第12章 祈り:知らないほうが幸せか ④

 鼓膜こまくを揺らし脳でその意味を成した浩司の言葉が、すさまじい衝撃しょうげきともない、キノの心の奥をつらぬいた。


「希由香が…あなたを忘れる…?」


「そうだ。俺に会ったことも愛したことも、全てな」


 そこに渦巻いていた不安と得体の知れない恐怖が一瞬で停止し、キノの心は奇妙な静寂の真っ直中にち入った。安穏あんのんとはほど遠い、嵐の前の静けさのような、いつくずれ落ちても不思議のない不安定な均衡きんこう


「何のため…に…?」


「あいつの心から俺を消すことが出来れば、いつか…ほかの男を愛して、幸せになれるだろう」


「愛せる人に…出会わなかったら…?」


「このまま俺を愛し続けるよりはマシだ」


「…本気で言ってるの?」


 手元に視線を落とす浩司を凝視ぎょうししながら、キノがつぶやく。


「あなたに会わない方が幸せだなんて…どうしてわかるの? あなたに会わなかったことにするのが、希由香のためだなんて…本気でそう思ってるの?」


 握り締めたこぶしをもう一方の手の平で固く包み、浩司が顔を上げる。


「俺は、ただ死ぬために生きて来た。人とのかかわりはけられなくても、誰かにとってマイナスの存在にだけはなりたくないんだ」


「あなたに会えたのは、希由香にとって幸せな出来事なの。別れて悲しんだ…それでも、会わずにいるよりはよかった。ずっと愛し続けるかどうかを決めるのは彼女よ…あなたじゃない」


 キノは目をつぶり、深呼吸をする。もうこれ以上、心のせきは感情の流れに持ちこたえられない。


「あなたと過ごした記憶を消す? 希由香にしてやれるひとつのことがこれ? 私になら理解出来る?」


 開けたキノの目に涙はない。まず始めに湧き上がった浩司へのいきどおりが、そのを強く染めている。


「浩司…私は希由香の代わりに護りを見つけたよ。だから、彼女の代わりにしたことのその先も、知らん顔は出来ない。望まないどころか、希由香がやめてって泣いて頼むようなことを、彼女のためだなんて言わせない。私が納得しなくても、あなたは発動出来る。そうするって知ってる。だけど、せめて…あなたがそう望む理由を教えて。私にわからせて。私が反対出来ないような理由があるんだって…」


 キノが深い息を吸い込む。


「もし、それが無理なら、ほかの望みがないなら…呪いをいてよ。希由香を愛さなくてもいい。だから…あなたとの記憶は消さないで…」


 一気にまくし立てるキノを見つめ、浩司は何を観念したのだろう。


 言わなくて済むなら言わずにおきたいこと、知らせずにおけるなら悲しみを重ねずに済むことも、真実をう者の前でそれを隠し通すことは、いつわりと同等の深い痛みを持つにせの優しさだと、気づかずにいられたら。


「俺を忘れることが希由香のためだと思ってる。だが…自分の苦しさを消したいというのが本音だな。無為むいに終わるはずの俺が、希由香の心に居座いすわったまま放っておくのは…辛いんだ。あいつにとっての自分の存在に、悔いを残すことがな」


「でも、それは…どの恋愛にだってあることじゃない。浩司がそう思うのは、やるだけやって終わったんじゃないから…自分の意思だけじゃないからよ。シェラの呪いのせいで…そうでしょ? だから、呪いをいた上で、希由香を愛さないなら…不自然な苦しみもなく…」


 キノはふいに言葉を止めた。ためらうように視線をせ、すぐに上げる。


「浩司…呪いをくのが無意味なのは、どうして? 希由香は、あなたの闇を感じてた。救い出したいと願ってる。もし…たとえ自分じゃなくてもいい、誰かを愛して寂しさの中にいなくてもいいように…」


 慎重に言葉を選ぶように、キノがゆっくりと声に出す。


 聞かなくてもわかってると思ってたことがある。返って来る答えは…一番先に、希由香が聞くべきものだって。だけど今…それを聞かずに、確かめずにはいられないことがある。浩司のくれる答えが何だとしても、どうしても…。


「なのにどうして…意味がないなんて言うの? 希由香を愛さないのは…呪いのせいじゃないの…?」


 浩司が答える前に、キノがもう一言つけ加える。


「嘘はなしよ」


 浩司はほんの一瞬涼醒を見やったが、キノの視線は動かない。今のキノに、話の始めの方に二言三言ふたことみこと口を開いたきりずっと無言でいる涼醒を気にする余裕はなかった。


「俺は…呪いがなくなったら、自制出来る自信がない。そして、そばにいたら…そう遠くないうちに、俺はあいつを悲しませることになる」


 浩司の声が震えているような気がする。それは、彼の思いがキノの心に濾過ろかされ伝わるせいだろうか。


「そんな…先のことなんてわからないじゃない。誰だって…」


「確実に、わかってることだ」


 キノの反論をさえぎり、浩司がきっぱりと言いきった。浩司から次の言葉が発せられる前に、涼醒が深い息を吐く。まだたきをも拒否するキノのが熱くなる。


「リシールの継承者が、34歳まで生きることはない。愛する者が死ぬ悲しみを与える…それがわかってるのに、あいつのところに戻る。そんなことは…俺には出来ない」


 開きかけたキノの口からは、ただ震える息だけが抜けていく。今いるこの空間ではなく心に開いた空洞くうどうを、こおりつくような風が吹き抜けていく。


「キノ…」


 一切いっさいの感情のれを遮断しゃだんしたひとみで、浩司が微笑む。


「これ以上悲しませずに、希由香の幸せを願う…俺に出来るのは、ここまでだ」


 自分以外の心音さえも聞こえそうな静寂の中、キノの目から涙が流れる。静かに泣けるようになった分、そのしずくは熱く声なき叫びをようすものだと、キノは今、身をもって実感していた。


 キノのぼやけた視界の遠く、希由香の寝顔が思い浮かんだ。それと同時に、ほんの一瞬、願わぬ思いが心をかすめる。


 安らかな表情で眠る希由香が、あのままめなければいい。閉じたまぶたの向こうで見る夢が、幸せなものならばと。


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