貴婦人、最後の恋

工藤行人

序章 今こそ別れめ

第1話 晨朝に発つ馬車

 車寄くるまよせに回された馬車は一向いっこう出立しゅったつの気配を見せなかった。駢列べんれつする二頭の馬の鼻息びそくが何度も白く長いしだり尾を引いてくうただよっていた。

ひい様、おすこやかにあられまするよう」

ばあや、もうくでない」

オルブラント大公家最古参の侍女オランデーズが差しいだした諸手もろては、彼女が「ひい様」と呼んだその人の、白妙しろたへなるたおやかな諸手もろてに包まれていた。いまだ明け切らぬ晨朝じんじょう薄闇うすやみの中にあっても、そこだけぼんやりと仄光ほのびかりともっているようであった。オランデーズが乳母めのととして襁褓むつきよりかしづいた掌中しょうちゅうたまの如き養君やしなひぎみは、今や帝国内に名高き貴淑女きしゅくじょとなっていた。

幼気いとけなき折よりお変わりにならぬぬくもりで、老いたわたくし諸手もろてあたためて下さるお優しさよ……》

りんたるかんばせを馬車の内にあおぎ見ながら、老侍女はこの時が永久とこしへに続けかしと庶幾しょきせずにはられなかった。眼前の馬車を見送れば、おのいちに再び「ひいさま」と相見あいまみゆることは叶わぬと知っていたからである。

 彼方かなたに見ゆるストランド山脈の稜線りょうせんを、日輪にちりんがその黄金のおよびゆるりとなぞり始めた――朝が来る、別れの朝が。

「オランデーズさん、そろそろ」

ともに見送りに出ていた大公家の家宰かさいビガラートが、いたわりと困惑の相半あいなかばするような声を掛けながら、で下ろしたようなオランデーズの小さな肩を背後から支えた。そして彼自身も馬車の内を仰ぎ見て、これまでかたくなに固守こしゅしてきた家礼けらいぶんわきまえず声を震わせるのだった。それは妻をめとることも無く、先々代大公の在位より三代四十しじゅう年にわたって大公家に奉仕し、主家しゅけの人々に対するに表向おもてむなる私情をも差し挟むことを慎んできたビガラートが、ことに及んで、仮にもおのれに娘のあらばくや、と夢想せぬことかたき「ひい様」への親愛をはしなくも横溢おういつさせてしまった結果であった。

呉呉くれぐれもご自愛なさいますよう」

かろうじてそれだけ言って後、家宰かさいたるの矜恃きょうじを取り戻したビガラートがらせすると、馬車に同乗する侍女のモルネが馭者ぎょしゃ出立しゅったつを促した。

「アルマンド、出して」

執鞭しつべんされた馬がいななき、馬車が動き始めた。

ひい様、ひい様……」

あらがい得ぬ力に振り切られてついに二人の手はほどけ、お互いはながの別れの両岸へと分かたれた。動き出した車輪の音が、この場に居合わせる各各おのおのの声をき消していた。やが彼岸ひがん此岸しがんほどはるけさを増し、二度ふたたびまじわることは無くなるのだ。

《この先、わたくしひい様と呼ばう人はらぬになろう……、ひい様、随分といい歳をしたひい様だけれども……》

 ややあって、新たなる一日のはじまりよみする黎明れいめいたくましき光が車窓しゃそうから射し込んで来た。それをいとうかのように、窓掛まどかけは音もなく静かに引かれた。

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