38.「さまよう軍人 Roland」

 彼は優しき御仁にござる。その双眸に宿すものが果てしなき深淵なれど……ん、わかった……日本語、やめる……。

 ……ちゃんと喋るのは、苦手、だけど……んと……ローランドは、優しい。それは確か、だけど……我慢、しすぎた。だから……なくした。

 なくしたもの、探して、さまよってる……のかな。ローランド。


 ほんとうの自分を、探してるのかも。




 ***




 一泊した医院を出て、アドルフの元に向かう。彼のところにいろんな調書があることは間違いない。それの真偽がどうであれ、きっと、街に関係あることばかりのはずだ。

 キースはアドルフと顔を合わせたくないらしいが、まあ、背に腹は変えられない。


 ……正直なところ、僕も心細い。さっき、送られてきたメールを見ていたのもあるけど……気持ちがどこか不安定だ。

 こんな時、ロー兄さんがいてくれたら……


 そう、思ってしまったから、


「ロブ、呼んだ?」


 心の準備もなく、呼んでしまった。


「……あ、いや、今は、特に……」

「どうしたのロブ?体調でも悪いの?」

「……兄さん、その……」


 とにかく、謝らなければいけない気がした。


「ごめんね、本当に。甘え過ぎてたんだと思う。……ごめん……」


 きょとん、と、兄さんの目が丸くなる。

 何を言われているのかわかっていないのか、それとも、


「ロブ?なんで突然……」

「……っ、だって、死んでなお、僕達に縛られること……ないのに……」


 その瞬間、僕の首に兄さんの手が伸びた。

 喉元を掴んだその表情は、怒りでも、悲しみでもなく、

 ただひたすら何かに怯えていた。


「黙れよ……黙れ……」

「ご、ごめんね、兄さん……!」

「ちが、ロブ、俺は……俺は、お前のことを憎んでなんか……!だってお前も……大変、で……!」


 その表情を、見たのは何年ぶりだろう。

 笑顔でなく、人間らしく怯え、苦しむ表情を……僕は、直視してきただろうか。


「…………平気だと思ったのか?」


 その声は、聞いたことがないほど、感情がなかった。

 ドロドロと影が差すように濁る瞳。消えていく表情。


「兄、さん……」

「私が平気だと思ったのか?てめぇらとんだお花畑な頭してんだな!ううん、思ってなかったよね?流石に気づいてましたよねぇ!!」


 コロコロと変わる口調。変わる表情。それでも、共通しているのは、

「悪意」があふれ出していること。


「兄さん!!落ち着いて!!」

「俺は……ッ、あの時……死にたかった……!!なんでみんなして……必要としたんだよ……」


 悲痛な声と共に、涙が落ちる。赤い涙がダラダラと頬を伝う。

 口の端からも赤黒い血があふれて、顎を伝って地面を汚す。ぼたりぼたりと、赤黒い跡を残していく。


「なんで今更……ッ」


 その悲鳴に、その顔に、覚えがあった。


 ──あんたが死ねばよかったんだ……!


 母さんにそう告げられて、兄さんは、俯いてただ一言「ごめんなさい」と呟いた。


 ──実の息子によくそんなことが言えるわね!!


 ローザ姉さんは激昴して母さんを責めた。その横で、ロナルド兄さんが息を飲んだのを覚えている。「馬鹿め」と、小さく毒づいたような気もする。


 ──違う。そいつは、そいつは私の子じゃないッ!あの汚らわしい男の血を引いた、別のなにかだ!!恥知らずのアンダーソンの子だ!!私の腹に宿ったのは何かの間違い……前から好きだったなんて知るものか……私は不貞なんかしてない……あの男が勝手に私を汚したんだ!!

 ──ナタリー、黙りなさい。人前でそんな話をするんじゃない。

 ──あ、あなた、あなたのくだらない見栄のために、私がどれだけ苦しんだか……ッ

 ──黙れと言っているのがわからないのか!!わざわざ恥を晒すな!!


 追い詰められた母さんの叫びが、父さんの怒号が、兄さんを壊した。立ち尽くしたまま見開いた瞳から涙すら落とさず、なにかが崩れた音が確かに聞こえた。


 ──なんで


「なんで今更なんだよ……」


 その日から、兄さんはよく笑うようになった。

 常に笑顔で、滅多なことでは怒らなくて……そして、いつも僕達のことを思いやってくれた。


 その時からきっと、もう壊れていた。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛い……ッ」


 腹を抑えて、


「殺して……こ、ころして、殺してくれよぉおおお……」


 もがくように喚く。


「殺して……殺せ……殺せよぉおお……ッ」


 初めて、兄さんから、


「それすら……してくれない……!お、お前らが……お前らが……憎い……殺してやりたい……ッ」


 殺意を向けられた。


 ああ、きっと僕は、この日を待っていたんだ。

 心が痛い。それでも……それでも、一番つらいのは、兄さんだ。

 キースがなにか言おうとする。ダメだ。これは僕の問題だ。僕が、言わなきゃいけない。


「ごめんね、兄さん。……ありがとう」


 血にまみれた身体を抱きしめた。僕より少し大きくて、ちゃんと鍛えてる体。


「…………ロブ、俺……最期に、呪っちゃったんだ」

「うん」

「馬鹿だよなぁ……自分で選んだくせに……俺……今死んだら逃げれるし……みんな、苦しむってさぁ……」

「……うん……」

「……でも、お、れは……ずっと……わ、わらって……笑って、い、いた……かった……」


 がくりと、兄さんが膝をつく。それに合わせて、僕も座り込んだ。必死に体を支え、倒れないようにする。

 ……重い。重いけど、離したくない。


「……ありがとう、兄さん。もう……いいんだよ……」

「……本当に?」


 子供のような声で、兄さんはそう聞いた。……僕に、僕なんかに、許しを求めた。


「うん、だから……今度は僕が、兄さんを助けたい」


 精一杯、笑えただろうか。

 泣き笑いで、不格好な気がする。


「……助けて……助けて、ロブ……」


 弱々しい声で、初めて兄さんは僕に縋った。

 さまよい続けて擦り切れたような、か細い声。


「……うん、絶対助けるから……だから、今は……眠って……」


 苦しい。胸が苦しい。けど、兄さんはこんなものじゃなかった。

 兄さんは、こんな苦痛の中で、ずっとさまよってきたんだ。

 僕の腕の中でゆっくりとまぶたを閉じると、透明な涙が、赤い雫に続いてハラハラと落ちた。


「……ローランドくんには、大きく分けて4つの人格がある」


 兄さんの背後から、足音がする。


「こうありたいと願った幻想、本来の姿、そして……不安定なまま、本体から裂けてしまった悪意」


 片脚を引きずるような、足音。


「もう一つは……たぶん、僕は見たことがない」


 ゆっくりと、霧のように溶け、静かに消えていくロー兄さんの姿。

 それを見つめながら、カミーユは大きくため息をついた。


「……悪意は、死ぬ間際に分かたれたものが独立してしまったから……彼にもコントロールできないし、確固とした人格にもなれない。……どれだけお人好しなのか、よくわかるよね」

「……違うよ、カミーユ。……抗ってるから、ちゃんとした人格にならないんだよ」


 当然、兄さんにだって悪意はある。独立した人格になれるほどの恨みつらみだって溜まってるはずだ。……人格になるには足りないなんてこと、絶対にない。


「そう……。よく利用されはするけど、確かに……そこまで大きな悪さはしない気もする」


 複雑そうに目を伏せて、カミーユは僕に手を差し出した。


「次、どこに行くつもり?」


 躊躇なく握って立ち上がりながら、投げかけられた問いに答える。


「警察署だよ。アドルフに会いに行く」

「ああ……あの人ね。なら僕もついてく」

「……それは助かるけど……いいの?」

「画集、回収しに行きたいから。あいつ絶対興味ないし」


 毒づきながら、僕が立ち上がった途端ぱっと手を離す。

 以前の僕なら、ムッとしていたかもしれない。


「……。……もしかして潔癖症?」

「いや……あんまり長く触れてると僕のアイデンティティを揺らがせるほど君の感情へのシンパシーが」

「ごめん全然わかんない」

「あー……まあとにかく、人に触るの苦手なんだよね」

「そっか……君も大変だね」


 優しいけど、ちょっと(どころじゃなく)変で、性的に倒錯している……方が、生きやすいこともあるのかもしれない。

 ……いや、死人なんだっけ?この人?よく分からないから置いておこう。


「死体だけど生きてるんだよ。生、およびに芸術への執着と慢性的な他者からの殺害を懸想し快楽に耽ることで錯綜した精神が、世界の理を覆したとも言えるかも」


 だから表情から読まないでほしい。というか、何言ってるのか本当にわからない。


「……殺されたかったけど生きたかった……?」


 キース、それは流石に矛盾してる。


「違うかな。殺されるという事象に憧憬と悦楽を覚えるけど、生存しなければ得られない俗世の歓びをまだ味わいたかったんだよ」


 …………。やっぱり、わからない……。


「……まあ、そこら辺は僕のプライバシーに関わるから置いておいて……ブライアンには会ったの?」


 プライバシーの問題なの?いや、まあ確かに特殊性癖はプライバシーかな。プライバシーなら仕方ない……のかな。とりあえず忘れよう。うん、それがいい。


「……いい子だよね、ブライアン。僕と同じで弟なのに、全然違う」

「同じじゃないから。人間各々あらゆることが違うからね?あとブライアンの場合は特に天使だし」

「ええー……」


 いや、勇気づけてくれてるのかな、これは。天使発言はスルーするけど。


「別に、君が特別悪い弟ってわけでもないでしょ。……ローランドくんはブライアンのこと嫌いみたいだし」


 ……やっぱり勇気づけてくれてたんだ。

 待って?サラッと意外すぎること聞いたような!?


「えっ、ロー兄さん、ブライアンのこと嫌いなの!?」

「見てたらイライラするんだって。黒人格くんに至ってはよく殴ってるの見かけるから止めてるし」


 そんな兄の姿は知らなかった……。というか、黒人格ってロー兄さんの悪意のこと……?


「……そ、それはご迷惑を……」

「それで灰人格くんが知ったら壮絶に自責して、無自覚に影響受けた白人格くんの自己犠牲がすごいことになる。具体的に言うと轢かれそうな子供助けるために轢かれたり……。あ、確かレヴィくんの目の前でそれ起こして胴体千切れたから、死人だと知らないレヴィくんが目を隠したまま「いいか!!とにかく身体を見るな!!」って叫んでたんだっけ」

「あ、それで知り合いだったんだね……!?」


 ロー兄さん、その地獄絵図を接触って表現してたんだ……。それは……確かにレヴィくんも同情するだろうなぁ……。

 ふと、カミーユは立ち止まり、携帯を取り出した。……「ある罪人の記憶」と画面に映ったのが見える。


「……君たちの事情……まだ僕にも見えてないところがあるんだけど……ロジャーさんは亡くなってるの?」


 何度も落としたのかひび割れが目立つ画面を見つめ、眉をひそめて聞いてくる。


「…………階段からの転落死、だったはず。……葬儀のことは、全然覚えてない」


 確か、その時の僕は……10歳だったか、11歳だったか……。


「……なら、大家さんは……誰……?」


 画面を見たまま、独り言のように告げる。


「え?」

「学生時代に住んでたアパルトマンで会ったことあるんだよね。レヴィくんとも知り合いだったはず」


 記憶を辿るように、カミーユは空を見上げる。そう言えば、レヴィくんもロジャー兄さんの名前を出してた。……確かに、おかしい。


「……でも、ロー兄さんの件もあるし。……君だって、ほら……」

「…………まだ分からないかな。アイツにやられたのかもだけど……ロジャーさんに関しては記憶が本当にダメになってる」


 アイツ……きっと、ロナルド兄さんのことだろう。

 雨の音が響く。けれど、あえて「それより前」に思いを馳せた。


 ──黙りなさい!貴方達みたいな愚か者にはわからないわ……!ロジャーが、ローランドがどれだけ苦しんだか……!


 ローザ姉さんは、その後、いつからかぱったりと姿を消した。

 確か母さんが、あの小娘は死んだと言った。それと同時期に、ドーラ・アンダーソン……つまり、ローザ姉さん、ロッド兄さん……ロナルド兄さんの母親の死体が見つかって騒然となった。

 僕は……ただただ理解が追いつかなかった。だから、この時期の記憶が混乱したんだと思う。


 ──ロジャーが死ぬはずがない


 その言葉を、何度も聞いたのは覚えている。


 ──ロジャーが死ぬはずがない。彼は僕より優れていなくてはいけない。何があっても、僕を圧倒していく存在だ。


 そうでなければ、


 ──そうだろう?ロバート。君の兄は立派な存在だ。誰より優秀で、誰より憧れの的で、何事もそつなくこなす……だから、階段から落ちた程度で……


 あの人も、なにかを保てなかったのかもしれない。

 まだ、記憶の中で顔がない、あの人……。


「……そこまで」

「え?」

「下手に思い出さない方がいいよ。……少年への洗脳はアイツの得意分野だから……既に罠があったら困る」


 険しい表情で、彼は、僕の足元の影を見つめていた。

 ……背筋に悪寒が走る。


「……アイツの顔面……普段は、君やローランドくんとどこか似てるのを覚えてるんだけどね……」




 ***




「……ロジャーから、何を奪いたいの」


 椅子に腰掛け、黒髪の女は兄を見つめていた。


「もちろん、すべてに決まっているじゃないか。……顔も、名前も、立場も……」

「理解できないわ。どうしてそこまで執着するの?」

「あの男が、私の期待を裏切ったからだよ」


 彼の羨望はやがて理想となり、理想はやがて劣等感になり、劣等感はやがて……憎悪になった。


「……ローランド、そこにいるんだろう?また、くれないかい?」


 その言葉を聞いて、呼ばれた「俺」は髪を上げる。ロジャー兄さんと同じ髪型で似たような顔。目の前の男は今、兄さんと同じ顔……正確には、兄さんが正しく老けたような顔をしている。……本当の顔は、確か自分で焼いたんだったっけ。


「ロジャーになってくれ、だと?笑わせるな。私こそがロジャーだ。……勝手に殺さないでくれたまえよ」


 兄さん、俺は……ちゃんと、兄さんらしく振る舞えているかな?

 兄さんの姿を守れているかな?


「どうした、ローザ。不服な顔をして。また、過去の私と別人だとでものたまうのかね?」

「いいえ。流石そこの下衆野郎とは違うわ。ローランドが真似するロジャーは、いつでも完璧よ。……まるで、まだ生きてるみたいにね」


 ローランド・ハリスの4人目の人格は、在りし日の兄の姿だ。

 ……彼は、「私」の姿を記憶に留めるために、「私」を作り出した。

 頼りにしていたからでもあり、ローザの悲しみを癒したかったのもあるだろう。


 だが、


「ロジャー……ああ、会いたかったよ。まだ生きているんだね。流石はしぶとい君らしい」


「私」を奴が憎む限り、「私」は奴に殺される。


「ふん、ただで殺されてやるものか。ローがかつて君を殺したのを忘れたかね?ロン。……レヴィやカミーユにまで手を出すなんて、愚かなことをしたものだ」


 Rolandという名は、レックス・アンダーソンが友人の息子の名付け親になったものだ。……本来は実の息子であることを、隠しきれなかったのだろう。

 先に産まれていた「Ronald」とのアナグラムにし、呪いを刻んだ。

 ローランドは、産まれた時から呪われていたというわけだ。


「まさか、あのお人好しが人を殺せるとは思っていなかったからね……。……ローランドほど優しい人間に人を殺させたことに、罪悪感はないのかい?」


 この男は、自分の欲望のためなら、他者を犠牲にすることを、利用することを、厭わない。

 ……そんな人間だからこそ、


「ロジャー……君は、私より優れていなければならなかった。何度でも殺してあげよう、その存在すら消し炭になるまで穢してあげよう。……昔から見下していた存在に踏みにじられて、さぞ屈辱だろうね……!」


「私」に歪んだ羨望を抱いた。

 ロナルド・アンダーソンでなく、ロジャー・ハリスになりたがった。その挙句、過去には「ロジャー・ハリス」の死体を「ロナルド・アンダーソン」に偽装しようとまで考えた。……実際、替え玉になったのは墓から暴かれた死体だったが。


「……こっちまでおかしくなりそうだわ」


 ローザがボソリと呟く。


「私はね、ロジャーの名前で事業を展開した覚えはないわ。……もっとも、これが私への罰ってことだろうけど」


 死んだ夫、自殺した弟、殺された兄……その喜劇を見せつけられることが、彼女への罰なのだろう。


「私は後悔していないわ……。母を殺し、弟を見捨て、強引な手腕すら使ってそれでも成り上がったのだもの……。後悔するほうが罪悪よ……!」


 ……嗚呼、ローザ。本当に君の顔は、かつてのロンによく似てきたね。……残酷なことだ。

 だから、「私」は昔のように君を愛することができないのだよ。

 ロジャーが愛したローザと、他ならぬ君自身がかけ離れてしまっているのだから。

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