第11章 守るべきもの、切望するもの:冷たい仮面の下に①

 生温かい血液が、キノの手の平とそこに握られているナイフのとの隙間すきまめる。

 キノの指先は、刃が肉を断つ音を聞いたのだろうか。キノの指は、自らの持つナイフが大切な者の身体からだを突き刺す感触を知ってしまったのだろうか。


 キノの手を包む浩司の掌は、刺衝ししょうによる反応を示すことはなく、その唇からうめきを発することもなかった。


 浩司…?


 まるで途切れた時の狭間はざまにでもおちいったかのように、一瞬の沈黙が終わらない。


 目を開けるのが怖い…!


 キノの耳に、すぐ頭上にある浩司の口ではなくその向こうから、深い息を吐く音が聞こえた。静かな声が、それに続く。


「手を離してください。血を流すのは、あなたの心だけで充分ではないですか」


 リージェイクの言葉に、当惑した声で浩司がつぶやく。


「おまえ…」


 キノは恐る恐る目を開けた。あかい血に染まるナイフを、キノの手が握っている。それに重なる浩司の指が、とまどうようにかすかに動いた。


「あなたが離さなければ、希音さんの手も血をぬぐえない」


 そう言ったリージェイクの手にも、しっかりとナイフが握られている。ただし、キノの持つナイフの、ではなく刃の部分が。


 12センチほどの刃の先端は、浩司のシャツをわずかに突き抜けていて見えない。臙脂色えんじいろの繊維の一部分は、血を含みその濃さを増している。けれども、したたる鮮血の大部分は、浩司の身体からだではなく、リージェイクの手の平と指から流れるものだった。


「どうして…あなたが…」


 気が動転しているキノに、いったい何が起こったのかを把握する余裕はない。


「手が…早く、手当しなくちゃ…血が…手を…」


「もう、浩司の命をたてにしなくてもいい。あなたたちが、こんなことをする必要はない」


 動揺するキノのが、真剣な眼差まなざしを向けるリージェイクと、彼に視線を静止させている浩司との間を泳ぐ。


「浩司…私があなたを止めたのは、継承者の力を守るためではない。手をどけてください」


 無言で手元を見やった浩司が、後ろを振り返る。


 いつの間にか、そこに立っていた涼醒が、リージェイクの腕をつかんだ。


「先にあんたが離さなけりゃ、浩司は引かない。希音も…心配してる。次があるようなら、俺が止めるさ」


「私なら、大丈夫です」


 血まみれの手の平をナイフからがし、リージェイクはキノに微笑んだ。


「目に見える傷なら、時がいやせる。心は…そう簡単にはいかない」


「早く…手当を…」


 キノの視線が部屋をめぐる。


「私が…」


 驚きの消えぬ顔で、奏湖が立ち上がる。ジャルドは、険しさに悲しみを混ぜたような、あきらめを安堵あんどまくで覆ったような、形容しがたひとみをキノたちの方に向けたまま黙っている。

 浩司は、リージェイクの行動に対して何も言わないジャルドをいぶかし気に見つめた。その指を、涼醒が軽く叩く。


「浩司…この男、リージェイクは、ジャルドの計画には参加してない。信じるかどうかは別でも…希音にあんたを刺させるなんてやめてくれ…本気だったろ?」


 涼醒の視線をとらえ、浩司が溜息ためいきをつく。


「何を守りきれなかったとしても、キノは心を痛めるだろう。ひとつを選ぶなら…これしかなかったからな」


 ためらいを見せながらも、浩司は震えるキノの手を離した。一瞬後、キノの指から滑り落ちたナイフが、あかいしずくを跳ね上げる。


「浩司は…何ともない?」


 沈痛ちんつう面持おももちで浩司を見つめるキノのひとみには、言葉にするまでもない確たる思いが満ちていた。

 もう二度と、浩司に向けるナイフは握らないと。


「少しかすっただけだ」


「もう…」


「わかってる…すまなかった」


 キノに微笑んだ浩司の視線が、リージェイクへと移る。


「おまえはここの継承者のひとりだろう? いったい何を考えてる? 俺の力をなくさないためでなけりゃ、何故なぜこんな真似をする?」


 テーブルのはす向い。空いている椅子に腰を下ろすリージェイクに、浩司がたずねる。


「あなたの命を危険にさらしたくはなかった。一族のためではなく…個人的に。リシールではない者の手を使っても、動かすのが本人なら命までは奪えない。でも、あなたは9の継承者だ。ナイフを持つ希音さんに殺す気がなくても、もしかしたらと…ジャルドも、内心あせったでしょう」


 浩司がジャルドを見る。無言のまま目を合わせるジャルドは、ナイフが浩司を突こうとした時から一言も発していない。


 浩司はリージェイクへと視線を戻す。


「どうして死なないと知ってる?」


「自分で何度も試したからよ」


 浩司の問いに、答えたのは奏湖だった。救急箱を手に、リージェイクの横に険しい表情をして立っている。


「手を出して。平気だと知ってても、いつまでも血を見てたくないわ」


「…ありがとう。頼みます」


 リージェイクはあかく染まった左手をテーブルの上に乗せた。その手の平と指に負った一筋の傷は、深く口を開いているにもかかわらず、そこを覆う血はすでに固まり始めている。


「あなたが何を考えてるのか、全くわからない。ジャルドも…」


 けた皮膚に薬を塗ったガーゼをあてながら、奏湖が頭を振った。


「何を聞いてもずっと黙ったまま…」


「彼の本心を聞く時が来た。本当の自分が何を望んでいるのか…彼自身も、知るべきだとわかっているはずだ」


 包帯を巻かれた指をもう一方の手で撫でながら、リージェイクが静かに言った。


「知りたいのは私の方よ!」


 薬箱のふたを叩きつけるように閉じ、奏湖はジャルドへと向かう。


 キノと涼醒、そして、浩司の視線が奏湖に向けられ、次にジャルドへと移る。狂喜きょうきの光を失ったそのは、リージェイクをじっと見つめている。


「ジャルド…どうして黙ってるの? 話し合いを再開するんでしょう? 護りを手にするまで、あと一歩なのよ」


 肩に置かれた奏湖の手に自分の手を重ね、ジャルドが目を閉じる。


「9人の継承者を揃えて一族の繁栄を願う。それがあなたの望みじゃないの? 私はあなたが望むなら何だってするわ」


 目を開けたジャルドは奏湖を見上げ、引き寄せたその指先にそっと口づけた。


「奏湖…」


 そのささやきは聞き取れないほど小さく、奏湖はジャルドの口元に耳を寄せる。


「私のためには、もう何もしなくていい」


「え…?」

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