第47話 蟷螂の料理人
蟷螂の料理人
都内の某所。繁華街の喧騒から少しだけはなれた路地裏には、そこが都会のド真ん中とは思えないほどに静かで穏やかな場所がある。子供のころずっと田舎で育ったあたしは、都会はとても住みにくく、どこに行ってもコンクリートに囲まれた無機質のジャングルだとばかりに考えていた。しかし、実際に住んでみると、意外と静かな場所がおおく、緑もあることに気付く。それらのスペースは、土地代の高い都心部では非効率な存在のように感じるが、それでもこれだけの場所が確保されているということは、それだけ人間と言う生き物が効率だけを機械的に追い求めては過ごせない生き物だという証拠だ。
コンクリートで作られた無機質の小川の淵に植えられた柳の木を眺めながら歩き、あたしは小さな倉庫のような場所にたどり着く。ポケットの中から取り出した鍵束に、自分の寮の部屋や自転車の鍵と一緒にま止められている鍵をひとつ取り出して鍵穴に差し込む。
カチャリと軽快な音を立ててサムターンが廻る。
コンクリートが打ちっぱなしの部屋の中に、そのアトリエの主である堂嶋さんの姿はない。いつもかかっているクラッシックの音楽もなければ電気だってついてやしない。
そこはまるであたしの知っているいつものアトリエとは全く別のもののように感じる。
先日、堂嶋さんと一緒に食事に出かけ、その帰り道で想わぬ告白を受けた。堂嶋さんはもうじき献体となり、食料となってしまう。
あたしは、堂嶋さんの体を料理するという大役を命じられ、それと同時にこのアトリエの鍵を預かった。堂嶋さんの死後、このアトリエはあたしに継いで欲しいとのことだった。
思えば初めて堂嶋さんに出会った日、あたしが料理学校を卒業したばかりの新米だということを知った堂嶋さんは随分と気落ちしていたように見えた。あれはおそらく、そこに来た見習いが誰であろうと、その料理人に自分の体を料理してもらうことが決まっていたからなのだろう。あたしだって、せっかくの自分の体を料理するものが、素人同然の新米だと言われれば気分を悪くしてしまうだろう。
だから今のあたしは少しでも技術を向上させなくてはならない。だから今日もこうしてアトリエでひとり、技術訓練をしようと思ってここに来たのだ。本来今日は休日で、通常の訓練はない。
もしかすると計算高い堂嶋さんのことだ。あたしに前もってアトリエの鍵を渡したのは、あながちそうすることを暗に指示していたのかもしれない。
あたしはオーブンに火を入れ、いつもの通りに訓練を開始する。堂嶋さんはいないが、やるべきことは頭に叩き込んでいる。必要なのは繰り返し訓練することだ。料理に必要なのは、とどのつまりレシピでもなければ食材でもない。愛情だと言われればそうかもしれないが、少なくとも今のあたしにとってはまだその段階ではない。もっとその前の、基礎の訓練だ。基礎の技術力は繰り返しの訓練でしか身につかないし、それがなければどんな料理を作ってもたかがレベルが知れている。逆を返せば、基礎技術さえあればどんな料理をどんなレシピで作ってもおいしく作ることができる。あたしは同じ作業を繰り返しこなし、そのすべてを味見しながら何がどう変わっていくのかを確認した。
訓練に人肉を使うことは当然できない。そのかわりに豚肉を使って練習をする場合が多い。人間の肉はその部位の形や肉質などが豚肉に近い。まあ、言ってしまえば味的には猪の方が近いのだが、豚肉であればスーパーなんかでも比較的にいろんな部位が手に入りやすく練習しやすいので都合がいい。特に豚の内臓は人間のそれと特に似ている。大きさ、肉質共に似ているのでとてもいい練習材料になる。
昼過ぎごろになると、今度はさすがにお腹がいっぱいになって、せっかく作った料理の味見をするのもしんどくなってきた。おそらく大きなレストランで働けば、それだけたくさんの味見をしなくてはならないだろうし、毎日繰り返すとなればそれなりに大きな胃袋も必要になるのだろう。そんな丈夫な胃袋をつくるのも一つの訓練なのかもしれない。友人のバーテンダーなどは週末の忙しい日ともなると、仕事終わりにはすっかり酔っぱらっているという。わずかティースプーン一杯の味見とはいえ、100杯を超えるカクテルを作り、味見をしながら1日走り回っていれば酔いもまわるらしい。
いよいよもって味見も苦しくなったところで、ついにはうなだれて椅子にへたり込んでしまう。練習として重要視している豚肉は作って味見までしたが、ついでに練習をした魚料理まではなかなか味見をする気にはなれない。せっかくの魚がその身を食材として呈してくれたのに、作るだけ作って食べないのは失礼だが、さすがにくるしい……
その時、不意にアトリエのドアが開き、突然の来客があった。
「やれやれ、こんなに食べ残してしまって…… 食材がもったいないじゃないか……」
アトリエに入ってきた堂嶋さんは躊躇することなくキッチンの方へと向かい、あたしの食べ散らかした料理の山を見る。その姿はいつもの堂嶋さんとは少しばかり印象が違うように感じるのは休日で、いつものコック服姿でないの当然だが、ノーネクタイではあるが、オックスフォードシャツにツイードのジャケットと言ういつもよりはややフォーマルな格好のせいだろう。
堂嶋さんの目の前には、あたしが先程調理したスズキのポワレが5切れ、一つの楕円のお皿に並べられている。そのどれもが半分だけあたしが食べ残した残骸だ。
堂嶋さんは、せっかくの恰好に似つかわしくない手づかみで、その料理を端から順につまんでいく。わずか数十秒でそのすべてを平らげる。
「3番目と5番目が正解だ」と堂嶋さん。「全体を通して裏返すのが少し早いようだ。皮目を6で焼き、内側を2で焼く。余熱で最後の1を焼く。何度も言っているだろう?」
「は、はい……頭では分かっているんですけど……」
「もう少し、フライパンに入れる油は多くていい。もう少し加熱してから焼きはじめればうまくいく」
「はい。ありがとうございます」
結局、休日にしても堂嶋さんのアドバイスをもらわなければならない羽目になる。横に置いてあるあたしの口洗い用(味見をした口の中をリセットするための)のペリエの瓶を手にとり、その中身をグイッと全部飲み干した堂嶋さんは、スズキをつまんで汚れた指先をキッチンタオルでしっかりと拭き取りながら、
「さて、昼飯も食ったところだし、少し出かけようか」と言った。
「あたしも……ですか?」
「ああ、僕が生きているうちに、約束だけは果たしておかないとな」
「約束……ですか?」
「美術館に連れてく……という約束をしていただろう」
「あ、あれ……本気にしてたんですか……」
「本気じゃなかったのか? なんだ、それなら別にいいんだが……」
そう言って踵を返そうとした堂嶋さんのひじを後ろから咄嗟に捕まえ、
「本気です。本気でした……。すぐに用意するので少しだけ待っていてください……」
と言いながら、恐る恐るその手をそっと放す。思わず堂嶋さんのひじを掴んだあたしの指は、料理の脂で少し汚れていた。堂嶋さんの一張羅(勝手にそう思い込んでいるが)に脂の染みが付いた。
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