第90話 「特別な配慮」を求め甘える障碍者
昨今、様々な場所で『発達障害』や『ADHD』などの言葉を目にする。
コロナ渦や超高齢化社会に置いて「生きづらさ」を感じる人にとって精神障害はまさにうってつけの理由になる。
しかし、障碍者はそんないいものなのだろうか?
障碍者の魅力って何だろう?
それは、はっきり書けば「特別な配慮をしてもらえる」という点に限るだろう。
私は精神障害の三級を持っている。
そこでは二か月に一度、給料とは別に障碍者年金がもらえる。
他にも税金面などで優遇されることが多い。(例えばNHK視聴料が半額か無料)
会社(私は今、特例子会社に勤めている)のほうも有給休暇が他の会社よりも多く、これとは別に月に数時間(申請をすれば)有休にカウントされずに途中で退社できる。
就労時間も短めで平日勤務だが就労時間は六時間だ。(残業なし)
実際、私の勤めている会社にる障碍者には「特別な配慮」を勘違いして都合が悪くなったり、少しでも気分がすぐれないと「休ませ欲しい」と言う。
はっきり書く。
「何、甘えているんだ?」
私は自分の人生の中で障碍者としてよりも健常者として生きてきた年数が長い。
だから、健常者の人たちがどれだけ歯を食いしばって懸命に頑張っているか間近で見てきた。
『働く』ということは、自分の時間を会社に捧げるものである。
そこに、「個性」やら「自由」は関係ない。
一人立ちできる作家や画家には逆に必要なものだが、少なくとも私を含め彼らは会社員だ。
しかし、私がいくら言っても
自分の都合のいい権利や自由ばかり主張して大切な義務や努力を怠る。
では、努力とは何か?
私の考えだが、それは言われたことをこなすこと。
変にカッコつけたりプロ気取りになるのではなく、真摯に仕事に向き合い、間違えたのなら言い訳もせず心から謝罪をする。
実際、私は元から器用なほうでも気が付きほうでもない。
健常者として何度も酷い虐めにあったしリストラも経験した。
しかも、周りの理解を得られない苦痛は今でも言葉にした分だけ嘘になる。
それがある諦念になった。
――誰も私を守ってくれない
――守る気もない
だから、自分を変えた。
勉強して秘書検定(二級)を取った。
自分が出来ることを探して率先して人の嫌がることをした。(トイレ掃除とかごみ捨てとか)
そのうち、人の心のツボというものが薄らぼんやりではあるが分かり始めた。
努力とは言われたことをこなすこと。
そして、その言葉に何が含まれているか察することである。
勘違い障碍者はそういうことはしない。
最初からちやほやされて周りに努力を強いる。
『理解されないのは障害のせい』
――いや、嫌われているのは障害を言い訳にするその腐った根性だよ
けど、きっと、彼らの耳には届くまい。
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