72. ある男の最期
「手紙はちゃんと書いた?」
書いたよ。たぶん書き漏らしもない。……っていうか、ノエルもチェックしてたよね?
「あんたねぇ……そういうのを私に任せるところ、どうかと思うわ」
ごめんって。……いつもありがとう。助かってるよ。
「……カミーユ。私はあんたの絵が好きなのよ。……特に、エレーヌの絵は素晴らしいわ。何度欲情したかわからないくらい」
ちょっと、親友の恋人に勝手に欲情するのってどうなのさ?僕、寝取られる趣味はないんだけど?
「安心なさい。本体にはこれっぽっちも興味ないわ。あんたが描いた絵と、あんたが視たエレーヌだから意味があるの。わかる?」
……それはそれで、ちょっと複雑かな……。
ああ、でも……僕はエレーヌのことを、どれだけ理解できていたんだろう。……幻想のエレーヌと、本来のエレーヌとの隔たりは?そもそも、今ここにいる僕の認識は、どこまでが妄想で、どこまでが真実なのかな?
カミーユ。どれほど事実と相違があろうとも、キミにとっての真実は、キミの中に確かにある。……さぁ、胸を張るといい。キミの生の終焉を、ボク達はここで見届けよう。
書いた手紙を並べて、ホコリを被ったイスに座る。
……ここで描くのは何年ぶりだろう。10代の頃にカナダを発ってから、一度も戻らなかった場所。懐かしい、僕の原点。
「時間はないけど……これで、続きを描ける。僕はロナルドに
絵筆を握る。……熱に浮かされたこの瞬間が、もっとも居心地がいい。僕だけの世界。僕の魂を、血潮を、余すことなくぶつけられる世界。それでも苦痛が、恐怖が、悲哀が、落胆が、絶望が、僕を現実に繋ぎ止める。そうして、僕の苦悶は快楽となり、そうして、僕の想念は形を得て、そうして、僕の懊悩は芸術へと昇華される。
この瞬間を、待っていた。
この瞬間が、何よりも欲しかった。
弟を慈しんだのも、恋人を愛したのも、古い知人を救いたかったのも、友を想ったのも、取り残した全てに別れを告げたかったのも、他人に共感した情も、凡庸な欲も、殺されたい性も、平穏な時間への安らぎも、すべて本当の気持ちで、それも確かな真実で、だけど、ああ、それでも今この瞬間、僕にとっての総てはひとつの生業に収束する。それが、それだけが、それこそが、僕の真実となる。
愛、哀、憎、想、夢、望、苦、悔、快、渇、飢、傷、痛、悼…………
沸き立つ
ゴロリと転がった首、腕、脚。絵の具が着いたままの画材。画布に包まれた、最期の作品。
私はただ、変わり果てた親友の亡骸を見ていた。2004年12月3日……いえ、見つかったのは6日かそこらだったかしら。あの日のカミーユも、同じ気持ちだったのかもしれない。
私は咎人のまま、あの醜い怨嗟の中に向かうのだろうけれど……そんなことすら、どうでも良くなるものを見た。
酸化し、黒くなった「Sang」のサインは絵画の端。
描かれた、穏やかな日常の風景。トーンは明るく、亜麻色の長髪の青年と、赤髪の青年が親しげにキッチンに立っている。……それを見守る後ろ姿は、影だけしか描かれていない。タイトルは、「
……もう、戻らないからこそ、届かないこそ、あまりにも美しく、あまりにも愛に満ちた叫び。
傍らには、もう完成した片割れが置いてある。「Bonne chance」……確か、紗和は邦題に悩んで、結局表現できずに「日本でもわかりやすく言うなれば……GOOD LUCK……かな」と呟いていた。
項垂れた男がひとり、壁にもたれている。表情は闇に隠れて見えないけれど……カミーユがきちんと「自分」を絵にしたのは、これが初めてだった。暗いトーンの画に、雑然とした廃墟。「Sang」のサインは、実際の「事件」と同じように壁際に描かれている。
「……お疲れ様、カミーユ」
物言わぬ頭部に語りかける。
亜麻色の髪に触れることはできない。
……開いた窓から、風がそよぐ。
塵と化すように、痩身で、美男子で、華奢だった肉体が朽ちてゆく。私の意識も、再びあの森へと引き戻されてゆく。
素晴らしい
茫然と響いた賞賛。
……机上に置かれた木彫りの人形も、カタカタと音を立てて鳴いていた。
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