第125話(サイドs):瀬川幸恵のちょっと複雑な一日
それから1時間ちょっとの時間が過ぎた。
結局あれからお客さんが来る気配もなく、仕事を早々に片づけてしまったのであろう優くんは、少しソワソワした様子でモップを片手に店内の掃除をしていた。
私はというと、持参した勉強道具を広げ、優くんがバイトに勤しんでいる目の前で自習をしている。
もともとここで勉強をするつもりでいたし、比較的暇なお店だとわかっているから、もしかしたら優くんの時間にも余裕ができるかもしれないと思った。そうしたら彼に勉強を教えてもらえるから、彼にも会えて一石二鳥だ。
希望的観測だったけど、やっぱり人こないんだな。どうやって政経立ててるんだろう、店長さん。これだけお客さんが来ないのに従業員を雇ってるし。ケーキを作ってるから、材料費だってバカにならないだろうに。う~ん……不思議な人だ。
ちょっとした謎に思いを巡らせていると、優くんが「わかんないところでもあるか?」と話しかけてくる。振り向くと、彼は手を止めて私の方を見ていた。
別のことで悩んでたんだけど……まあいいか。ちょうど詰まってたし。
「実は三角関数が……」
本当に五教科全てが苦手な私だけど、数学や理科といった理数系の問題はわをかけて苦手なのだ。だから優くんにはいつも、文系よりも理数系をメインに教えてもらっていることが多い。
数学は反復練習だって言うけど、それでもよくわからないんですよね。そもそもθってなんなんですか? θって? 飛行石を抱えて空から降ってくるんですかね?
心の中で文句を呟く。そんなことをしても何も変わらないのはわかっているけど、これだけ何もわからないんだから悪態の一つも付きたくなるだろう。
しかしそんな私とは裏腹に、優くんは「ああ、そこ難しいよな」と微笑んだ。普段から勉強していて、学年でも50位以内をキープしている彼にとっては、そこまで難しい問題じゃないんだろう。
優くんはモップを手にしたままそばまで寄ってくると、ほとんど顔の真横から私の手元を覗き見た。
彼の匂いが鼻腔をくすぐる。
人にはそれぞれに独特の匂いがあるけれど、いままで会ってきた人の中で、私は彼の匂いが一番好きだ。もちろん彼の人柄も愛してるけど、一番と言われてパッと思いつくのは匂いだろう。
だけど好きだからこそ、突然近くに来られると戸惑ってしまう。それに……ドキドキする。
チラリと目線だけ横に向けると、想像以上に整っている顔が視界に埋まった。
彼は自分の顔面偏差値は中の下くらいに思っているかもしれないけど、実はよくよく見るとパーツパーツは整っていて、少し目つきがキツイことを除けば、十分にイケメンと言われる顔だと思っている。
怖がられている理由はきっと、その不愛想な態度だろう。それについては、結局夏休みを過ぎても変わっていない。
だけどそのおかげで他の女の子たちが彼の魅力に気づかないから、私としてはホッとしている。
まあ、一部例外は出てきちゃったけど。
一生懸命彼が説明をしているのに、私は上の空でボーっとその横顔を見ていた。
「……俺の顔に何かついてる?」
「えっ?」
あっ、見すぎちゃった。
「ごめんなさい! そういうことじゃないんです!」
慌てて否定すると、彼も「まあいいんだけど、ジッと見るのは止めてほしいかな」と恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
その顔が可愛くて、心臓をギュッと握り絞められたような感覚になる。
可愛い……可愛いけど、とりあえず落ち着こう。せっかく優くんが勉強を教えてくれているんだから、ここはちゃんと聞いておかないと。
――デートみたいなもんだろ?——
気持ちを切り替えようと思ったけど、こういう時に限って変なことを思い出す。
先ほど店長さんに言われた言葉。はたから見ればカップルのデート。つまりこの状態も……見る人が見れば、そういう風に見られるってこと。
急に顔が熱くなるのを感じる。今こんなことを考えてる場合じゃないのはわかってるけど、隣に優くんがいて、さっきあんなことを言われて、今更ながらに意識しない方がおかしかった。
「幸恵?」
私の異変を察知したのか、優くんは心配そうにのぞき込む。
「どうかした?」
「えっと……その……」
ただ私もなんと答えたらいいのかわからないので、押し黙ってしまう。もちろん優くんもどうすることもできないので、私の方を見つつ困った表情を浮かべた。
ちょっとの静寂。とても苦しく感じる静寂。自分が勝手に取り乱して勝手に空気を悪くしてるだけなのに、申し訳なく感じる。だからかもしれないけど、優くんにそんな顔をさせたくなくて「デート……ですかね?」と口に出してしまった。
言ってから、とても後悔した。変なことを尋ねたのもそうだけど、先ほど優くんが店長さんに言った言葉を思い出したのだ。
——真面目にやってるんですよ――
優くんにとって、私との勉強会はちゃんとしてるものなので、邪な気持ちなんてきっとない。それなのに私は、店長さんに言われただけで浮かれてしまって。いけないことだとわかっているのに、思ってしまっている。
「何を言ってるんですかね私は! 忘れてください!」
「あの、幸恵……」
「さぁ! 勉強しましょう!?」
無理やり話を引き戻して、自分に活を入れ直す。優くんの気持ちを蔑ろにした報いを、その瞬間に自分で刻む。失望されてなければいいと、不安になりながらも、なんとか頭を切り替えようとしていた。
けどそんなことが上手くいくわけもなく、目頭が熱くなるのを感じつつも、とにかく気丈に振る舞った。
「……デートってさ」
「……はい?」
「男女が日程を決めて会うこと。その約束なんだって」
話が見えてこず、私は戸惑いながらも優くんを見る。
「だからきっと、最初に二人で図書室で勉強会したときも、見方によっては……デート……なんじゃないかな?」
顔を赤らめながらも、優くんはそう言ってくれた。私があんなに取り乱してたから、きっと気を使ってくれたんだろう。
本当に、優しい。
ドクンドクンと……耳から心臓が出るんじゃないかってくらいうるさい。本当なら今すぐに抱きしめてしまいたいくらい、彼のことが愛おしい。
でも彼女でもない私が、優くんにそんなことをするはずもなく。その気持ちを抱えながら、続きを話し始める彼の言葉に耳を傾けた。
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