第7章 渦中へ:祈りの呪文②

 そこは同じ暖色系の壁にオレンジの明りが灯る居心地の良さそうな空間で、キノはほっとする。

 たとえ意識がなかろうと、寒々しい部屋で一人横たわる希由香の姿は、さぞ胸の痛む光景だったろう。


「希由香…?」


 そっと呼びかけるように、キノがつぶやく。


「もうすぐ…」


 天蓋てんがいつきのベッドのわきひざまずき、キノは希由香を見つめる。めることのない眠りの中にいる彼女の顔は、幸せな夢でも見ているかのように穏やかだった。


「浩司が来るから…」


 キノが微笑んだ。


「目がめる時、そばに浩司がいるはずよ」


 キノの脳裏に浮かんだ希由香の笑顔に、浩司のひとみの闇が重なる。


「護りが叶えた祈りは、浩司を闇から救える人に出会えることだって信じてる。それは私のことだって。だから…」


 だけど、もし、そうじゃなかったら? 護りが手に入らなかったら? もし、浩司の祈りが…希由香の望むことと全然違うものだったら? 私は…。


 肩に置かれた手の温かさに振り向くと、涼醒の顔がにじんで見えた。


「涼醒…」


 キノは手の甲をまぶたに押しあててうつむいた。知らずに流していた涙が熱を吸い、少しずつ

蒸発して行く。


「私…怖いの」


「大丈夫だ」


「護りを持って帰れないかもしれない」


「必ず手に入る」


「希由香が泣くようなことが起きたら?」


「もう泣かさないって、あの浩司が言ったんだろ? 信じてやれよ」


「でも…希由香が浩司に会える日は、二度と来ないかもしれない」


「ちゃんと会えるさ」


 キノが顔を上げる。


「何の根拠があってそう言ってるの? 二人がどんな思いでいるのか、涼醒は知らないじゃない!」


 焦燥感しょうそうかんられるキノのを見つめ、涼醒が微笑んだ。


「もし、今会えなくても、どこでどんな状況になろうと、また会える。みんなそういう相手とめぐり会えるって信じてるんだろ? あとはおまえも言ったように、どうにもならないことがあるなら…二人が出会うのはそれだと信じろ。その後で何を選ぶかは本人たちだけどな」


 キノは希由香を見る。


 人形のように動かない白い顔。浩司への思いを他人に触れられるのを拒み、結界を張って眠る心。


「信じるよ…」


 キノはラシャに眠る浩司を思う。


 少女趣味だと笑ってもいい。まばたきに消え去る幻想でかまわない。だから、二人が今見てる夢は同じだと思わせて…。ただ微笑み合って寄り添う二人の夢を、私はめながら見ていたい…。


「行って来るね」


 浩司と二人で…待ってて。


 キノは希由香の耳元にささやくと、ゆっくりと立ち上がった。涼醒を見るそのは、残る不安の影を覆って余りある強い光に満ちている。


「ありがとう。涼醒がここにいてくれて、よかった。もうすぐ朝だし…これからの予定を立てなくちゃ」


 涼醒が笑顔で頷いた。


 ジーグが支えるドアの前で、キノは再度希由香を振り返る。


「心配は要らん。彼女には私がついている。おまえたちも用心するに越したことはないが…明日の6時14分まで、護りはおまえにしか見えんからな。彼らに奪うことは出来ん」


「うん…」


 ジーグは真剣な瞳でキノを見つめる。


「希音。聞いておきたいことがある」


「何…?」


「祈りの呪文は覚えているな?」


「呪文? そんなの知らな…」


 キノは横に振りかけた首を止めた。


「どれかはわからないけど…希由香が発動した時に言ったことは全部覚えてる。でも、どれが呪文でどれが祈りなのか…ジーグは知ってるの?」


「本来は、ラシャでも最上者しか知り得ないものだが…ヴァイの状況次第では必要なことがあるかも知れんと、シキから教えられている」


「呪文は何て言うの? 私がちゃんと知ってた方がいいことなんでしょう?」


 キノはジーグを食い入るように見つめた。見返すあかが光る。


「『クラ シャウラ シウユ』ラシャの昔の言葉で『幸運は常になんじとともにある』という意味だ。ただし、呪文と言っても、となえる言葉そのものではなく、念じる心に護りはこたえる」


 キノのが遠くなる。


「『幸運がいつもあなたのそばにありますように』…」


「紫野希由香はそうとなえたか」


「これが祈りの呪文だったら…その後に言ったことが祈り…?」


「そうだ。呪文なしで護りが発動することはない。何を祈ったにせよ…紫野希由香の祈

りは継続するものだったか?」


 祈りにあったのが私なら、浩司はもうすでに出会ってることになる…。


「私は、もう叶ってると思う」


「…そうか。ならば…」


 ジーグの表情が急に険しいものとなり、その視線が向こうの部屋へと向けられる。


挨拶あいさつが来たようだな」


「え…?」


「ジーグ! 希音! 誰か来る」


 涼醒が二人を呼ぶ。


「顔を合わせておくとするか」


 キノとともに歩きながら、ジーグが言った。


「誰なの?」


「おまえたちが最も警戒せねばならん者だ」


 廊下に続く扉の前に涼醒が立っている。


「足音は聞こえるけど、気配がない…汐か?」


「いや、汐ではない」


 ジーグは鋭いひとみで扉を一瞥いちべつすると、涼醒とキノを見据えた。


「二人ともよく聞け。汐はこの館の継承者として皆を指揮してはいるが、実質的な指導者は別にいる。その者には…充分注意せねばならん」


「そいつが…」


 涼醒が扉に目を向ける。


「今ここに来る」


 木製のドアをノックする控えめな音が、息をめるキノの耳にはまるで時計のアラームのように響く。


「ジーグ。返事がないのは入ってもかまわないということですね?」


 二度目のノックの後、変わったアクセントのある若い男の声が聞こえた。一呼吸置いて外から開かれた扉の向こうで、その男が深々と頭を下げる。


「イエルのリシール、橘涼醒。そして、護りを発見に導く者、海路希音…」


 男はゆるりと顔を上げた。


「初めまして…私はジャルディーン・セイク。ジャルドとお呼びください」


 ジャルドの視線がキノにとどまる。


「ヴァイのリシールは、あなたたちを心から歓迎します」


「ジャルディーン・セイク…」


 震える声でキノがつぶやいた。背後の扉から流れ込む風が、男の肩にかかる明褐色の髪を揺らした。中空の間で初めて会った時と同じように、キノの真向まっこうから射抜きながら、ジャルドが微笑む。


 キノはその威圧感に後ずさり、確信する。


 ジャルドの顔に浮かぶのは氷のように冷酷な笑みではなく、いずれ手にする獲物を前に湧く灼熱しゃくねつ狂喜きょうきなのだと。そして、金色のひとみが逃しはしないと語るのは、まぎれもなく自分であることを。

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