9.作戦決行

 朝日が昇ったのか、申し訳ない程度の位置にある小さな格子の窓から光が差してきた。それを目で確認し、リトはボロボロになった黒い長衣を羽織った。


 朝食は一人分、つまりライズの分しか出されなかった。昨夜の夕食も同じだったことから考えると、レイゼルはどうやらリトをヒトとして扱っていないらしい。

 朝食と言っても粗末なもので、固いパンとコップ一杯の水程度だ。それをたいらげたライズは食器を格子の隙間から牢の外に押し出す。そして、いつものように手を振り上げ、繋がれた手錠を格子にぶつけてガンガン打ち鳴らした。


「ありがとうございますー」


 無表情の兵士が食器を取りにやってくると、ライズはにこにこと笑って出迎えた。それに目もくれず、兵士は無言で食器に手を伸ばす。


「あ、すみません。ちょっといいですかー?」


 間延びした声と人懐っこい笑顔の少年に感情を映さない目を向け、兵士は口を開いた。


「何だ」


 格子のそばで屈んだままの兵士の視線を合わせるように、ライズはしゃがみ込む。その兵士の鼻先にパッと取り出した蓋の開いた三日月型の瓶を近づけた。


 数秒もかからなかった。


 すぐに兵士はくずおれ、ドサッと音をたてて倒れる。それをしっかりと確認したリトはおもむろに立ち上がった。


「ライズ、そいつの腰にある鍵が取れるか?」

「ちょっとやってみますねー。あ、取れました」


 小さな輪の中にある鍵を取り出し、ライズは格子の隙間から腕をのばして鍵穴にそれを差し込む。ガチャンという音がし、格子のドアを押しやると開いた。

 外に出たリトはすぐに倒れた兵士のそばにしゃがみ込んだ。表情ひとつ変えずにうつ伏せに倒れた兵士を仰向けにした。腰に差してある長剣を鞘から引き抜く。


 まさか、大国の貴族である自分が盗っ人のような真似をすることになるとは。ためらいを感じないわけではなかったが、仕方ない。眉間に皺を作った顔のまま、鈍く光る刃を確認し、立ち上がった。


「行くぞ」

「はい、所長」






 これほど鎖の音と重さが煩わしいと思ったのは、初めてだった。

 拘束されたのは今回が初めてではない。貴族の世界は一見すると華やかだが、その裏では謀略が行き交っている。ましてや、ティスティルには良識を持つ貴族の方が少ないのだ。


 魔術具開発部の所長という立場上、リトは狙われやすかった。

 世界は美しいが、その裏側では悪意や憎悪であふれている。理不尽な暴力や裏切りを、リトは幼い頃から身体で覚えて理解していた。


 ただ、脱走を試みたことも、手足が手錠と鎖で繋がれたままで走ったこともなかった。

 走るたびにかちゃかちゃ鳴る鎖が邪魔で腹を立たしい。異変に気づき向かってくる兵士を奪った長剣を振って昏倒させていく。


 リトとライズが入れられていた牢は地下にあった。最初に入った炎狼フレイムウルフがいた部屋と同じくらい長い廊下が続いていた。ここも絨毯は敷いておらず、金属のこすれる音と足音がやけに響く。


 前方には、月色の毛並の狼が走って先導していた。魔族の人狼ワーウルフの部族であるライズの本性がその狼だ。追いかけてリトも走り続ける。


 牢を抜け出すことにはとりあえず成功した。後は、この広い屋敷を抜けるだけだ。

 ただこの策は、たった二人しかも戦い慣れしていない研究員、という戦力が心もとなさすぎるので、成功の確率が限りなく低い。だが不可能でもない、と思う。そもそも策にもなっていない気もするが……。


 長剣の柄を強く握りなおし、リトの前を全速力で駆けていくライズを目で追いながら足の速度を緩めずに走った。

 長い廊下をようやく抜けると、階段の踊り場に出た。ライズは迷いなく階段を駆け上がる。


 ここを上がると一階だ。そうすると出口に近づけるはず。

 ――と、頭の中でそう結論づけた時、ライズとリトの間に巨大な影が滑りこんできた。


「うわあっ!」


 躊躇いなく真正面からそれは襲いかかってきた。反動で階段をから滑り落ちて背中を強く打ちつけ、痛みで顔を歪める。

 リトの身体を突き倒したのは炎色の巨大な狼、炎狼フレイムウルフだった。予測していなかったわけじゃない、そのモンスターの登場に舌打ちをする。なんて間の悪い。


「所長! ……わっ」


 大きな音と悲鳴を聞きつけてきたのだろう、ライズが階上に姿を見せる。が、すぐに駆けつけてきた兵士に取り押さえられてしまった。


「残念だったな、リトアーユ」


 階上に現れたのは、薄い笑みを浮かべた深紅の髪の魔族ジェマ。薄いグレーの目を細めて笑うその顔を、黒髪の魔族ジェマは黒い両目を眇めて睨みつけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る