第13章 鎮静の庭:あの丘の出会い

 昨日も思ったけど、ここの夜…イエルよりも空が暗くないような気がする。夜明けはまだまだ先なのに、まだ月もないのに、なんとなく…。もしかしたら、星が多いのかな。星が近いとか…それか、私が闇を怖くなくなったせいかもしれない…。


 しんと静まり返った館から飛び出したキノは、森を下りる私道へと足を進めていた。

 どこへ向かおうというあてはない。ただ、今は涼醒から、リシールから、そして、浩司から離れたところでひとり、気持ちの整理をつけたかった。


 涼醒は…私の心を守ってくれた。知りたかった、知らなきゃならなかった事実を知って、それから逃げようとした私を…かくまってなだめるんじゃなく、ちゃんと向き合えるように立たせてくれた。しっかり前を向いてそこにあるものを見てないと、目をつぶってる間に大切なことが通り過ぎちゃうって…気づかせてくれた。


 館からほどなく樹木の生い茂る小道に差しかかり、キノは歩調を緩めた。


 あのまま涼醒に逃げてたら私…守りたいものを早いうちからあきらめちゃってたかもしれない。大切な人の運命から目をらして、自分の心もくもって…取り返せないことに後悔してた。どうしようもないことだったんだって自分に言い聞かせながら、何か私に出来ることがあったはずだって思いにさいなまれて…。


 夜空からのかすかな明かりのみが頼りの森は暗く、考え込みながら歩くキノは、朝とは別の道を行っていることに気づかない。


 それに、涼醒の言う通りだ。浩司のこと、いろんなことを考えてたら、心が押しつぶされそうで怖くて、一時いっときだけでも現実を忘れたくて…涼醒を求めた。後になったらきっと、楽になるどころか、自己嫌悪で情けなくて、もっと苦しくなってた。涼醒を大切に思ってるのに、どうして彼を利用するような真似をしたのかって…。


 キノの靴の下が、わだちのない草道に変わる。


 だけど、誰でもよかったわけじゃない。私が逃げ込みたいと思うのは涼醒のところだけ…今ならわかる。一緒にいるとどうして安心出来るのか、強くも弱くもなれるのか。涼醒だけが私を…。


 密集する枝葉の落とす形のない影が途切れ、わずかに明るさを増した足元を不審に思い、キノはうつむき加減だった顔を上げる。


 え…?


 はたと立ち止まりまばたいた目を見開くキノの前から、つい先程まで幾重いくえにも重なり合っていた木立が忽然こつぜんと消えていた。空への視界をさえぎるものは何もなく、あおを深めた夜の闇と淡い星明かりに包まれた野原が広がっている。


 ここは…?


 思わず振り返ったキノの目に、今歩いて来た森が暗闇のかたまりのように映る。


 大通りまでは一本道じゃなかったの? 私道の入口はまだずっと先のはず…。 


 鬱蒼うっそうとした森の開けた緑の原。街を見下ろす丘の先端せんたん。そのふちに見える柵に向かい、キノは夜露よつゆを乗せた秋草を踏む。


 ここ…まさか…。


 木々を背にして左手前から右前方へと連なる、所々がち落ちた木柵。その向こうに散りばめられた街の灯りと、はるか遠くの星の輝き。

 キノはこの場所を知っている。


 あれは…ここだったの…? 希由香が浩司に連れられて来た、彼の好きな夜景の見える丘…二度目はひとりで、陽の光の中に力の護りを見つけたところ…。


 暗蒼色の壮大な絵を前に、キノは二つの記憶を反芻はんすうする。


 もう少し深い秋の真夜中、初めて浩司のを間近に見つめた時…彼を愛するようになるって直感した。次に来たのは、暑い夏の真昼…持てあます思いをどうしたらいいかわからなくて、ただもう一度この場所に立ってみたくて…小さな石を拾った。


 柵の頑丈がんじょうな部分に背をあずけ、キノは反対側の闇を見上げる。星の少ない北の空。それよりも暗い森。その輪郭りんかくを成す不揃ふぞろいな葉先の一部に、平坦なものがある。夜にけ込む、異次元への道をかくす黒い屋根。


 浩司は、ここがリシールの館の敷地内だって知らなかったはず。それでも、この街に住むうちにここを見つけて気に入って…希由香を連れて来た。希由香は、リシールの存在さえ知らずに、それでも、護りを…。


 深い息をつくキノの視線が遠くなる。


 私は、別の世界の人間で、同じ魂を持ってても希由香の未来を選ぶ自信なんかなくて、命をけてまで望む浩司の祈りを変える力なんかなくて…それでも、今ここにいて、二人の幸せをあきらめられない…。


 キノは目を閉じた。


 私が知らなくても、変わらずそこにある事実…知っても変えられない事実…それでも、真実を知ることにはちゃんと意味があるって思いたい。世界は三つある。ラシャにはラシャの者がいる。人間の中にはリシールがいて、その継承者は33歳の間に死ぬ。浩司は希由香の記憶を消すことを望んでる。希由香は浩司を愛してる…。


 浩司の話を聞いた時に一瞬よぎった、悲しい思考がキノの心に舞い戻る。


 愛する者と過ごした日々を抹消されてしまうくらいなら、失う悲しみに暮れる時を覚悟せずに愛する人に微笑み触れ合えぬのならば、希由香をこのまま時の狭間はざまで安らかに眠らせておきたいという、現実からの逃避とうひ


 私…考えたくなかった。希由香が、気づかないうちに愛する人を忘れるのも、愛する人をなくして悲しむ未来をくのも、どっちも嫌だと思った。だから…。


 キノは小さく頭を振った。


 でも、今はもう…そんな馬鹿なことは思わない。希由香は、幸せな夢なんか見続けない。空想の中の幸せはまぼろしだって知ってる。逃げ込むことはあっても、そこで暮らすほど弱くはない。そして…浩司を忘れるなんて出来ない。私が彼女だったら、そんなのどうしてもごめんだ。また会えても会えなくても、愛されても愛されなくても、あなたとの記憶は消さないで…自分のことなら、迷わずそう言えるのに…。


 キノは目を開けた。


 彼女が望むのは? 選ぶのは…? 私は浩司にどうしてほしいの? 私はどうしたいの? 私に…何が出来る…?


 再び街の夜景へと視線を移し、キノはその無数の光の群れをぼんやりとながめる。


 決めるのは浩司だってわかってる。だけど…私は彼が何を選ぶかを見届けるためだけにここにいるの? 私が護りをラシャに戻す運命に、浩司と希由香の思いが必要だったなら…信じたい。二人の運命に、それと重なる私の思いも必要だって…。


 大通りに出るつもりだったのが、館の前庭へと続く小道を来たことは、キノの心をしずめるのに一役買ひとやくかったようだった。

 そして、人の運命の連鎖れんさと必然の不思議さは、傷づいた心をきたえ強くすることも、迷いとまどう心を優しく導くこともある。


 N橋のところまで歩こうかなと思ってたけど…ここに来れてよかった。ちゃんと考えられるように自分を落ち着かせるのに、ここ以上にぴったりの場所はないかも。希由香の思いが始まったところ…護りの運命が動き出したところ…ひとりで来た時は昼間

で、浩司の好きな夜景はなかったけど…。


 キノは夏の日を思い出しながら、右手に広がる草原を見る。


 あの時…ここで、リージェイクと会った。名前も素性すじょうも知らない男なのに、どこか寂し気な雰囲気が誰かに似てて、何故なぜか素通り出来なくて、彼と話したいって感じた。話さなきゃって…。


 まるで柵に電流でもはしったかのように、キノは頬杖ほおづえいて顔を上げた。

 んだ濃紺の空の下。その色と同化した草の海の間。あの時と同じところに、キノの目を惹くものがある。


 あれは…もしかして…。


 鮮やかな緑に映えるあかと同様、あおい闇の補色となる黄白きじろい何かが、け出したキノの視界の中で、生成きなりのシャツを着た黄銀の髪の人影になる。




 かたわらで足を止めたキノを見上げ、リージェイクが微笑んだ。


「ここで、また会えましたね」


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