第8章 はびこる不安:不安の中を①

 高鳴る胸の鼓動こどうに合わせるかのように、キノは足を速める。


 雪の覆いを外した街並は、昨日夢で見たものとはおもむきことにしていた。けれども、見覚えのある石垣に近づいて行くキノの脳裏には、あの日希由香の手を離れた護りの姿が克明によみがえる。


「ここが浩司の家か?」


 塀の角で立ち止まったキノに、涼醒が追いついた。


「もしなかったら、どうしよう…」


 人気のない家を見上げながら、キノが不安気につぶやく。


「護りが見えるのも、動かせるのも希音だけだ。今も必ずここにある」


「動かすことも出来ないの?」


「発動者以外には、触れられない。たとえ希音が俺の手に乗せたとしても、俺はそれを感じないはずだ。シキが発動中の方が安心だと言ったのは、だからさ。護りを無理矢理奪われる心配は少ないからな」


「…明日の朝になったら、誰にでも見えるんでしょ?」


「その時は、ラシャにいるんだ…。浩司が待ってる」


 涼醒をしばし見つめうなずくと、キノは石垣へと向き直った。門のところまでゆっくりと歩き、深呼吸をして石柱のかげのぞく。


 あの時は雪があって、その上にそっと置いた…護りは、どこ…?


 辺りには落葉が積もり、植え込みの下の地面を隠している。震えるキノの手が、まだ乾燥しきってはいない枯葉をき分ける。


 力の護りは、2年8ヶ月ほど前と変わらぬ姿でそこにあった。


 浩司のひとみと同じ色の…。


 キノは、護りをそっと拾い上げる。自分自身の指に初めて触れる小さな石。その手触りは、記憶にあるものと同じだった。


 浩司…護りは必ず持って帰るから、希由香を悲しませないで…。


 頭上にかざした黒い小石が、キノのの上で闇色の光を放つ。


 どうか、二人の未来が、幸せなものでありますように…。


 かつて希由香がそうしたように、キノは護りに口づけて願った。




 力の護りをたずさえ、キノと涼醒は折返しきと途につく。

 R駅から二人が乗り込んだエクスプレスの車内に、リシールの姿は見当たらない。朝M駅を出てから今まで、涼醒が感知したリシールは皆無だった。それは二人にとって安全なことにもかかわらず、かえって不気味な不安をき立てる。


 たとえ全人口の0 . 001%強しか存在しないリシールと言えど、一人くらいはすれ違う者がいるのが自然ではないか。あるいは、ジャルドという男に対する疑念ぎねんの芽が知らぬ間に生い茂り、自分たちを追う者の不在を不自然なものとしてとらえてしまっているのだろうか。


 キノはうとうとしながらも、意識を眠りの中に解き放つことが出来ず、その心は二つの不安の間を絶えず行き交っていた。


 誰かが私たちをつけて来るんじゃないか。R市で誰かが待ちせてるんじゃないか。そう心配してたけど…誰もいない。でも、あのジャルドが、何のさくも考えてないなんてことがあるとは思えない…。


 頭の向きを変えたキノのまぶたの裏が、傾きかけた陽光を浴びてに染まる。


 もし、無事に戻れて、夜明けにラシャに降りたら…明日中には、浩司の祈りが発動される。それが何かを考えると…どうしてだろう? 護りを手にしてから、不安でたまらない。私は浩司を信じてるのに…彼の望みを理解することが出来ないんじゃないかって…。


 キノはうっすらと目を開ける。


 希由香の思いならわかる。もし、彼女が決して望まないだろうことを、浩司がするつもりでいるとしたら…私にそれを止めることは出来るの…?


「眠れないのか?」


 振り向いたキノの目に、涼醒が映る。その顔からは、自分にも色濃く浮かんでいるであろう不安のかげが見て取れる。


「いろいろ考えちゃって…」


 キノは軽く伸びをしながら、明るい声で続ける。


「でも、大丈夫。元気よ。涼醒は?」


「俺も元気さ」


 涼醒が笑う。


「ここまでは、無事に来れたな」


 無邪気な笑みで覆い隠すには、二人の抱える不安は大き過ぎた。キノは互いのひとみから消えない核心を口にする。


「涼醒も…このまま、何事もなく館に帰れるとは思ってないんでしょ?」


「…願っちゃいるけどな」


「やっぱり、ジャルドが何か…?」


「俺もジーグと同じ意見さ。あの男が、何の理由もなくあんな約束するわけがない。自分が不利に見える条件を、相手に同意させるのは簡単だ。一見、俺たちに都合いいと思わせて、その裏には…ジャルドにとって有利な何かがあるに決まってる」


「じゃあ、どうして…?」


「ジャルドが何をたくらんでるとしても、奴は館から出られない。ほかの継承者たちもな。それで軽くなる不安は確かにあるだろ? ジーグはそう考えたはずさ。精神的な重圧は少ない方がいい。希音もそうだが…特に俺のな」


「涼醒の?」


「俺がどんなことをしたって、継承者にはかなわない。そのプレッシャーを除くために、ジーグはあえて乗ったんだ。本当の理由がわかる前にな。ジーグに感知されると知ってて、力を使う奴はいないだろうけど…」


 涼醒が力なく微笑む。


「こんな心配までさせて、悪いな」


「そんなことないよ。涼醒がいなかったら、護りは今ここになかったし…私だって、もっと不安だったはずだもん」


「…浩司がいたら、もっと安心出来ただろ?」


 キノが一瞬言葉に詰まると、涼醒は乱暴に髪をき上げて頭を振った。


「悪かった。おまえが困るのわかってて言ったんだ。答えなくていいからな」


 涼醒の作る笑顔が、キノの胸を痛める。


「ヴァイの奴らへの不安だけでも手一杯なのに、よけいなこと思わせて…頼りない護衛だな」


 キノは首を振る。


「涼醒は、ちゃんと私を安心させて、守ってくれてるよ」


「浩司と俺は違う。それはわかってるさ」


 涼醒は、窓の向こうに広がる夕陽に目をやった。


「もうすぐ陽が落ちる」


 朱色の空は、キノにあのの海を思い出させる。


「希由香がR市に行ったのは、海に陽が沈むのを見たかったからなの。本当は、雪の降る日、浩司と一緒に…」


「館にいるあの発動者…今も浩司が好きなのか?」


「…うん。多分、これからも…」


「浩司があんなに無理してたのは、彼女とおまえのためなんだろ?」


「希由香のためよ。私はその代わり」


 キノが戻した視線の先で、涼醒がかすかに眉を寄せる。


「浩司は、自分が希由香にしてやれることのために、護りを見つけたいって…発動出来るとは思わなかったけど」


「…何で別れちまったんだよ?」


 キノはゆっくりとまたたいた。涼醒が疑問に思うであろうと予測していたにもかかわらず、その問いに答える言葉が見つからない。


「浩司が…」


 遠くを見るキノのがわずかにうるむ。


「どうして別れることを選んだのか、その理由は…本人のいないところで話す内容じゃないの」


「あいつ…自分が継承者だって、最近まで知らなかったんだろ? そんなことあるのかって聞いたら、俺の素性すじょうが知りたけりゃ希音に教えてもらえって言ったんだ。そのことと関係あるなら…話してくれないか」


 涼醒のが真剣なものになる。


「俺は…浩司が継承者じゃなくて、11歳も年上じゃなかったとしても、あいつにはかなわないような気がするよ。何かこう…太刀打たちうち出来ないものがあるんだ。あの精神の強さにも、少しあこがれる。最初は、気に食わない奴だと思ったけどな」


「…寂しくていられないなら…弱い自分に負けて、生まれて来たことを後悔するのが嫌なら、強くなるしかないでしょ?」


 キノの濡れたひとみが光る。


「希由香は…浩司を救いたかったの。私自身もそう願ってる。彼女が発動した祈りの力が、私を浩司に会わせたんだって…信じてるの」


 キノは静かな口調で話し続けた。


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