第82話 新しい生活・新しい言論・新しいネチケット(荒書き)

 新型コロナウィルスにより、我々の生活は変化した。

 以前、ここで『マスクは苦手』と書いてた私ですら、今やマスクで口を覆って通勤している。

 かつて『飲みニケーション』などと親睦の場だった居酒屋やファミレスなども様変わりをしている。


 そんな中である事件(事故?)が起こる。

 ある女性プロレスラーがネットでの誹謗中傷を苦に自殺をした……みたいなニュースがワイドショーやネットで拡散されている。

 元々はあるリアリティーショー(って何?)でのトラブルが原因と言われている。

 普段なら(と言うのも嫌だけど)『自己責任』などという言葉で一蹴されると思ったのだが、コロナで引きこもっていたせいか多くの人が意見などを書いている。

 ただ、今盛り上がっているのは『人格を攻撃する書き込みに対して法的処置をとる』というもの。

 今でも、TwitterやFacebookなどでは日常的にブロックや削除が行われ、如何に『画面の向こうに同じ人間がいる』ということに関して欠如した人間が多いかを示している。


 でも、ちょっと待て。

 単に自分と異なるだけの意見や反論に対して安易に削除することが本当にいい事なのだろうか?


 現実世界の教育では『個性』というのがバブル崩壊直後から金科玉条のように言われていた。

 中には『発達障害』等ともいわれ、「個性を伸ばしましょう」「みんなでなかよく」とも言われた。


 私は『発達障害』(アスペルガー障害)を患っている。

 でも、これを私は個性とは思わない。

 むしろ、厄介な脳みそだと思う。

 これのせいで苦しみ、悩み、泣き、狂い、人生をめちゃめちゃにされた。


 話を本題に戻す。

 結果、どうなったか?

『教育』は無法地帯になった。

 虐めがあっても「個性」やら「人権」を盾に加害者は無罪放免。

 逆に被害者が「自己責任」やら「実力主義」と責められる。

 先生や親が守ってくれない。

 叱れない。

 なにこれ?


 当然、社会はもっとひどい。

 ワイドショーなどと称する公共の電波を使った私刑リンチは酷いものだし、専門外の人間が物知り顔で政治や世間を評する醜態は見るに堪えない。

 ネットでも都合の悪いものにレッテルを張りブロックをし、アカウントを消す。

 しかし、ネットのいいところは仮にアカウントを消しても『魚拓』などとしてスクリーンショット機能を使い残る、ということである。

 

 しかし、ここまで腐臭を放つ世の中に対して影響力を持つものは何だろう?


 それは、もう、言論というより『如何に目立つか』『如何に声の大きいものか』だ。

 最悪な場面想定シュミレーションだが、都内の繁華街で素っ裸で練り歩いて『戦争反対!』などと主張すれば(逮捕されるが)テレビもネットもこの話題でいっぱいになる。

 現実、引きこもりやニート(全てとは言わない。ごく一部)で殺人でも犯そうものなら(嫌だけど)世間は犯罪者に対して様々な憶測や分類したがる。

 もう、マナーもルールもない。

 みんな好き勝手だ。

 彼らは言う。

『これが自由だ』と。

 

 そんなのが自由であり権利であるのなら、私はそんなもの唾棄する。


 私の好きな作家、柴田錬三郎は生前、こんなことを言っていた。

『無頼とは、知性のコントロールだ』と。


 これからは各々個人が如何に「住みよく」生きていくために知性をコントロールしていくか?


 恥ずかしながら、文芸のホンの一端にしがみついている(まだ、何も出してないけど)(卵で言うのなら皮蛋ピータンのようなもの)私でも、何かしらこんな時代に何かしら言論という武器で反逆できればいいのだけど……

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