっ? でも、だいぶ血も固まってますし、それを落とすのはもう難しいかと……」


 ヘレナは血の付いた袖を撫でる。


「それが落ちるんですよ。血ってのは水溶性なので基本的には水で何とかなります」

「えぇ、それは私も……。でも固まった血はどうしようもなくて……」

「そうなんですよね。血は時間が経つと酸化するので、どうしても水だけじゃ厳しいです。だからアルカリ性の洗剤を溶かした水に一時間ほど浸けて、裏側から綿棒のような物で叩くと綺麗になりますね」


 今は旅の途中で貴重な水を使用できず、実際に試すことは不可能だが、ヘレナは自分の知らぬ知識にとても感動していた。


「そ、それは知りませんでした。この世界では洗剤や石鹸のような物は身分の高い者しか使用できませんので。でもアスカさんはよくご存知でしたね」


 その言葉に飛鳥の身体が強張った。そして、そのほんの僅かな飛鳥の変化をシェリアが見逃すことはなかった。


「どうしたの、アスカ……」


 テーブルに両手で頬杖をつき、飛鳥とヘレナのやり取りを見ていたシェリアが、神妙な面持ちで尋ねる。


 飛鳥はシェリアが自分ですら気づかなかったその変化に気付いたことに驚き目を丸くした。そして、眉をひそめ飛鳥に集まる二人の視線から逃げるように顔を逸らす。すぐに向き直ると二人はどこか心配そうな目で飛鳥にじっと目を向けていた。

 何かを言おうと口を開くが飛鳥は一度それを飲み込んだ。そして、意を決して再び口を開く。


「俺……、昔、イジメられてたんだ……」


 絞り出すように飛鳥は言った。手は強く握られ身体は震えている。俯き思い切り食いしばる歯はギチギチと悲鳴を上げていた。


 今でも鮮明に思い出す。あの忌まわしい記憶を……。


 ナウラの滞在時、シートンとの戦いでそれを匂わす話はした。だが、直接イジメられていたことを口にするのは初めてだった。


 少しの沈黙が続き飛鳥はハッとした。自分のせいで場の空気を悪くしてしまったことに気づいた飛鳥は顔を上げ「あはは」と、わざとらしく笑いながら頭に手を回した。


「いやー、その頃はよく怪我とかしてて、それで血の落とし方とか調べたんだよなー」


 先程とは打って変わって明るく天真爛漫な笑顔で話す飛鳥。それが感情を押し殺した上辺だけの笑顔なのは疑う余地もなかった。


 そんな飛鳥の手をシェリアは両手で優しく包み込んだ。


「無理しなくていい」


 気付けば呼吸は荒く全身から汗が噴き出していた。


「そう、だな……。すまん、ありがとう」


 飛鳥はもう片方の手で両目に影を作る。今更隠す必要などないのかもしれないが、その顔をシェリアに見せたくはなかった。


 だが、シェリアはそんな飛鳥に微笑みかける。


「ん……。アスカ、こっちきて」


 握っていた飛鳥の手を引き馬車の日陰に連れていく。飛鳥の手を離したシェリアは振り返り、正座を崩した形で腰を落とす。


「ん、横になる」

「えっ? いや、俺もうそんな歳じゃないんだけど……」


 若干の恥ずかしさが飛鳥に付きまとうが、シェリアは全く気にする様子はない。横目でヘレナの方に目を向けると、空気を読んでいるのか背を向けテーブルを拭いていた。


 飛鳥は溜息を付くと、『仕方ない』という空気を醸し出しながら、シェリアの側に座り込む。だが、飛鳥の内心はその定かではない。


 飛鳥はシェリアに背を向け後ろに倒れ込む。


「いっ! お、おぉぉ……!」


 が、飛鳥の頭はシェリアの膝に触れることはなく地面に強打した。そして……、


「ん、これでよし」


 と、言いながらシェリアは飛鳥の足に頭を乗せる。


 足に重さを感じる。それはもう遠慮なく全てを預けるように。


 飛鳥は頭を少し浮かせ自由気ままなシェリアをじっと見つめる。


「いや、お前が寝るのかよっ!」


 腹の底から出した悲痛の叫びが、その場に木霊するのであった。




 —————




 いつの間にかシェリアから安らかな寝息が聞こえてきた。


 それもそのはず、気温は体感で二〇度前後。心地よい風が肌を撫で、馬車の陰により二人のいる場所は、昼寝に最も適した場所と言えるだろう。しかも、そこに食後の満腹感と遺跡での疲労感が付いてくる。眠るな、と言う方が無理があるのだ。


 だが、疲れているはずなのに、どうにも寝る気になれない飛鳥はシェリアを起こさないよう胡座を組み、上半身を起こしてシェリアの寝顔を眺めていた。


 風により黄金の髪がユラユラと揺れるのを飛鳥は手を伸ばし防ぐ。そのまま頭を、髪を優しく撫でるとシェリアは若干口角を上げながら、くすぐったそうに身じろいだ。


「ったく。呑気だよなぁ、お前も……」


 そのまま手を少し下げ今度は頬に触れる。シェリアは寝ているはずなのに、待ってましたと言わんばかりに自分の頬を擦り付ける。


 その犬のような仕草に飛鳥はつい表情が緩む。


「本当に仲がよろしいですね」

「わっ!? っと……、驚かさないで下さいよ、ヘレナさん」

「別に驚かせるつもりはなかったのですが……」


 片づけを終わらせたヘレナも馬車の影に入り、ようやく気が休まった。腰を下ろし持っていた袋から一つの夏みかんを取り出し飛鳥に放り投げる。


「そろそろ駄目になってしまいますよ。せっかくシズクさんが持たせてくれたのに……」

「そういえばありましたね。忘れてました。あ……」


 片手で受け取ろうとしたが飛鳥はそれを取り損ねる。シェリアの頭が乗る手を起こさぬようにゆっくりと抜きみかんに手を伸ばす。手際よく皮を剥きシェリアの頬に積み上げ、一欠片ずつテンポよく口に放り込む。


「ずっと気になっていたのですが、お二人はどういう関係なのですか?」


 飛鳥が三つ目のみかんに手を伸ばそうとした時、ヘレナが果汁で汚れた手を拭きながら尋ねる。その表情は一見、落ち着きクールな面持ちではあるが、その奥から恋バナをする女子特有の浮ついた雰囲気が見え隠れしていた。


「どうって……、どういう意味です……?」


 正直なところ、飛鳥はヘレナの真意に気づいてはいたが、面倒くさいことになりそうな気がして、とぼけたフリをする。


「またまた〜。お二人はいつお見かけしても仲がよろしいではないですかぁ」

「はぁ、まぁそう見えますかね」


 完全に乙女モードに入ったヘレナに飛鳥はため息をつく。頭を掻きながら諦めたように口を開いた。


「ディノにも言いましたけど、俺たちは別にヘレナさんが思ってるような関係ではありませんよ……」

「えっ!? でも、隙あればすぐ引っ付いているように私には見えますが!」


 ヘレナが四つん這いになりズイっと前に身体を寄せる。その拍子に肩から黒い髪が垂れ下がり、揺れる大きな胸元につい飛鳥の目が吸いよせられた。


 ハッした飛鳥はすぐに目を逸らし足元のシェリアに目を落とす。


「俺はともかく、多分シェリアにはそういった感情は全くないと思いますよ。いや、ほんと、マジで……」

「そうなのですか? シェリアさんはアスカさんには特に慕っているように感じるのですが……」

「それは合ってると思いますよ。でも、シェリアは根本的に欠けている部分があって……」


 飛鳥の穏やかな表情が一気に険しくなる。その雰囲気からヘレナもシェリアに目を向けた。


「シェリアは欠けてるんですよ。性に対する知識が……」

「はへっ?」


 険しく深刻な表情から発せられた飛鳥の言葉はヘレナの不意をつくには十分で、彼女の口からは想像もできぬほどのひょうきんな声が出てしまうのであった。

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