第39話 燻る距離感 II
講義が終わった後。
いつものように理事長室へ戻ったクロさんとあたしだったが。
「…クロさん」
「ん?」
「…今日もどうせこの後、学院に残る用事がありますよね」
「どうせ、って…うん、まぁ」
「じゃあ、あたし気分が優れないので。今日はこれで失礼させていただいてもよろしいでしょうか」
「いいけど……大丈夫?」
「はい。では」
というやり取りをして。
あたしは早々に、理事長室を出た。
「………はぁぁああぁ」
廊下に出て、すぐに後悔する。
今のは、最高に可愛くなかった。クロさん、きょとんとしていたもの。そりゃそうだよね、彼に悪気はないんだし。
なんでもっとこう、「ヤキモチ妬いちゃうから、ああいうことやめてほしいな…くすん」みたいな、可愛い伝え方ができないのかな。
…もっとも彼の場合、可愛く言ったところでまともに取り合ってはくれない気もするが。
それでも、怒りに任せて喚き散らすよりは良かったと、そう思うことにしよう。一旦距離を置いて、頭を冷やさねば。
肩を落として、廊下を歩き出す。今日もルナさんのところへ行く約束をしている。その前に、『体術』のゲイリー先生からまたプリントをもらおう。
よし、と気を取り直そうとするが。
アリーシャさんを抱きとめ、そのまま素の口調で指導するクロさんの姿が、脳裏に焼き付いていて…
うう…あたしなんかここしばらく触れてすらいないのに。あの子とは今日もこの後、あんなゼロ距離レッスンをするかと思うと…
「…………」
ちょっと、涙が滲んでくる。
これまで、「お仕事だから」と個人レッスンについて深く考えないようにしていたが。
今日、二人のあの距離感を見てしまって…
もう、この嫉妬心を無視できなくなってしまった。
たぶんクロさんは、アリーシャさんに恋愛感情は抱いていない…と、思いたい。
あくまで、あの才能のみに惹かれているのであろうことは、なんとなくわかる。
けど、それすらも嫌だ。嫌になってしまった。
クロさんは、あたしのだ。あたし以外の娘に、触ってほしくない。
だけど…
「……それってやっぱり、あたしのわがままになるのかな…」
なんて呟いたところで、ゲイリー先生の研究室の前に着いた。
ゆっくりと深呼吸をしてから、口角を無理矢理上げて、ノックをする。
ここを訪れるのは、もう四度目だ。学院内で見かける度に気さくに声をかけてきてくれるので、すっかり顔見知りになってしまった。
いつものように「はーい」という声が中から聞こえ、あたしは「失礼します」と研究室へ入った。
「フェレンティーナさん、いらっしゃい」
「こんにちは、ゲイリー先生。すみません、お言葉に甘えて何度も来てしまって」
「いえいえ。今日もプリント、用意していますよ」
ゲイリー先生は爽やかに歯を光らせながら、早速講義用のプリントを差し出してくれた。うん、いつ見ても本物の好青年スマイルである。
「ありがとうございます。本当に助かります」
「お役に立てて嬉しいです。特訓の成果は、いかがですか?」
「うーん…普通に使えてはいるのですが、強さの加減がやっぱり難しくて。あ、そういえば先生」
「なんです?」
あたしは持っていた手帳から、折りたたんだ紙…先週ゲイリー先生からもらったプリントの内の一枚を取り出す。
「先日いただいたこちらなのですが、一箇所わからないところがあって」
「どれどれ」
プリントを広げるあたしに、ゲイリー先生がぐっと顔を寄せて覗き込んでくる。
それに少しだけ「近いな」と思うが、とりあえずそのまま質問を続ける。
「この、空所問題になっているところです。『戦闘において、相手の動きを封じるのに有効なのは』…の後に二つ空欄があるのですが、わからなくて」
「なるほど。では、答えをお教えしましょう。まず、一つ目は…」
す、っと。
ゲイリー先生は、あたしの首筋に手を添え、
「呪文を唱えるための、
と、今度はあたしの左手を持ち、両手で優しく包むようにして、
「『署名』をするために必要な、手です。この二つを制することができれば、魔法の発動そのものを防ぐことができますよね」
にっこりと微笑んで、そう言った。
…なんでいちいち触られたのかわからないが。
「そっか。声や手の動きを封じることができれば、戦況を有利に運べますね。納得しました。ありがとうございます!」
あたしは、明るいトーンでそう返した。
しかし左手は、何故かゲイリー先生に包まれたままであって。
「……あのー、先生?」
手を、離していただけますか?と、やんわり目で訴えると、
「…フェレンティーナさん。何か、嫌なことでもありましたか?」
「え?」
突然そう尋ねられ、少しドキッとする。
「今日はなんだかあまり元気がないようなので、心配で…大丈夫ですか?」
な、なんと…
先ほどまでの負の感情を極力押し殺したつもりだったのだが…見抜かれてしまったのか?
それとも、上手く笑えていなかっただろうか。
ゲイリー先生は、本当に心配そうな眼差しでこちらを見つめている。
あたしは首を横に振って、
「い、いえ。特に何も。いつも通りですよ」
「…理事長と、なにかあったのですか?」
ぎくっ。
あたしとクロさんが恋人関係にあることは、学院内の人間には知られていないはずなのだが…
……この人、どういう意図でそれを聞いているんだ?
「…ああ、そういえばさっき、仕事のことでちょっと怒られちゃったかも…それが顔に出てたのかな?でも全然気にしていないので、平気ですよ。心配していただき、ありがとうございます」
などと、とにかく早く手を離してほしい一心で適当なことを言ってみる。
だって、大きくて温かい手に包まれながら、じぃっと優しく見つめられているもんだから…
その気がなくったってなんだか緊張してしまって、罪悪感というか気まずいというか…
傷心のあたしには、とにかく毒だ。
愛想笑いを浮かべるあたしを、ゲイリー先生は
「…そうですか。なら、良いのですが」
と言って、ようやく手を離してくれた。
ふぅ。最近気付いたことだけれど、何かと距離感の近い人である。
「今日はもう、お仕事はおしまいなのですか?」
「はい。もうお暇をいただきました。なのでこれから、また魔法の特訓です」
帰り仕度をしながら、ぐっと拳を握ってみせる。ゲイリー先生は目を細めて笑って、
「偉いですね。勉強熱心な秘書さんをお持ちで、理事長先生が羨ましいですよ」
なんてことを、真っ直ぐに言われて。
「………あ、ありがとうございます」
返す声が、少し震えてしまう。
だめだ、また涙が滲みそうになる。
思いがけず、褒めてもらえて。
でも本当は、そんな風に褒めてほしい人は、この人じゃない。
たった一人、クロさんだけなのにって。
そう思って、心がじわじわと溶け始める。
いけない。早く部屋を出なきゃ。
「そ、それじゃあ。またよろしくお願いします」
あたしは涙を浮かべた瞳を見られぬよう、ゲイリー先生の方を見ることなく研究室のドアを開け、足早に廊下へ出た。
…せっかく笑顔を取り繕っていたのに、最後の最後で不自然な帰り方をしてしまったな、と思ったが。
「………」
やってしまったことは、もう仕方ない。それより次は、ルナさんの部屋に行くのだ。また、心を落ち着かせなきゃ。
そう言い聞かせ、再び息を吐いてから。
あたしは静かに、廊下を歩き出した。
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