第2章 ペアレンティング・スタート ①ベイビーがやって来た!

 2回チャイムの音が響き渡り、美羽は小走りで玄関に向かった。


 ――来た、来た、来た!

 ドアを開けると、淡いピンクの作業着に身を包んだ男女が立っている。


「秋津様でいらっしゃいますか?」


「ハイ、そうです」


「こんにちは。レンタルベイビーをお届けに参りました!」


 二人で声を揃えて、頭を下げる。女性の腕の中には、白いおくるみにくるまれたレンタルベイビーがいる。


 以前は消毒済みのレンタルベイビーをビニール袋に入れて届けていたが、「赤ちゃんが窒息してしまうような感じで、不快だ」という声が上がり、部屋に入る直前にビニールを開けておくるみにくるむようになったという話を聞いたことがある。


 美羽は歓声を上げた。待ちかねていたレンタルベイビーが、ようやく我が家に来たのだ。


 女性は、「お部屋に上がってもよろしいですか? ベビーベッドを設置させていただきたいのですが……」とやわらかな口調で言う。美羽はリビングに二人を通した。二人はグッド・ペアレンティング支援機構から請け負っている業者のようだ。


「ベビーベッドは、どこに置きますか?」


 男性はリビングにベビーベッドや付属品が入った段ボールを2箱運んだ。


「1つはそこのソファの隣に、もう1つは寝室に置きます」


 美羽が言うと、テキパキとベビーベッドを組み立ててくれた。


「それでは、こちらが今日から秋津さんのベイビーとなる男の子です。生後0か月の男の子でお間違いはないでしょうか?」


「ハイ、間違いないです」


 女性は美羽にレンタルベイビーを差し出した。美羽は恐る恐る受け取る。講習会で抱き方を教えてもらったが、2カ月ぐらい前のことなのであまり覚えていない。


「そうそう、腕をそこに差し込んで……お上手ですよ」


 女性に指導を受けながら、レンタルベイビーを何とか抱っこする。とたんに両腕にずしりと重みがかかり、レンタルベイビーの温度が伝わる。


 レンタルベイビーは今は眠っていて、かすかな寝息を立てている。うっすらと髪の毛が生えている様子も、低い鼻も、プクプクした小さな手も、すべてが愛らしい。そっと頬に触れると、やわらかい。


「かわいい……」


 美羽はつぶやいた。


「かわいいですよね。私も、レンタルベイビーを抱っこするのは受け渡しをする時とか、ほんの一瞬なんですが、いつも幸せな気分になれるんですよ」と、女性は微笑んだ。


「それでは、本日お渡しするものの確認をお願いいたします。


 男性が段ボール箱から出したものを、床に並べている。


「こちらの袋に入っているのはおむつで、5枚入っています。講習会で聞いていると思いますが、洗濯は不要です。特殊な繊維を使っているので、水で濡らさないようにお願いします。ウンチもおしっこも、時間が経てば消えます。それと、この袋の中は哺乳瓶。哺乳瓶は、必ず指定のものを使うようにしてくださいね。たまに、市販のものを使う方もいらっしゃるんですが、それだとセンサーがついてないので、ミルクをあげているのを認識できないんです。こちらの袋に入っているのはお洋服です。洋服が3枚入っています。0か月児は外にお散歩に連れて行くことはないと思うんですが、もし汚れたなら、洗濯していただいても構いません。この袋に入っているのはおもちゃです。ガラガラとかおしゃぶりとか、3点入っています。後は、ベビーベッドが2つ。ベビーベッドにはそれぞれ布団もつけてあります。他に、分からないことがあったら、このマニュアルを読んでみてください」


 女性はスラスラと説明しながら、小さな冊子になっているマニュアルを渡した。表紙には説明会で観た映像の赤ちゃんのイラストが書いてある。


「紙の本なんて見るの、すっごい久しぶりです」


「今はネットでダウンロードが主流ですからね。でも、赤ちゃんのお世話をしている時に何か困ったことがあってもネットで探している余裕はないので、紙のほうが早いんじゃないかっていう話になりまして。対処別にインデックスがついているので、パッと開けるようになってます」


「ホントだ、このほうが便利かも」


 美羽はパラパラとマニュアルをめくった。


 男性が腕時計を見て、「何か足りないものはありますか?」とぶっきらぼうに聞いた。


「全部揃ってると思います」


「では、本日7月3日から、8月3日までのレンタルとなります。この書類にサインをお願いいたします」


 言われるまま、タブレットにサインをした。


「今日は、旦那さんはいらっしゃらないんですか?」


 ふいに男性から尋ねられて、「ええ、今日は仕事なんで……」と答えた。


 講習会のときに一緒だった女性から教わった、ネットのレンタルベイビーのコミュニティに美羽も参加している。そのコミュニティの掲示板では、夫婦二人で育てると偽って一人で育てるケースもあるから、レンタルベイビーを渡しに来た時に業者が確認している、と書かれていた。だから、二人で暮らしているのだと分かるように、朝食の食器を片づけずにテーブルの上に置いておいた、と報告している人もいた。


「そうですか」


 男性はそれ以上、何も聞かなかった。


「8月4日に、私達が引き取りに参ります。それまでにレンタルした備品は一カ所にそろえておいていただけますか。段ボールは私達が持ってきますので、箱に詰めなくて大丈夫です。今グッズを入れている袋に戻しておいてください。袋には備品のイラストがついているので、何をどの袋に入れればいいのかは、分かるようになっています。ベビーベッドは、解体はこちらでしますので、用意だけしておいていただけるでしょうか」


 女性は丁寧に説明した後、「何かご質問はありますか」と尋ねた。


「ええと、今のところ、大丈夫です」


「何か困ったことがありましたら、グッド・ペアレンティング支援機構の相談窓口に連絡してください。あ、後、ベイビーの名前の登録の仕方はご存知でしょうか」


「ハイ、講習会で習いました」


「それでは、ペアレンティングを頑張ってくださいね。私達はこれで失礼します」


 二人で頭を下げた。美羽はレンタルベイビーを抱えたまま、二人を玄関先まで見送った。


 女性は最後までニコニコしていたが、男性は明らかに時間を気にしているようで、靴を履くのももどかしい、という感じで「失礼します」と出て行った。女性が「それでは、お邪魔いたしました。失礼いたします」と深々と頭を下げて、ドアを閉めた。


 業者によっては態度がかなり悪いらしく、以前はクレームが多かったと聞いている。支援機構でしっかり接客の教育をしたので、最近は態度がよくなったらしい。


 リビングに戻り、レンタルベイビーをベビーベッドに下ろそうとした時、ゆっくりと目が開いた。細く、黒々とした瞳に、美羽は一瞬ドキッとなる。


「あ、起こしちゃったかな」


 美羽があやそうとすると、レンタルベイビーは「っ、っ」と声にならない音を漏らし、体をのけぞらせたかと思うと泣き出した。とたんに、顔が真っ赤になる。


「ああ、ハイハイ、ビックリしたねえ、大丈夫だよ」


 美羽は講習会で習ったように、体をゆすりながら、レンタルベイビーの背中を軽く叩いてあげた。それでも、泣き止むどころか、どんどん声は大きくなっていく。


「あ、もしかして」


 美羽はソファにレンタルベイビーを横たえて、おむつを外そうとした。すると、足をピーンと突っ張るので、なかなか外せない。 


 ――講習会の時は、こんなんじゃなかったのに……!

 美羽は懸命に、「ちょっとだけだから、すぐに済むから」「おむつを替えたほうが、気持ちよくなるよ~」と言い聞かせるが、全力で足を突っ張りながら泣き続ける。


 それでも何とかおむつを外したが、濡れていなかった。


「あれ、じゃあ、ミルクなのかな」


 美羽はおむつを当てようとしたが、やはり足を突っ張るのでおむつをつけられない。先にミルクをあげることにした。


「えーと、ちょっと待っててね。哺乳瓶を持って来るから」


 レンタルベイビーをソファに寝かせて哺乳瓶を袋から取り出していると、足をバタバタさせた反動で、ソファから落ちそうになった。


「やーーーーー!!」


 叫び声をあげながら、スライディングして何とか受け止める。勢い余って、自分の頭をサイドテーブルの脚にぶつけてしまった。


「痛たたた……」


 床に摺れた腕も痛い。レンタルベイビーは、さらに大音量で泣き続けた。


 ――確か、30分以上泣きっぱなしになるとヤバいんだよね。警告音が鳴るって、掲示板で言ってた。


 美羽は、急いでレンタルベイビーをおくるみでくるみ、哺乳瓶を口に当てた。


「ホラ、ミルクだよ~」


 ところが、レンタルベイビーは顔をそむける。


「えっ、嘘っ、ミルクでもないの?」


 何度哺乳瓶を口に入れても、すぐに顔をそむけてしまう。


「うそ~、どうしよう」


 美羽は時計を見た。もう20分ぐらい経っている。


 ――掲示板で、最初にレンタルベイビーがどんな行動をとるのか、聞いておけばよかった……。今からでも間に合うかな? 困ってるから、すぐに返事くださいって言ったら、誰か答えてくれるかも。


 スマフォを操作しようとした時、チャイムが鳴った。


 ――誰よ、こんな時に。出ている場合じゃないんだけど。


 美羽は無視して掲示板を開こうとしたが、チャイムが何度も鳴るので、インターフォンのモニターを見た。すると、さっきの女性が立っている。


「すみません、お忙しいところ、先ほど説明するのを忘れてしまったことがあって……」


 女性はインターフォン越しに聞こえてくる泣き声で状況を察したのか、「もしかして、哺乳瓶のスイッチを入れ忘れていませんか?」と尋ねた。


「スイッチ?」


 美羽はハッとした。確かに、講習会では哺乳瓶のスイッチを入れないとレンタルベイビーは反応しないと説明していた。


「試してみたらいかがですか?」


 女性に言われて、美羽はソファに放り出してあった哺乳瓶を取り上げ、底にあるスイッチを入れる。レンタルベイビーの口にそっと哺乳瓶の乳首をあてた。


 レンタルベイビーは大きく目を見開き、口を動かしながら乳首を吸いはじめた。ようやく泣き止んだ。


「飲んでる、ミルクを飲んでる!! よかった~」


 美羽は思わずソファに座り込んでしまった。腕の中で、勢いよくレンタルベイビーはミルクを飲んでいる。プラスチック製の哺乳瓶は、レンタルベイビーが飲むたびにミルクの白いラインが減っていく仕掛けになっている。


 ――よくできてるなあ。


 美羽が感心している時、またチャイムが鳴った。女性を待たせていることを思い出し、レンタルベイビーにミルクを飲ませたまま、インターフォンに出た。


「すみません、お待たせしちゃって。ミルク、飲みました! 泣き止みました!」


「そうですか、よかった! 引き渡しの時に哺乳瓶のスイッチを入れるよう、説明することになっていたんですが、忘れてしまって……失礼いたしました」と、女性は頭を下げた。


「そんな、教えてもらわなかったら、相談窓口に泣きながら連絡するところでした。助かりました!」


 お互いに何度もお礼を言って、インターフォンを切った。 


 いつの間にかレンタルベイビーは満足したようで、哺乳瓶から口を離していた。


「お腹いっぱいになった?」


 しばらく腕の中でやさしく揺すると、レンタルベイビーはウトウトと寝はじめた。


 ――はあ~、よかった! いきなり泣き止まないからパニックになっちゃったよ。何とかなってよかった。


「やっぱ、かわいいな」


 そっと頬にキスする。


「今日から、あなたはうちの子になるんだよ」


 美羽は、「やっぱりレンタルベイビーを申し込んでよかった」と心から思った。自然と笑みがこぼれる。


 ――赤ちゃんって、不思議。見てるだけで幸せな気分になれるんだもん。早く流にも会わせてあげたいな。流も実物を見たら感動するかも。


 しかし、安らかなひと時は、それからすぐに終わりを告げる。ミルクを飲ませた後でげっぷを出させなかったので、レンタルベイビーはミルクを吐いて大泣きしたのだ。

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