第205話 魔王の時間【前編】
ローランツ軍はお祭りムードから一転、お通夜のような状態にまで戦意が下がっていた。まだ補給路が断たれた訳でもないので、このまま進軍を続けても十分戦える戦力は残っていた。百年前に魔王と戦ったのを覚えている軍人など誰一人いない。九つの匣という戒めの話は、未だに語り継がれてはいるが、四十万の兵隊が一人も国に戻らなかったというのは、眉唾だと信じない兵の方が、今では多く占めている。
それが先ほどの、
六日目の朝を迎え、魔王城は目と鼻の先まで近づいた。斥候からの報告で数キロ先に魔王軍が陣を張り直していると伝えられた。草原に広がったローランツ軍は、魔王軍を左右正面と三方から囲むような陣形で
「なっ!? 何故足が沈むのだ」
ローランツ軍の兵士が雨で地面がぬかるんでもいないのに、足を取られ動きが封じられた。必死で足を動かそうと藻掻けば藻掻くほど、足が地面に沈んでいく。誰もが魔法の力だと頭では理解していたが、それから逃れる術は持っていない。
魔王軍がゆっくりと近づいてくる……。弓兵が足を取られながら矢を放つが、上手く力が入らず、魔王軍に致命傷を与える事など出来なかった。その動けない兵の頭に落雷が落ちる。
稲光と共に焼け焦げた肉の臭いが辺り一面に広がる。黒焦げの人間だったものから、ブスブスと白煙が上がる。雷から運良く逃れた兵は、地面に足を取られながら、来た道の方に身体を向け必死で逃げ出した。
「しかしほんにつまらん戦じゃ。これでは子供のお使いと、変わらぬではないか」
黒焦げになったローランツの兵を見ながら、ターニャ王女は部下たちに不満を漏らす。
「魔王様が足止めの術を掛けてくだされたからこそ、我が軍から負傷者は出なかったんですよ」
彼女を諭すように一人の士官が口を挟む。
「それは分かっておる。わらわでも同じ魔法は使えるのじゃ」
「そうですね。ただ、術を広範囲にかけるなんて出来ないですよね」
ターニャ王女の言葉にキーネ参謀はそう返した。
「ぐぬぬ……ラミア軍全体で魔法を放てばなんとかなるわ!」
ターニャ王女がややムッとした顔で、キーネ参謀を睨みつける。
「では、人間たちに誰が雷を落とすんですか」
キーネ参謀が、頬を膨らませた王女を見てクスクスと笑う。
「魔王様は、過保護すぎなのじゃ」
論点をずらして不満を漏らすと、突然、頬に冷たい手が掛かった。
「誰が過保護じゃと、どの口で言っておるのか」
「まおうひゃまぁ……おたわうれを!!」
魔王にほっぺを引っ張られ、ターニャはそれから逃れようと、太い尻尾をブンブンと左右に振る。
* * *
戦場から逃げ出したローランツ軍は、魔王城まで魔王軍が何故攻撃を仕掛けなかったのか、身をもって体験していた。逃げ出した前方から、雨のように降り注ぐ矢の洗礼を受ける。どこかに身を潜めようと辺りを見回すが、草原が広がり隠れる場所など無い。ただ矢が当たらないように、ちりじりになって逃げ惑うしか無かった。
自分たちは狐に追い立てられた兎だ……何処にも逃げ場の無くなった兵は、矢の先にいるドワーフに一矢報いようと刀を向ける。それを防ぐかのように、リザードマンの兵が壁のように立ちはだかる。
屈強な身体をした、自分たちより頭一つ二つ高いリザードマンと対等に戦える人間など、そこには殆ど残っては居なかった。人間の蹂躙――そこは魔王軍の狩り場として用意された
「い、命だけは取らないでくれ……」
地面に頭をこすりつけ、懇願するカラテウス総司令長が命乞いをする。戦場を指揮する司令部が一番後ろにあったので、魔法の被害は最小限に抑えられていた。しかしドワーフとリザードマンの
「魔王様には、皆殺しにしろと命じられている」
「ここに宝石がある……あるだけ持って行ってくれても構わないから、どうか命だけは……」
「そうよな、この宝石は貰ってやる」
そう言って、リザードマンは、宝石の詰まった袋に近づく。それを見てカラテウスはほっと溜息をついた。その様子を見たリザードマンは大きく刀を振るって、彼の首を飛ばした。
「死んだらどうせ、どこにも運べやしないので、俺たちが有意義に使ってやる」
カカカと笑って、もう一度刀を振り上げた。
「こいつは、人間国の将軍だぞ」
同行していたドワーフは、リザードマンの刀を止める。
「人間は皆同じに見えるから、助かったぞ……もう少しでこの顔を潰すところであった」
リザードマンは地面に転がった頭を一突きし、部下に放り投げた。
「魔王様に届けよ」
そう一言吐いて、まだ生き残っているであろう人間を狩りに向かう。
数時間後――
草原に血の華と焼け焦げた肉の臭いだけを残し、その無益な戦は幕を閉じた……。
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