図書館暮らし。

鈴草 結花

図書館暮らし。



 私の中には図書館がある。

 私にしか見えない、私だけの図書館。



  *  *  *



 仕事からの帰り道、同僚と別れの挨拶を交わした私は、いつものようにその扉を開いた。

 一歩踏み込むと、目の前には風通しのよい吹き抜けの空間が広がっている。

 周囲を囲う壁には、本、本、本。壁のすべてが本で作られていると言っても過言ではない。まるで本棚の塔だ。

 私は塔の中を見上げた。

 私の頭の高さより上には、本はない。空の本棚だけが、ずっと上に続いている。そして、明るさが増したその先は、光に包まれてなにも見えない。

 私は塔の中を見下ろした。

 私の下には、どこまでも、どこまでも本の壁が続いている。壁に沿ってらせん階段があり、本と一緒に下りていけるようになっている。つまり今、私は本と階段のてっぺんにいるわけだ。塔は下の方ほど暗くて、その先はやっぱりなにも見えない。

 ここは、私が毎日のように通っている図書館。

 この図書館はいつでも開いていて、どこからでも入ることができる。その上、移動するのは意識だけ。図書館へ行っていても体はその場に留まるため、仕事中だって周囲にバレずに済むのだ。

 これだけでも、この図書館がかなり風変わりであることはお分かりいただけるだろう。しかし、最も特徴的なことは蔵書にある。


 ここに、私が知らない物語は一つもないということだ。


 例えば、今私の隣にある青い背表紙の本。これは、昨日読み終えたばかりの小説だ。そして少し階段を下りて本を手に取ると、これは一週間前。さらに階段を下りると、一ヶ月前。

 ここにあるのは小説だけではない。

 例えば、この本を開いてみよう。開くと、中には文字ではなく絵が描かれてある。つまりは漫画だ。

 こちらの本はどうだろう。開くと、紙の上で映像がすべるように流れている。ページをめくると、次の場面へ。

 そう、これはアニメや映画などの『文字のない物語』だ。

 しかし、私が今から手に取ろうとしている本と比べれば、映像が流れる本など取るに足らない。


 さあ、改めてあたりを見回してみよう。

 ぐるりと図書館を囲う本の中に、ひときわ輝いている本がいくつか見える。赤い本は赤く、青い本は青く、まるで内側から光を発しているように。

 私は階段を上がり、やわらかな緑と、淡いピンクが入り混じったように光る本を手に取った。タイトルは『瑠璃の王石』。


 私は本を開いた。


 その瞬間、風が吹いたように周囲の景色が変わった。

 足元に広がるのは温かな野原で、空には白い綿雲が浮かんでいる。丘の上にある小さな小屋の前では、二人の幼い子どもがくるくると楽しそうに走り回っている。

 私は本を数ページめくった。


 一瞬、視界がぶれた。

 相変わらず、目の前には穏やかな野原が広がっている。しかし、やや肌寒くなった野原に人の気配はなく、日付が変わったことが分かる。

 そこへ、先ほどの男の子がやってきた。野原を見回して、不思議そうな表情をしている。

 小屋の扉は半開きになっていた。男の子はそっと中へ入った。

 しばらくして、男の子が小屋から飛び出してきた。その顔は真っ青に染まっている。

 男の子は野原に向かって誰かの名前を叫んだ。

 何度も、何度も叫んだ。

 しかし、誰の返事も返ってはこない。この後も、男の子は繰り返しここへ来るようになることを私は知っている――


 私は本を閉じた。


 周囲の景色は、幻を見ていたかのように元の図書館に戻っていた。目の前には本棚の壁が立ち並んでいる。

 今度は少し階段を下りて、濃紺から青色の光を発している本を手に取った。タイトルは『夢幻堂』。

 私は本を開いた。


 そこは、笛と太鼓の音が響く夏祭りの夜だった。足元には石畳の一本道が伸び、両脇では屋台の明かりが煌々と輝いている。

 まるで大人だけこの世から消えてしまったかのように、周囲にいるのは子どもばかりだ。屋台に店員は一人もおらず、それなのになぜか食べ物は温かい湯気を立ててテントの下に並んでいる。

「ねえ、なんでみんなお面をしているの?」

 私の隣で、浴衣を着た少女が狐面の少年に尋ねた。

 そう。祭りにいる子どもたちはすべて、面を被っていた。面は動物や戦隊もの、キャラクターものなど可愛らしいものばかりなのだが、さすがに一人残らず、となると薄気味悪く感じる。

「ここにいる者は皆、自分の顔を持っていない。だから、代わりに面をつけているんだ」

 少年が淡々とした声で返した。少女は首を傾げる。

 二人の向こう側には大きな鳥居があった。

 通りの突き当たりで赤色の柱を構え、その向こうは真っ暗で何も見えない。その闇の中で


 ぞわり、と何かが動いた。


 私は反射的に本を閉じた。周囲には、一瞬で図書館の穏やかな空間が舞い戻る。

 腕には鳥肌が広がっていた。本の壁を見上げて心を落ち着けながら、私は腕をさすった。

 ――我ながらちょっと怖かった。

 私は小さくひと息つく。

 光る本の中に入っているのは、私が作り出した物語だ。完結しているものもあれば、未完のものも多い。そのすべてが、この図書館にはある。

 光る本の中には、このように開くと物語の世界をリアルに再現できるものもある。私はただの傍観者で、物語がこちらに損害を与えることは一切ない。そのため、どんなに危険な展開でも安心して眺めることができるのだ。

 私は『夢幻堂』を本棚に戻すと、さらに下へ下りていった。


 吹き抜けの空間には、大きなシャボン玉のようなものがふわふわと浮いている。その周囲では、妖精たちがシャボン玉を寄せ集めて何やらせっせと作業をしているようだ。

 このシャボン玉のことを、私は勝手に『想像玉』と呼んでいる。

 玉の中には私がふと思いついた様々なイメージや物語の先っぽが閉じ込められており、これを妖精たちが混ぜて、つむぐと虹色の糸になる。それを本の中に縫いとめていくことで、光る本が作り上げられるのだ。

 想像玉は最下層の暗闇で生まれ、生み出されるときには「ポロン」とハープの弦を弾いたような音が鳴る。特に私が小説を書いているときには、図書館は虹色のシャボン玉でいっぱいになり、それはそれは美しい音楽が奏でられる。


 玉を横目に階段を下りていくと、徐々に半透明の本が増えてきた。

 それは、忘れかけられている物語。下に行くほど記憶が古くなっていくため、半透明や透明の本は必然的に増えてくる。

 ふと、私はある本の前で立ち止まった。

 その本はもうかなり存在感が薄れているが、タイトルはかろうじて読み取れた。『伝説のシリウス』……? はて、どこかで聞き覚えがあるような。

 私は本を開いた。

 本の文字は薄く、とても読みにくい。しかし徐々に内容を思い出してくると、ある瞬間で一気に本が色づいた。

 私は目を輝かせた。

 そうだ! これは、水の精霊と火の精霊の恋の物語だ。昔、おばあちゃんの家で見つけて読んだことを覚えている。

 最後まで読んでから、私は満足げに本を閉じて棚に返した。先ほどと打って変わって、本は色濃く存在感を示している。これでしばらくは大丈夫だろう。

 久しぶりに昔の本を読み返してみたら、他にどんな物語があったのか気になってきた。今日はもっと下の方まで下りてみることにしよう。

 階段を下りるにつれ、周囲は暗くなっていく。

 途中で本のタイトルが暗闇で見えなくなってきたため、壁に掛かっていたランプを手に取った。ランプで一つ一つ本を照らしながら、さらに地下へと下っていく――


 私は足を止めた。

 いつの間にか、周囲はほとんどが半透明の本で、透けていない本の方が珍しくなっていた。いったい何歳の頃までさかのぼったのだろう。

 私の隣に透明の本があった。色も分からなければ、題名も分からない。しかし、そこに存在しているということだけは確かだ。

 私は透明の本を手に取って、開いた。


 中に文字は書かれていなかった。絵も、映像もない。

 透明で見えないだけだろうか――。

 ランプを本に近づけて目を凝らしていると、どこからか声が聞こえてきた。

 

『――し、むかし。あ――おひめさ――――した。その――ので、お――さまは、――や、こ――……』


 その声は遠くで話しているように切れ切れで、何を言っているのかは分からない。それでも、なぜか私にはその声音がとても心地よく感じた。

(お母さんだ)

 私は思った。

 きっと、いつか寝る前に読み聞かせてくれた物語だ。内容は覚えていないけれど、それはとても温かくて、優しい記憶。

 私はそっと本を閉じ、棚に戻した。

 本は、透明のままだった。


 さて、と。そろそろいつもの位置に戻るか。

 私は武器を片手に戦う少女を思い浮かべた。その瞬間、ポロン、と下から音が響く。

 すると、下から新品の想像玉がふわふわと上がってきた。私はタイミングよく階段からジャンプして、やわらかい玉の上に飛び乗った。

 想像玉はぐんぐんと上昇していく。周囲が明るくなり、階段の最上階に着くのはあっという間だった。

 私は階段に降りるなり一冊の本を手に取った。

 最近、毎日のように手に取っている本だ。開くと、マイブームのドラマ映像が本の上で流れ出す。私は歓声を上げて本の映像に魅入った。

(あーっ、これこれ。やっぱり戦う女の子ってカッコいいわぁー。それにしても、この男とはちゃんとくっつくのかな? もっとしっかりしてないと、主人公から見放され――)



『――――終点、富山駅ー、富山駅ー。長らくのご乗車、ありがとうございました』


 私はハッと意識を目の前に戻した。

 電車が止まり、席を立った乗客がぞろぞろと出口から降りていく。

(いつの間に。まだしばらくは着かないと思ってたのに)

 突然の強制退館に舌打ちしたい気持ちを抑えながら、表面上は何事もない顔で流れに沿って電車を降りる。

 その後も、私は隙あらば図書館への入退館を繰り返した。家までの帰り道、お風呂に入っているとき、歯磨きをしているとき……

 そしてやっと部屋で一人になると、私は本格的に図書館の扉を開いた。

 今日は金曜日。これから夜更かしをして、好きなだけ小説を書くつもりだ。

 きっと今夜、図書館の中はたくさんのきらめく想像玉であふれるだろう。虹色の光の中、図書館は美しい音楽に満たされる。


 そして、私は紙の上に、

 妖精たちは虹色の糸で本の中に、

 新しい物語を編み込んでいくのだ。



  *  *  *



 私の中には図書館がある。

 そこにあるのは、私が触れてきたすべての物語の記憶。

 私にしか見えない、私だけの図書館。




 あなたの中には、どんな図書館がありますか?










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図書館暮らし。 鈴草 結花 @w_shieru

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