第37話 悪夢の足枷を II
なんとか支度を済ませ、部屋を出ると、
「あ」
ちょうど隣の部屋から、クロさんが現れたところだった。
しまった。一足遅かったか。
「おはようございます。すみません、時間通りに伺えず」
「珍しいね。体調でも悪いの?顔色、あんま良くないけど」
部屋の鍵をかけ、ジャケットのぽっけにそれを突っ込みながらそう言って、クロさんが顔を覗き込んでくる。
心配してくれる嬉しさと、起きたばかりの顔を至近距離で見られる気恥ずかしさから、あたしは咄嗟に手をぶんぶん振りながら、
「だ、大丈夫ですっ。ちょっと寝坊しちゃっただけで…あ、あはは」
「……ふーん」
我ながらわざとらしい笑い方だな、と思ったが。
彼は納得したのか、それ以上興味がないのか、特に追求もせずに廊下をすたすたと歩き始めた。
「…………」
その、離れて行く背中を見て。
昨日言われた、ルナさんの言葉を思い出す。
『あまり自分を押し殺さず、甘えられる時に甘えてみたって、良いと思いますよ』
…どうしよう。たぶん、あたし今。
彼に、甘えたい。
『怖い夢を見たの』と彼に縋って、全部全部、吐き出してしまいたい。
さっきのあの夢が、あたしの足元にまだ纏わり付いているようで。
それをあなたに、取り払ってほしいと、そう思っている。
気がつくとあたしは、彼の後を追いかけ。
きゅ、っと。
彼の服の裾を、後ろからつまんでいた。
「ん?」
突然引っ張られ、驚いたように足を止め振り返るクロさん。
「……どうしたの?」
彼に聞かれるが、自分でもどうしてこんなことをしてしまったのかわからなくて、俯く。
だって、なんて言うの?『怖い夢見ちゃったから甘やかして』って?
それとも理由も言わずに『抱きしめて』とでも言えばいいの?
今日はこれから、軍部の会議だ。そんなことをしている暇はないことは、重々わかっている。
だから。
「……ここに、糸屑が付いていました」
つまんだ服の裾をぱっと離して、そんなしょうもない誤魔化し方をする。
そうだ。あれは、ただの夢。
こんなことに気持ちを引っ張られて、彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
「…………」
クロさんは、あたしの顔をじーっと見つめてから。
「……あっそ」
とだけ言って、
……そう、これでいい。
これはあたしの問題なんだから。
あたしがきちんと、自分で、向き合わなきゃ。
「ちょっとー。置いてくよー」
あっという間に廊下の端へと到達していたクロさんに呼ばれ、
「あっ、はい!」
あたしは、顔を上げて走り出した。
* * * * * *
それからの十日間、クロさんは特に忙しかった。
軍部での仕事は徐々に減ってきてはいたが、三週間後に控えた魔法学院での舞踏会の準備が大詰めを迎えていたのだ。
招待することになった学生は、クロさんがプロフィールを抜き出すよう指示したあのメモのメンバーのまま決まったようで。
その内訳を聞いたフォスカー副学長が
前日までの準備や当日の細かな流れ、予算の確認など、会議が連日のようにおこなわれた。
クロさんが忙しいと、早い内から「今日はもう帰っていいよ」と言われることも多く、あたしは"恋人の時間"どころか仕事中に会える時間も減ってきたな、と思ってしまいそうな気持ちを、全てルナさんとの特訓に回した。
だから、この十日間は二日に一回くらいのペースで彼女と会っていたかもしれない。
その中で、あたしたちは予定していた通り、鶏肉とはにかみ草という練習台を使った訓練を始めていた。
元々、呪文を唱えれば普通に魔法を使えていたあたしは、ナイフで切った鶏肉を再びくっつけるくらいのことはすぐに出来るようになった。
力を"治癒"に留めることは出来ている。あとは、その先……"破壊"に至る力加減を調整できるようになれば、以前のように暴走させることもなくなるのでは?と思っているのだが、これがなかなか上手くいかない。
本来の力を…人を死に至らしめるための力を解放することに、恐怖心を抱いているのだ。
ルナさんの方はと言えば、呪文を詠唱し『署名』をするという基本の動作を踏んでもなかなか魔法が発動せず、時にはベアトリーチェさんを、時にはルナさん自身を眠らせてしまうこともしばしばあった。はにかみ草は、今だ眠らずに花を開いたままである。
それでもなんとなく自身の能力の輪郭は把握し始めているようで、眠らせたい対象に魔法を当てることはできなくとも『短時間だけ眠らせたい』といった時間のコントロールはできているらしかった。そのため、眠ってしまったベアトリーチェさんもルナさんも、すぐに目を覚ましていたのだ。
自己分析の方は…あれから、手が止まったままだ。
子どもみたいな理由で情けないが、あの夢を見てからというものの、"当時"のことを思い出すのが怖くて。
でもきっと、そこにこそ。
あたしがこの精霊の力を宿すに至った理由があるのであろうことは。
なんとなく、わかっていた。
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