第144話(サイドa):これからもずっと臆病なまま

『これより、女子400m走を始めます。出場する生徒は、位置についてください』


 放送部の聞き取りやすいアナウンスが、いつも以上に大きく聞こえる。


 私は体育館の側に置かれたベンチに、行儀悪く体育座りをして、閉じた膝の間に顔をうずめていた。買ったばかりのペットボトルのスポーツドリンクは横に無造作に放られ。まるで拗ねた子供が駄々をこねるように、その場を動こうとはしなかった。


 ——あさみんはどうなの?——


 その言葉に答えることができなかった。ただただ圧倒されて、言葉を出そうにも声が詰まった。

 本当は言いたいことが沢山あった。私だって優が好きで、優に好きになってもらいたくて、そのために頑張りたいって思ってた。それを彼女に伝えたかった。

 でも思うだけなんて簡単で、それをいざ形にしようとしたら、緊張で訳が分からなくなる。


「そういえば……昔もこんなことあったな……」


 小学生の頃の嫌な記憶がよみがえる。伝えたくても伝えられなくて、土壇場で逃げてしまった記憶。それが嫌で、思い出したくないから変わりたくて、中学に入った時に見た目とか変えてみた。

 自分を守るためだった前髪を切って、見た目だけでも明るくしようとヘアアレンジを頑張って。メイクだって覚えて。今に近い、ちょっとギャルっぽい雰囲気になった。それのおかげで、少しだけ自分が明るくなれた気がしたのだ。

 これだったら、私は過去の私と決別できる。そう思い込んで、ガラにもないキャラで頑張って……頑張って……。


 ちぐはぐな思いと、不釣り合いな見た目。本当の私ではない違和感。けれども、過去に戻りたいとは思わなかった。それだけ苦い記憶だったから。

 その思いを忘れないためにも、私は今のスタイルを貫いた。継続すれば、それはいつか私になる。今までの私ではない、新しい私として、きっと花開く。そう思い込んで。


「全然ダメじゃん……」


 あまりの情けなさに、乾いた笑みがこぼれた。

 理想の私には、遠く及ばない。今も昔も、私はこんなにも弱い。


 気を緩めると、涙が零れそうになる。でも我慢して、泣かないように必死に堪える。私にはそんな資格はない。泣くのは、努力をした人の特権だ。私はまだ、何もできていない。それなのに、おこがまし過ぎる。


 変わらなくちゃいけない。努力しなくちゃいけない。胸を張って、優が好きなんだって言いたい。私はあなたの、ライバルだよって。


 横に放置していたペットボトルを拾い上げ、蓋を開けて一気に飲み干す。スポーツドリンク特融の甘さのある水が、喉と体を潤していく。


 こんなことで、自分の何かが変わるなって思ってない。これはただのデモンストレーションで、根本は変わらない。きっと私は、これまでも、これからも、ずっと臆病なままだろう。


「……はぁ」


 大きく息を吐いて、空になったペットボトルを見つめた。

 ならその思いを抱えたまま、逃げずに戦うしかない。怖くても、ぶつかっていくしかない。思いを伝えるって、きっとそういうことだ。ごまかさない……私の気持ちで、言葉で、示していく。


 日角さんに気づかされて、ようやく覚悟が固まった。遅すぎるだろって、きっと寺氏とかには言われるかもしれないけど、私にはこれくらいが丁度いい。


『続きまして、男子400m走です。出場する選手は、位置についてください』


 放送部のアナウンスが聞こえ、急いで校庭へと向かう。男子400m走は、優が出る種目だ。見逃すわけにはいかない。

 400m走は人数の関係上、全員が一斉にスタートする仕組みになっている。そのため種目としてはかなりあっさりと終わってしまい、盛り上がりに欠ける競技でもある。50m走や100m走と違って、見どころも今一つわからないのが、さらに不人気な競技に拍車をかけているのだろう。

 でも私からすれば、長い時間優が走ってる姿を見ることができて、人数も少ないから見やすいのが良い。


 父兄側に近い位置の応援席まで戻ると、丁度スタートのピストルが鳴った。全員が一斉に走りだす中、中の方から先頭に追従する優を発見する。


「優!」


 周りの声援にかき消されないように大きな声を出す。


「頑張れ!」


 目の前を通る瞬間、優がこちらをチラリと見て、頬を緩めた。手を振ったり、こっちにわかりやすいサインを出したわけじゃないけど。そのさりげないしぐさが、私の心を射止める。

 ちゃんと伝わった。そう思わせてくれる顔だった。


 まずはここから。ここから始めていく。少しずつ、一歩ずつ、優に私を知ってもらうために。


 空になったペットボトルをギュッと握り絞め、先頭に必死に食らいつこうとする優の背中を見つめる。あふれ出る思いを手放さないように胸に秘め、日角さんや寺氏がいるスペースの方に向かった。

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