第14話 イケナイ理事長室



「今日もお疲れ様でした、クロさん」



 会議を終え、理事長室に戻ってきた彼に、あたしはコーヒーを差し出す。

 クロさんは背もたれの高い椅子に全体重を預けるようにして、たばこを咥えたまま天井を仰いでいた。


 相当、疲弊していらっしゃるご様子だ。

 無理もない。本性とは正反対の好青年キャラのまま講義をおこない、会議では私欲にまみれた副学長にナメた態度を取られたのだから。さぞかしストレスが溜まっていることだろう。

 ……自業自得じゃね?などと言うなかれ。ちゃんと『先生』やってて、あたしは偉いと思っているのだ。



「何か、あたしにできることあります?」

「…丸太持ってきて。ブタを丸焼きにするのに縛り付けるやつ」


 あたしの問いかけに、クロさんが抑揚のない口調で答える。やっぱり「ブタ」って思っていたのか、副学長のこと。


「丸太は無理ですが……あ、肩でもお揉みしましょうか?」

「いらない。君、あんまり上手くなさそうだから」


 なっ……

 やっぱり前言撤回、全然偉くない!いくらイライラしているからって、その言い方はないでしょーが!せめて人の顔見ながら言いなさいよね!!

 と、気怠げに首を逸らしたままのクロさんを睨みつけるが、


「──それよりも」


 彼は身体を起こし、たばこを灰皿に押し付ける。

 そして、自身の目の前にある執務机を指さして、


「ここに、座ってくれない?」

「………はい?」

「だから」


 座ったまま椅子を少し後ろに引いて、真顔であたしの目を見ながら。

 真っ直ぐに、言った。


「膝、貸して」

「…………」

「ていうか、太もも」

「モッ?!」


 つつつ、つまり…

 そこに座って、膝枕させろ、ってこと……?

 く、クロさんがそんな、欲望にド忠実なことを言うなんて…前代未聞だ。疲れで頭がおかしくなっているのか?

 …いや、しかしこれはこれで……

 久しぶりに、恋人として必要とされているみたいで、なんだか嬉しいような気も…



「…………いいですよ」


 ごくっ、と唾を飲み込んでから。

 あたしはパンプスを脱ぎ、クロさんの真正面…執務机の上に、向かい合うようして腰掛ける。

 タイトスカートがずり上がるのを押さえながら、最後に残された羞恥心でせめて下着は見えないようにと、両のももをぴっちりと閉めて、



「……これでよろしいでしょうか、理事長先生」



 目を伏せて、伺うようにそう尋ねた。

 すると。


 ぱふんっ。


 そんな音を立てて、いつの間にか眼鏡を外したクロさんが、枕にダイブするかの如く正面から顔を太ももに着地させてきた。思わず「ひゃっ」と声を上げてしまう。

 そのまましばらく彼は、何も言わずにあたしの太ももに顔をうずめて。

 やがて、静かに顔を横に向けると、



「……君に『理事長先生』って呼ばれるの、悪くないから…もうちょっとだけ、がんばる」



 そう、子どもみたいな口ぶりで呟くので。

 不覚にも、胸の辺りがきゅうっとなってしまった。


「そ、そうですよ。副学長になんか負けないでください。理事長先生!」

「…………もっと言って」


 彼は片耳をつけたまま、太ももを抱えるように両手を添えてくる。くすぐったさに、腰が引けてしまう。



 夕暮れに染まる空が、部屋の窓から見えていた。もうすぐ陽が沈む。

 だんだんと薄暗くなる理事長室の中で。

 なんだか…イケナイことをしているようで、鼓動が耳の辺りで、うるさく響く。

 けれど、同時に。

 膝の上に感じる体温に、愛しさが込み上げてきて。

 あたしはその艶やかな黒髪に、そっと指を絡めた。



「…理事長先生。毎日毎日、本当にお疲れ様です」

「うん」

「大人な対応ができる理事長先生、かっこいいです」

「うん」

「あと、白衣姿も素敵です」

「うん」

「……一ヶ月後の舞踏会、本当にやるんですか?」

「……やる。けど、今年で終わりにする」

「……どうやって?」


 あたしの問いかけに、彼は少し間を置いてから、


「材料がないわけじゃないんだ。あとは……」


 つぅ…と、あたしの太ももを人差し指でなぞるようにして。


「どう、料理してやるか…だな」


 吐息交じりに、そう言った。

 その指の感覚に、甘い痺れを感じてしまっていたから。

 あたしは、彼の言葉の意味を、深くは考えられなかった。




「……はい、充電おしまい。降りた降りた」


 突然、彼はパッと離れると。

 即座に眼鏡をかけ直して、あたしに「シッシッ」と手を払う。

 本当にもう…マイペースなんだから。

 息を吐きながら「はいはい」と言って、おとなしく机から降りる。


 しかしクロさんにも、こんな風に甘えたい時があるのだと知れたことは、大きな収穫だった。

 隙がなくて完璧な人だと思っていたけど…案外、弱い部分も持ち合わせているらしい。

 その姿をあたしに、あたしだけに見せてくれているのなら、これほど嬉しいことはない。

 まったくこの人は、どこまであたしを惹きつければ気が済むのだろう。



「他に、何かお手伝いできることはありますか?」

「いいや、大丈夫。ちょっと書類を整理したら、今日はおしまいだから。先帰ってて」


 「わかりました」と返して、あたしは理事長室を出る支度をする。

 この人、放っておくと平気で一食・二食抜くから…今夜もちゃんと、お城に戻ってから晩ご飯食べてくれるか心配だなぁ。

 なんて思いながら、最後に一言添えようと、


「クロさん、ちゃんとお夕食…」


 そう、言いかけた時。



 ふいに。

 彼に手首を掴まれ、身体を引き寄せられていた。


 そしてそのまま、あたしの耳元に唇を近付けて、


「──ごめん。やっぱりもう一個、お願い」


 低い声音で、そっと。




「…今夜、君の部屋に行くから……待ってて。いいね?」




 そう、囁いた。



「…………ッ」


 それって……それって、つまり……

 …もしかしなくても……


 バッ!と離れて、彼の顔を見る。

 その表情は、今まさに沈もうとしている紫色の夕日に照らされて。



 闇へいざな夢魔インキュバスのような、妖艶な笑みをたたえていた。

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