第39話 『虐待死』に思うこと、願うこと
最近、我が子を殺す親のニュースをずいぶん耳にするようになった。
かつてのような『終身雇用』がなくなり、大人は常に「リストラ」や「派遣切り」の恐怖とストレスに耐えなければならない。
また、少子化になり子供に過度な期待をかける親も増えてきた。
他にも様々な要因があるが、如何様な理由があれ、例えそれが親であっても子供を虐待して殺していい権利などはない。
また、我が子を助けられなかった母親(父親)を責める風潮はネットやテレビに限らずある。
むろん、許されるべきではないし感情的になるのも致し方ない。
私が願うのは、そこで思考を停止してほしくない。
事件を自分たちに置き換えて似たように助けを求めている、または虐待のある家族に援助の手を差し伸べてほしい。
何も特別なことではない。
各自の能力と時間と余裕で小さくても手を差し伸べてほしい。
愚痴を聞くのだっていい。
深い悩みなら専門機関に橋渡しをする。
子育てスキルがあるのなら一時間でも預かって夫婦に好きなことをさせる。
などなど沢山ある。
専業主婦(主夫)も大変である。
就業している人からすれば「甘えだ」という意見もあるだろうが、もしも、そういう人がいるのなら一度ボランティアでもいいから子供(赤ちゃん)の育児をしつつ家事をしてみるといい。
きっと、破綻する。
今の子育ては密室化して、孤独になりがちである。
もちろん、色々な問題はあるだろうけど、個々人が悲劇を他人事とせず考えることで世の中はきっと変われると信じている。
そして、私の文章が一人でも多くの人の目に留まり、少しでも心の片隅に残って誰かを手助けしてくれたら望外の幸せである。
ここからダークサイド。
私も親や教師から虐待を受けた経験がある。
だから、思うのだ。
不謹慎だと思い、いけないことだと思いつつ……
正直、私は『死ねてよかった』という羨望の思いがあるのだ。
親や教師から、確かに養育や知識などは得られたけど、毎日毎日『死ね』『消えろ』『邪魔だから失せろ』などと言われ、同級生からは虐められ信じられるものは本の中だけだった。
毎日が「生きるか、死ぬか」しか考えられなかった。
人が全て敵だった。
当たり前だが、これでは精神を病む。
確かに大人になってから師と呼べる人に会い、いい人も確かにいた。
でも、怖かった。
人はいつでも豹変するからだ。
私は付きたくもない嘘をつきつづけた。
人から殺されないためにだ。
最近になり、ようやく、私が病気だということを親も私も知ることになった。
それでも、怖い。
これは経験しないと分らない恐怖だと思う。
亡くなった子供たちには本当に申し訳なく思う。
彼ら、彼女らは生きたかったと思う。
でも、私のように誰も信用できない、誰も愛することもできない人間がこれから生きていて果たして本当に幸せになれるのだろうか?
『生きていればいいこともある』というが、それはいつだろうか?
いつまで私が頑張らないといけないのだろうか?
それでも「頑張らなければ生きる価値すらない」
「他人のために生きなさい。自分のために生きることは自己中で唾棄すべきこと」
などというのだ。
私をいじめていた連中は……
そして、孤独がうるさい夜が来る。
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