第18話 親子丼を作る
ご飯が炊きあがり、お味噌汁も準備できて、堂嶋さんも帰ってきて食卓の前に座った。ここまで来て初めて親子丼をつくり始める。そうしないと意味がない。
酒とみりんを合わせて火にかけ、沸騰したらひと口大に切った鶏肉を入れる。液体がある程度に詰まったところで醤油とだし、それに一度湯通しをした玉ねぎのスライスを加える。全体に火が通り、ほどよく煮詰まったタイミングで溶き卵を入れる。溶き卵とは言っても、本当に解きほぐしてはいけない菜箸で二、三度かき混ぜるだけにしておいて黄身と白身、それに混ざり合った玉子の三種類が存在するようにする。これを鍋に加え、すぐにその上に刻んだ長葱を加える。煮詰まったなべ底で玉子が加熱され過ぎないように鍋を軽くゆすり、半生状態で仕上げる。卵黄、卵白はそれぞれ加熱によって凝固する温度が違うので半生状態に見える玉子は部分的に固まっていたり、まだ生であったり、その中間であったりする。さまざまな玉子の過熱状態が混ざり合うことで親子丼はシンプルにして無限の可能性を秘めた究極のどんぶりとして仕上がるのだ。ああ、本当ならばこんなに簡単な説明ではほとんど何も伝えきれないことが悔しい。できることなら作り方だけで一冊の本が仕上がってしまうほどに熱く語りたいが、親子丼はスピード勝負である。そんな時間をかけてしまえばすっかり冷めてしまうのだ。それでは玉子の無限の触感が……
と、まあ、あたし完璧な状態で堂嶋さんの前に完璧な親子丼を提供したのだ。
しかし……そこで不運にもアトリエの電話が鳴るのだ。
「あ、先に食べていてください!」とあたしは声をかける。電話にはあたしが対応し、兎にも角にも完璧な状態の親子丼をどうにか堂嶋さんに食べてもらいたかったのだ。
しかし、なんとまあどういうことなのだろうか。中年のおっさんのくせにやたらと動きの素早い堂嶋さんは素早く席を立ちあがり、あたしよりも先に電話に出てしまう。
咎めることはできない。ここは堂嶋さんのアトリエだし、その電話はどう考えたって堂嶋さんあての電話なのだ。あたしが出たところですぐに堂嶋さんにとりつがなくてはならいので結果は同じことだろう。
電話の相手は管理局らしく、どうやら仕事の依頼のようだ。
――見習いの指導で大変だろうけど…… と言う声が受話器の向こうから聞こえてくる。
「いえ、実戦を積ませなければ成長しにくいですから、構わず入れてください」
と、堂嶋さんは対応する。詳しい場所説明やら状況の説明やらで話は長引く。その間、完璧に仕上げられていた親子丼はどんどんと(駄洒落じゃない)冷めていく。卵は余熱で固まりすぎてしまい、ご飯はつゆを吸い過ぎてしまう。料理と言うものは本当においしい期間と言うものは実に短く、大概の料理人は一番おいしい状態で提供できるようにタイミングを計り、時間配分を計算して料理を仕上げる。にもかかわらず、提供されてすぐに食べてもらえないというのは、美味しく食べられる時間を通り過ぎてしまうことで、料理人にとってこれほど悲しいことはない。ツイッタ―だの、インスタなどといいながら写真を撮り続けるばかりで、いっこうに食べてもらえない料理には心底同情してしまう。
電話を終えた堂嶋さんは「今日の午後のレッスンは中止だ。仕事が入った」と伝えた。
予定ではゼラチンやカラギナンなどの凝固剤がその種類による性質の違いを座学を踏まえて実践で学ぶということを予定していたが、それはまた繰り越しになった。今回の仕事が終わる、2、3日後になるだろう。
仕事場は都心から少しばかり離れた郊外のベッドタウンだ。移動には電車を使う。昼食をとった後すぐに出発して面談を行う予定になっている。すぐにでも出発しないと帰りが遅くなってしまいそうだ。堂嶋さんは親子丼をなかばかき込むようにして胃袋に収め、面談の準備に取り掛かった。冷めた親子丼に対する意見は何もない。確かに一言も文句を言わせないことが目標ではあったが、こんなのは違う。
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