第3章 Reseal(リシール):リシールの継承者

「キノさん、こんばんは。わざわざここまで来てくれて、ありがとう。涼醒も」


 そばまで来た二人に、湶樹が言った。


「ううん、私こそ。湶樹ちゃんに…聞きたいことがあって」


「入って。中で話しましょう」


 涼醒が開けた扉をくぐると、キノは目を見開いた。室内はその外観からは想像もつかないほど明るく、西欧風のインテリアが暖かい雰囲気を作っている。


「中は普通の家と同じだから、安心して。外から見たらお化け屋敷みたいで、不気味だったでしょう。こんな森の中だし」


 キノの驚いた様子を見て、湶樹は微笑んで言った。


「あながち間違ってもないだろ。別世界への入り口だからな」


 涼醒が笑いながら扉を閉める。


「希音、帰りも送って行くから、話が終わったら声かけろよ」


「うん…ありがとう」


 キノは微笑んでうなずいた。湶樹とともに、館の奥に続く廊下へと向かう。

 階段の下で、涼醒が二人を振り返った。


「湶樹、予感は当たりだ。来たのはラシャの者じゃない。今も希音のところにいる。よく聞いてみろよ。奴が何者か、わかるに越したことはないからな」


 足を止めたキノが、驚きと当惑に満ちた表情で湶樹を見た。見返すその顔にも、かすかな困惑の色が浮かんでいる。


「コウがラシャの者じゃないって…どういうこと?」


 キノが涼醒へと視線を移す。


「湶樹に説明してもらえ。その方がいい」


 涼醒はそう言うと、階上へと姿を消した。その場に立ち尽くしているキノを、湶樹が促す。


「キノさん、こっちの部屋へ」


 二人は、突き当たりにある応接室らしい部屋のソファーに腰を下ろした。用意されていたカップに、湶樹が紅茶を注ぐ。


「今うちにいると何なの? 何でラシャの者じゃないってわかるの?」


 湶樹が手を落ち着かせるのを待って、キノが口を開く。


「ラシャの者は、地上に長くはいられない。降りた次の日の夜明けに、必ず戻るわ。ラシャの使いは2日の午前0時にここに降りて、そのまま、キノさんのところへ行った。ラシャの者は自分の力だけで帰れるから、使いはもうすでにラシャに帰ったものと思っていたの。私はそれを感知出来るけど、彼が自分の気配を消していたら気づかないこともありえるから」


 キノは口を挟まずに、湶樹の話に耳をかたむける。


「彼がここイエルに来てから、もう4日経つわ。今もいるのなら、ラシャの者じゃないのは確かよ。私は中空の間でその道を開いたけど、彼の姿を見てはいないの。もし会っていたら、ラシャの者かどうかすぐにわかったんだけど…彼の容貌ようぼうは?」


「コウは…あおっぽいマントみたいなのを着てて…あとは、普通の人間の男と変わらない」


「ラシャの使いは、コウというのね?」


「名前はないって言うから、そう呼ぶことにしたの。浩司にそっくりだから」


「浩司というのは?」


 落ち着いた湶樹と向かい合ううちに、キノの動揺も徐々に収まって来る。深呼吸をし、キノが話し始める。

 ずっと見てきた夢の謎。希由香と自分を繋ぐ記憶。そして、彼女の愛する浩司。


 一通り話し終えると、キノは息をついた。


「コウを初めて見た時、浩司が来たと思ったの。でも、が違った。話し方も」


 黙って話を聞いていた湶樹が、眉間に指をあて目を閉じる。その額には、深い思案によるしわが浅く刻まれている。


「コウは何者なの?」


 キノがつぶやいた。目を開けた湶樹は、キノのをしっかりと見つめ、静かに話し出す。


「彼は、ラシャの使いよ。でも、キノさんの言うように、彼が浩司というヴァイの人間にそっくりなら…本人だわ」


 キノを取り巻く空気が固まる。


「ラシャの使いは、浩司本人よ」


 湶樹が繰り返す。キノは頭を振った。


「どうして? ラシャの者が浩司の姿になってるんじゃないの? 人間じゃないなら、それくらい簡単に出来るんでしょう?」


「さっきも言ったように、ラシャの者なら、4日間も地上にはとどまれない。それに、彼ら

に姿を変えるような力はないわ。その必要もない。たとえ地上に降りた時でも、リシール以外と接することはまずないの」


「でも…消えたよ。私の部屋から、姿を消して戻って来た」


 しばらく考え込んでから、湶樹が言った。


「彼は…指輪を持ってなかった? 透明で薄い赤色の。指にはめずに、首からげてたかもしれないけど…」


「指輪…してたよ。左手の中指に。それが何なの?」


「ラシャの指輪よ。繋がる空間を移動出来るわ。通常、移動出来る空間はラシャにしかないけど、今一時的に、ここの中空の間とキノさんの部屋を、特殊な空間で繋いであるの。彼はそこを通ったのよ」


「そんな…じゃあ、本当に? 浩司がコウを演じてるの? 信じられないよ」


 キノの目が宙を彷徨う。


が違うって言ったわね。ラシャに暗示をかけられているのかもしれない。ラシャの思い通りに行動するように」


 キノの視線が湶樹へと戻り、静止する。 


「ただ、それには浩司本人の同意が必要だけど、彼が護りの石を見つけるのに協力してるのなら問題ないわ。ラシャに関する知識から、キノさんに必要なことを伝えさせる。そして、彼の持つ情報から、話してはならないことを制限する。多分、そうして作られたのが、コウという使いだと思う」


「…何のためにそんなことするの? 浩司は普通の人間だよ。いくら希由香が護りを発動したからって、それまで浩司はラシャなんか知らないはずなのに…」


 呆然とするキノに、湶樹は更なる事実を告げる。


「キノさん。浩司は…普通の人間じゃないわ」


「え? 今…何て?」


「ラシャの指輪は、制御する力がなければ扱えないの。しかも、記憶の同調のためにキノさんを催眠状態にして誘導する…それを、彼自身がしてるんでしょう?」


「そうだけど、湶樹ちゃんが今言ったラシャの暗示で、いろんなことが出来るようになってるんじゃないの?」


「その人間が、本来持つ能力以上の力は使えない。その暗示も、かけられる側の能力も必要とする、高度なものだわ」


「コウは、ラシャの者じゃない、浩司は、普通の人間でもない…じゃあ、いったい何者なの?」


 湶樹を見つめたまま、キノは確かめるようにゆっくりと言った。


「キノさんは、彼の足を見た?」


「足? ラシャの者には足がないの?」


「そうじゃなくて…彼の左足の人差し指にこぶのようなものがあるか知りたいの」


 コウの足の指…? 


「見てないよ。すそが床まであったし…指のこぶって何なの? もし、それがあったとしたら?」


 湶樹が深く息を吸い、答える。


「リシールよ。浩司の足には、その印があるはずだわ。それに、たぶん…リシールの中でも力を持った…。彼の言うように、希由香の記憶を思い出すことが出来るのはキノさん自身の力よ。でも、誘導する方にも相応の力がなければ、とても無理なの。彼には…それが出来る」


 混乱を極めたキノの脳裏に、涼醒の言葉が浮かぶ。


 『リシールの継承者けいしょうしゃ


「湶樹ちゃんと同じ…? 浩司も、継承者だってこと?」


 湶樹の表情が、少しだけ強張る。


「涼醒に聞いたの?」


「うん…湶樹ちゃんの力は、特別なものだって。浩司も…そうなの?」


「はっきりとは言えないけど…」


 言葉をにごした湶樹が、何かを思いついたように立ち上がり、着ていたカーディガンを脱いだ。びっくりしているキノの前に、細く白い腕を伸ばす。


「見える? ここに小さなあざがあるの」


 キノは、湶樹が示す場所をのぞき込む。二の腕の内側に、まるでむらさきのインクで描いたようにはっきりとした細い線がいくつかある。小指の爪ほどの大きさの『V』のような文字に、『I』が三つ並んでいるように見える。


「何て描いてあるの?」


「ローマ数字で8。継承者の身体には、必ずこのあざがあるわ。その場所は人によって違うし、数字も1から9まで。順番に現れるわけでもなく、同じ時に何人存在するかも決まっていない。だけど、9人揃うことは…滅多にないわ。キノさんは希由香の記憶の中で、浩司を知ってるでしょう? 彼の身体のどこかに、これと同じようなあざはなかった?」


 夢で見た浩司…紫色のあざ…?


 キノの知る限り、浩司の皮膚に刻まれた数字はない。


「ないと思うけど、わからない。隅々すみずみまで知ってるわけじゃないし。足の指も、こぶなんかあったかどうか…。湶樹ちゃんにも?」


「生まれた時からあるわ。子供がリシールかどうか、それで判断出来るの」


 服を整えた湶樹が、テーブルの上に素足を乗せた。左の人差し指。付け根のところが、他より一回り太い。


「肌色の指輪をしてるみたい。それか、皮膚の内側…指の骨に、直接指輪を付けてるような…」


 キノがそう言った瞬間、湶樹が突然後ろを振り返った。


「何? どうしたの?」


 キノがその視線の先を追う。ドアの左側の壁を見つめる湶樹のひとみが、険しく光る。何が起きたのかわからずうろたえるキノの耳に、ドアをノックする音が聞こえた。キノが目をやると、すでにそこには、硬い表情をした涼醒が立っている。


「湶樹、今…」


「ええ」


 二人の目がキノに向けられる。


「いったい…何が…?」


「奴が、来たらしい」


 答えたのは涼醒だった。


「奴って…コウ?」


 キノの視線が、涼醒から湶樹へと移る。


「私がここにいること、わかって来たの?」


「たとえリシールでも、それは無理よ。あなたを探しに来たとはかぎらないけど、隣にいればもう…」


 湶樹の言葉を涼醒がさえぎる。


「奴はリシールなのか?」


「そう、ヴァイの。間違いないと思うわ。多分、その力からすると…継承者よ。ラシャの指輪を使えるの」


「…希音がここにいるのは、もう知ってるってことか」


 涼醒がドアを見やる。キノのを真直ぐに見て、湶樹が言った。


「隣に中空ちゅうくうがあるの。そこに…彼がいるわ。行ってみましょう」



 部屋の外に出て左に少し行くと、クリーム色の壁紙には不似合いなすすけた灰色のドアがあった。湶樹がその取手に手を掛けると、重そうな石の扉が、まるで薄いパネルで出来ているかのように音もなく開いた。


 鼓動がその速度を最大にするキノの前に、洞窟どうくつのような部屋が現れた。そして、中央にある2メートル四方の岩の囲いの前には、一人の男が立っている。その鋭い目が、三人を真正面から見つめている。


「コウ!」


 キノが近づいて行く。男の一歩手前で足を止め、目を見開いた。


「その…コウじゃ…ない」


 男は、無言でキノの腕をつかんだ。その頭上にもう一方の手をかざす。


「おい! 何を…」


 涼醒が叫ぶのと、男の指がキノの額に触れるのは同時だった。


「こう…」


 つぶやきは途切れ、キノの全身から力が抜けて行く。崩れそうになるその身体からだを抱きとめ、男が湶樹たちの方を向いた。


「あなたが、ラシャからの使いね。そして、ヴァイのリシール…。キノさんを、どうするつもりなの?」


「…連れて帰る。よけいなことを聞かせる前に、眠らせただけだ」


「あなたが浩司本人ということは、もう知ってるわ。ラシャの暗示はけたのね。私と話さなくても、キノさんならきっとすぐに気づいたはずよ」


「だろうな。そんなことはいい」


 浩司がにらむように湶樹を見る。


「ここの継承者か」


「そう、たちばな湶樹せんじゅ。あなたも、でしょう?」


 湶樹は目を逸らさずに言った。


「最近になって知ったことだがな」


「何?」


 涼醒の声に、浩司が目を向ける。


「おまえもリシールか」


「涼醒だ。湶樹の弟さ。それより、どういうことだよ。生まれた時から、継承者だろ?」


「そうらしいな。ただ、俺が知らなかっただけだ」


 浩司は冷めた目で薄く笑い、湶樹へと視線を戻す。涼醒が開きかけた口を閉じる。


「ラシャが何を命じたか知らないが、これ以上、キノには近づくな。護りは必ず見つけると伝えろ」


 湶樹がかすかに首を振る。


「ラシャは私たちに、キノさんにかかわるなと言ったわ。あなたがここに降りる道を開くこと以外、何も命じられていない。キノさんを、子供の頃から知ってるの。彼女の力になりたいと思ってる。だから話したのよ。ラシャに言われたからじゃないわ」


「そうか…」


 浩司のひとみから敵意が消える。


「それなら…頼みがある。力の護りが見つかっても、それで全てが終わりじゃない。ラシャはまだ、海路かいじ希音きのんを必要とする。俺がヴァイに戻った後は、おまえたちがキノを守ってやれ」


 流れる沈黙の中、浩司は部屋の奥に向かってゆっくりと歩き出した。涼醒がその肩をつかむ。


「ちょっと待て。ちゃんと説明しろよ。ラシャが何だって? これ以上、希音に何させる気なんだよ」


「涼醒、やめて」


 湶樹が弟を引き止める。浩司は暗いで振り返り、湶樹をじっと見つめた。


「俺はラシャもリシールも信用していない。出来るなら俺が助けてやりたいが…もし間に合わないようなら…」


「わかったわ」


 静かな声で言う湶樹に、浩司がうなずく。涼醒は、二人のやり取りに眉を寄せる。


「ヴァイのリシール…しかも継承者が、信用してもいないラシャのために、使いとしてここに降りてる? 希音を助けたいって、何であんたが…?」


 悲しみと切なさをかすかにのぞかせた浩司のひとみが、涼醒を見据える。 


「涼醒、だったな。理由なんかわからなくても…大切なら守れ」


 そう言い残すと、浩司の身体は岩壁に吸い込まれるように消えて行った。その腕に抱えた、キノとともに。

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