第153話   最後の、妥協案①

 避難勧告を出されてから、それぞれに行動、選択していくエメロ国民の姿を、空き家の二階建ての屋根に座って眺めている少年がいた。


 何度も再利用していた変装は、修繕不可能なほど崩れてしまったので、捨ててしまっている。今の彼は、黒一色の影のようであった。


「ヒメさん、やっぱ帰らないのかなぁ。あれ帰らないつもりだろうなぁ。この国のために、ここまでやる性格だとは思わなかったよ」


 竜の咆哮が聞こえる。空気がビリビリと振動し、今度ばかりは本気なのだと、伝わってくる。


「ばかだなぁヒメさんは。普通、逃げるよね、こんな状況になったら」


 三男は屋根の上で大きく腰をそらすと、背景のエメロ城を逆さまに眺めた。


「ヒメさんはこれからも、この国で自分にできることを見つけて、やっていくのかなぁ。これからも、ずっと……。それか、まだ帰る気が残ってるのかな。帰ってきてくれるって、まだ期待しててもいいのかな……」


 ヒメがこのお城で、うろたえたり戦ったり、葛藤したりしながら、どんどん成長していく姿は、三男の王子にとってとても意外なものに映っていた。


 ヒメが成長していく姿が、嬉しくないわけではないが、ここで生きる居場所を見つけられてしまったような、そんな気がして、帰ってきてくれるかと日に日に不安になっていた。ヒメがこの国を捨てることなど、できないのではないか。この国を第二の故郷のように思っているのではないか。疑問は愚問に変化した。


 ヒメの気持ちは、目に見えている。


「そろそろ潮時だな、俺も……」


 ヒメは今、マリーベル姫としてエメロ城の一室に控えている。




「えええ!? 避難せずに、私の誕生日の支度しようとしてる人たちがいるのぉ!?」


 執事ジョージからの報告を受けたヒメは、信じられないとばかりに、よろけた。


「卵の怪物たちの恐ろしさを、知らないのかな。私は竜の巣にいた時に、本当に本当に怖い思いをしたから、今外に出て変なことしてる人たちのことが、すごく心配だよ。あ、そうだ、私が捕まえて、無理矢理どこかに閉じ込めておくよ。絶対にそのほうが安全だから」


「その心配には及びませんよ、姫様。現在、さっそく城の者が向かっておりますゆえ」


「あぁ、そうだったんだ。よかった。自分たちの避難を後回しにしてまで、お祭の支度しようとするなんて、そんなに楽しみにしてくれてたんだね、マリーベル姫の誕生日」


 しかし、そんなおめでたい日に大怪我をされては、誰も素直に喜べないだろうと思われた。城の外の事はジョージたち城の者がやると言うので、ヒメはおとなしく部屋にこもっていることにした。本音を言えば色々と手伝いたいのだが、てんやわんやしている城内でヒメまでうろうろと歩きまわっていては、逆に足手まといだと思ったためだった。


「あーあ、せめて私の他にも、マリーベル姫の影武者がいてくれたらなぁ、少しは私も動きやすくなるのに」


 ナターシャと一緒に出かけたあの日以来、ヒメの影武者はどこにもいなくなっていた。そもそもあれは同胞がヒメの代わりに勤めていただけであり、同胞のさじ加減次第では、二度と現れないのである。


 現れるのを待つのではなく、ヒメのほうから同胞の誰かにお願いをしない限りは、現れないのだった。そこがピンと来ていないヒメである。


 椅子に腰掛け、カトラリー類を扱う店から献上された、今日のドレスを見下ろした。まるでレースのテーブルクロスで作られたような、軽やかで薄手のセクシーな衣装。遠くから見たときに、まるでレースの妖精のように大変魅力的に映るように作ってくれたそうだが、今日はそれを披露することは、できなさそうだった。


「いつもの動きやすいパン屋さんのドレスに着替えようかなぁ。このドレスも動きやすいけれど、部屋にこもっているだけの部屋着にしちゃ、もったいないよ」


 ヒメは立ち上がり、着替えようとドレスに手をかけた、その時、扉ではなく天井板が、こんこんと鳴った。こんなことをするのは竜の巣の同胞以外に、ヒメは知らない。


「はーい」


 ヒメの返事を待ってから、ずらした天井板から逆さまに顔を出し、前転して器用に床に着地したのは、黒装束に身を包んだ三男だった。


「やっほ、ヒメさん。なんだか外がえらいことになってるね」


「ほんとにね。私は今日は一日、みんなのお邪魔にならないように、部屋の中にすっこんでようと思ってるの。みんなすっごく忙しそうだから」


「じゃあ、ちょうどいいじゃん。ちゃちゃっとエメロ王に絶望吐いてさあ、こっそり俺と竜の巣に帰ろうよ」


「ええ!?」


「だーってさー、うすうす気づいているとは思うけど、この国もう危ないよ? 隣の国の竜がこんなに元気に鳴いてるんだから。それにもうすぐ、卵も到着するよ。ヒメさんはまた怖い思いしたいの?」


 三男の王子の大きな黄金色の目が、吊り上がっている。彼がヒメに妥協案を提示してくれるのは、これまでにも何度かあった。


 だが、もうヒメは自分だけ安全な場所に逃げることは、できなかった。この国で大事なものがたくさんできてしまい、この国の一員としての、自覚ができてしまったから。


「ごめん、三男さん。私はここに残るよ。任務のことを忘れているわけじゃないけれど、今この国を去るべきじゃないと思うんだ」


「今? もうずっと帰らないつもりに聞こえるんだけど。この国と運命を共にするつもりなの?」


 ヒメは容赦のない三男の様子に焦燥した。今までヒメの中ではぐらかしてきたことが、針の先端のようになって喉元に差し迫ってくる。


「今度という今度は、マジで危険だ。俺にはわかる。もうエメロ国は終わるよ。お城にいるリアンたちは、兵士に守られて生き残るだろうけど、外にいる一般庶民は、みんな卵の使者にやられるよ。シグマが不調なこと、誰も把握してないんだからね」


「シグマさんが? そういえば最近、シグマさんおとなしかったな。ナターシャが彼に薬を買ってたんだけど、効いてないのかな……」


 ヒメは思い出す。城下町で英雄扱いされていたシグマのことを。皆、シグマを頼りにし、宛てにしているようにも見えた。シグマこそが国民の心の支えであり、そして、だからこそ避難もせずに広場で集まる者が出ているのだとも悟った。


「ヒメさん、ほんとに帰らないの? ヒメさんがここにいても、もうどうにもならないよ? ここでヒメさんにできる事は、任務を終わらせるぐらいしか、残ってないんだよ」


 それは違うと、ヒメの中のヒメが否定した。自分がエメロ国のためにできる事は、たくさんある、今ならそう確信できる。自信を持って、そう言える。


「帰れないよ。そんな話を聞いたら、ますます帰れない。私、剣を取る。卵の使者と、戦うよ」


 三男の金色の両眼が、歪につり上がる。その雰囲気はどこか竜の巣の王に似ていた。顔立ちはちっとも違うのに。やはり親子だからだと、ヒメは思った。


「ヒメさん、怪我するかもよ。卵の使者に、殺されるかもしれないよ。でも戦うの? なんで? この国はヒメさんと何の関係もないんだよ?」


「私も以前までは、そう思ってた。でももう、私にとってここは、大事な場所なの。ここで頑張ってる人たちを、見殺しになんてできない」


 ヒメはいつものように、三男が折れて引き下がってくれるのを、心のどこかで待っていた。いつも理解を示してくれて、妥協案を提示してくれて、彼はいつもヒメを助けてくれた。多少意見のすれ違いで対立することがあっても、ヒメを本気で追い込むことなど今までなかった。


 その彼が今、本気でヒメを非難している。ヒメのやっている事全てが愚かだと、目尻を吊り上げて全否定している。


 ヒメは怖かった。彼が次に何を言い出すのかが。そして自分がなんと言い返して、彼の妥協案を折ってしまうのかが。


(私はいつからこんな人間になってしまったんだろう。目の前の家族との約束すら、もう守れないなんて)


 自分の意思を捨てて、竜の巣で生きていた時のほうが、楽だっただろうか。こんなに苦しく怖い思いをせずに済んだだろうか。


 目の前の彼に、失望されないで済んだだろうか。いつもヘラヘラしている彼を、ここまで激怒させなかっただろうか。


「ヒメさん、帰ってきてくれるって約束したじゃないか! 竜の巣から旅立つときに、あの崖の下で竜の巣を見上げながら、約束してくれたじゃないか。忘れたのかよ!」


 崖の下と聞いて、ヒメは思い出した。初めての遠征の日、三男の小さな背中におぶってもらって、崖の下へと、急降下したあの日。


 彼は崖の上の、竜の巣の大岩を眺めていた。


『ねえヒメさん……必ずここに、帰って、くるよね……』


 今にして思えば、彼の声は、その横顔は、どこか不安そうだった。


 そんな彼に、当時のヒメは、笑顔でうなずいて、こう言ったのだ。


『もちろんだよ』


 あの崖を見上げた時、彼と確かに約束した。帰ってくると。


「そうだね、約束したね……」


 ヒメは罪悪感で押しつぶされそうだったけれど、潰れそうな自分を支えてでも、この場所には自分が必要なのだと、強い確信を持ってしまっていた。


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