34、「辛」に棒を足すと「幸」になる?

 七月の中旬でした。辻村深月さんの作品が舞台化するということで、これは何としてでも見に行かなければと思い、東京まで出向きました。私は辻村深月さんの大ファンです。映画と違い、舞台は生で見ないと意味がない! と思い、受験生の夏という事実は一瞬だけ見ないふりをしました。

 母の家がそれなりに近いところにあったので、観劇の後、母のところに遊びに行きました。ついでにIくんやUちゃんの様子も見に行きました。Kちゃんの死からは二、三週間が経っていましたが、どうなっているのか心配でした。

 小さなアパートの部屋の隅には、簡単なお仏壇のような一角がありました。遺影のKちゃんは、お気に入りの玩具を口に咥えて、眩しいくらいにっこりと笑っていました。その傍らには、お骨の入った小さな箱と、お線香。お鈴の音は狭い部屋によく響きました。

 母の話によれば、IくんはKちゃんの死がかなり大きなトラウマになっているらしく、情緒不安定が続いているそうでした。「ちょっとしたことで癇癪を起こしたり、急に泣き出したりすることがあるかもしれないけど、そっと見守っておいてあげて」と母には言われました。

 実際に会ったIくんは、思っていたよりも元気そうに見えました。母が目まぐるしく動かなければいけなかった間、気を紛らわせるためにゲームを解禁したとかで、Iくんは知らぬ間にすっかりゲーマーになっていました。

 ただ、母の言う通り、Iくんが泣き出したり取り乱したりすることは、以前よりずっと多くなっていました。小さなことで母に叱られたIくんが、私にしがみつきながらわあわあと泣くこともありました。


 その日の夜。下の子たちが寝静まった後。母の電話に、母方の祖母から電話がかかってきました。

 母方の祖母とは、母が出て行って以来一切の連絡が断たれた状態でした。何を思ったのか、母は私に自分のスマホを渡してきました。「おばあちゃんね、ゆきこちゃんは私のこと覚えてるかしらって言ってたんだよ」と、以前母から聞いたことがありました。

 私はいくばくか緊張を覚えつつ、電話を替わりました。久しぶりに聞く母方の祖母の声は、記憶とちっとも変わっていませんでした。どこか懐かしい感覚でした。

 しかしながら、会話は楽しいものばかりではありませんでした。「結局お父さんは生活を支えてくれているんだから、お父さんには感謝しなきゃ」と力説され、表面上は穏和に相槌を打ちつつも、落胆と戸惑いを覚えずにはいられませんでした。

 電話の後、私は母にそのことを告げました。

 すると、母は苦笑を浮かべ、「おばあちゃんはね、」と独白を始めたのでした。


 母にとって祖母は、かなり束縛の強い母親だったようです。二十歳を過ぎてからも門限は夜十時まで、外泊の時にはどこの誰の家に行くのかを告げなければいけなかったそうです。服装なども厳しく目をつけられ、当時流行りのミニスカートなどに手を出すと、「娘が不良になった」と嘆くような人だったとか。

「心の中に偏見を持っている人ほど、その後ろめたさから無意識にきれいごとばかり口にするんだよ」

 お父さんも、もしかしたら同じかもしれないね。母はどこか悲しい目で言いました。曰く、祖母がその典型だったそうです。

 母は大学時代、福祉の勉強をしていました。そのことに関しては、祖母は「立派だね」と応援をしていたそうでしたが、母がいざボランティアで病気の人と関わり始めると、あまりいい顔をしなかったと言います。「そんな人と関わるなんて」と言われたり、もっと露骨に差別的なことを言われたこともあったそうです。

 Kちゃんを身ごもった時もそうでした。Kちゃんが障害をもって生まれてくることは、出生前にはすでに判明していました。そのことを知った祖母は、「そんな子供を産むなんて」と大反対だったそうです。「産むなら縁を切る」とまで言われたと、母は言いました。

 私は呆気にとられていました。母のそんな身の上話を聞くのは初めてのことでした。

「それでもお母さんは、Kちゃんを産んでよかったって、胸を張って言えるよ」

 母はそう言って立ち上がると、私に温かいミルクティーを入れてくれました。夏なのに不思議と冷える夜でした。

「幸せっていう字は、『辛い』にひとつ棒を足した字だって、よく言うでしょう」

 妙に優しい母の語り口。どこか卑屈な気分だった私は、「その棒はどこから持ってくるのって反論もあるけどね」と、あくまで人の意見として口をはさみました。その一本は他人の「幸」から持ってきたものなんじゃないか。そんな意見にどこか賛成する気持ちがあったからでした。

「そういう野暮なこと言う人もいるけどね」と母は私の言葉を一蹴しました。

「Kちゃんはいつも、どこからかその棒を持ってきてくれるような子だったよ」

 慈しみに満ちた母の目が、なんだか忘れられませんでした。

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