終章

第68話 韜晦



 空気を入れ替える為に開けた窓の外は、もうすっかりと雪が解けている。

 それでもまだ寒い。火鉢を引き寄せながら、朧玉ろうぎょくは白い吐息を吐き出した。


「世太子殿下がお見えです」

 掌を火の上にかざして温めていると、取り次ぎの女官が来客を報せる。

 通せ、と答えてしばらくすると、旅装に身を包んだ鴛翔えんしょうが入室して来た。

「出発前のご挨拶に」

「おお、そうか。今日であったか」

「十日ほど、宮中のことをよろしくお願い致します」

 すっかり失念しておったわ、と笑う朧玉に、鴛翔は鷹揚な笑みを浮かべた。

 今日から数日の予定で、鴛翔は螢月けいげつと共に再興中の金輪クムワを訪れることになっている。世太子としての公的なものではなく、私的な視察という態だ。

「螢月は如何した?」

 間借りさせていた中宮殿を出て、鴛翔の住まう東宮殿に近い部屋に移った螢月の様子は、以前のようには把握出来ていない。

 出かける支度は大丈夫なのだろうか、と首を傾げると、鴛翔は頷いた。

「支度を終えてから、梅園に行っていますよ」

「梅園?」

「はい。蝋梅が咲いたそうなので」

 後宮の端の方に在る庭園に鎮座する梅の巨木は、僅かに緑がかった黄色の花を咲かせる。

 薫り高く凛としたその花は、螢月の本来の名である「萌梅ほうばい」の由来になっていたらしい。それ故に、咲いたら見てみたい、と言っていたのだ。


 そうか、と頷き、不思議そうに鴛翔を見遣る。

「共に行かずによかったのかえ?」

 正式に世太子妃として婚儀を挙げたのは、秋の半ば頃のことだった。あれ以来、螢月も鴛翔も仲睦まじく寄り添っている。

 政務の為に外廷に出ているとき以外は、執務室で書状の整理を手伝ったり、休息の為に庭園を散策したり、とにかく共にいるような状態だ。それが日常的なものとして慣れてきていただけに、別行動をしている様子が少し不思議だった。

「そんなに四六時中共にいるわけでもありませんよ」

 からりと笑い、受け取った茶を啜る。

 朧玉も僅かに苦笑して、同じく茶を啜った。


 僅かな沈黙が訪れ、ややして、朧玉は少し言いにくそうに口を開く。

「その……母として問うが」

「はい?」

「上手くいっているのか? 閨室ねやのことは」

 既に何度も床を共にしていることは、後宮の長として把握している。

 だが、鴛翔は女嫌いが極まって今までずっと寝所に女は近づけなかったし、螢月もぼんやりとしている性格そのままに男女のことには疎いようで、どうにも心配だ。上手く致せているのだろうか。

 世継ぎはなるべく早く欲しい。早々に床入りも済ませ、睦まじさも相当な二人ではあるが、まだ兆しの報告は受けていない。


 鴛翔は呆れたように溜め息を零し、苦笑した。

「ご心配されずとも、それくらいの心得はありますし、螢月もです」

「然様か」

「はい。いずれ、そう遠くないうちに、太子でも公主でもその腕に抱かせて差し上げられますよ」

 気長にお待ちください、と言われ、朧玉は安心して頷いた。

 子供が授かりものだということくらいは、実子のない朧玉でもわかっている。神仏に祈りを捧げながら、あまり期待と重圧をかけぬようにして、程よく見守るようにして待つのが得策だろう。


「ところで、王后様。以前から伺いたいことがございました」

「なんぞ?」

 随分とのんびりしているが、出立の刻限はいいのだろうか、と首を傾げるが、肝心の螢月もまだ戻らないし、問題ないらしい。

月蘭げつらん姫の手紙のことです」

 僅かに笑みを浮かべながら、鴛翔は尋ねる。

 朧玉は僅かに首を傾げて見せた。

「行方を、あなた様ならご存知ですよね?」

 はっきりとした確信を持って、鴛翔は問いかける。朧玉は押し黙ったまま、ゆっくりとふたつ瞬いた。

「何故、そう思う?」

 微かな笑みを唇に載せ、逆に問いかける。鴛翔は僅かに双眸を細めた。

「あなた様が、湘家の姫だからです」


 朧玉の生家であるしょう家、鴛翔の腹心の武官である潤啓じゅんけいが当主を務めるじょ家、螢月の亡母月蘭の生家であるとう家、そしてこう家、家、家、しゅう家、そう家の八つの家門は、興国の重臣と謳われる古く力のある家系だ。

 その家はどの代でも王に娘を嫁がせ、逆に公主の降嫁を賜り、国主さい家と密接に交わってきたのだ。

 そして、その関係故に、どの家もお互いを牽制し、出し抜こうと画策し、常に対立と共闘を繰り返してきた。

 国王はその関係を上手く操り、程よく均衡を保つようにすることで、政の安定を図っていた。りゅう国の中枢はそうして成り立ってきたのだ。


「昔から中立を貫く呉家と周家を除き、李家は当主が高齢で日和見がちであり、高家は代替わりしたばかりで力はない。野心家と噂のあった曹家は取り潰され、徐家の当主は潤啓で、あなた様に近いわたし寄りだ。つまり、湘家の障害となり得る家はもうない」

 娘が王后に納まっているということで多少の特権を得てはいたが、抜きん出て強みのあるものでもなかった。だが、他の家が弱体化したり、味方側に与しているのならば違う。

 今の朝廷で最も力を持つのは朧玉の実家である湘家であり、彼女の兄である現当主は、年明けより宰相職を得ている。

 当代の王である弘宗こうそう――鴛祈えんきは、昨夏の騒動が収まって以降、神廟に籠もりがちになっている。今では殆ど隠居状態で、政務は世太子である鴛翔が代理として行っている状態だ。

 今年中にも譲位が成されるのではないか、と廷臣達の間では噂が流れている。それくらいに、最近の鴛祈は政務に熱心ではない。

 そのお陰で、湘家の力はますます強まっている。重要な役職には湘家の縁戚筋が多く登用され、それに対する不満も当然出てきているが、諫めることの出来る者は今の朝廷には存在しない。


 何処から何処までが朧玉の考えで行われたことなのだろうか。

 鷹揚で寛大な王后として後宮で女官達に慕われている彼女が、そんなことを企んでいるなどと、誰が思い至ることだろうか。証拠を掴んで暴いてみせたとしても、半信半疑で困惑されることだろう。

 それくらいに、湘朧玉という女は信用を勝ち得ていて、英邁だった。


 ふふっ、と朧玉は微かに笑った。

「初めの一通はな。私が隠した」

 そのあとの文のことは知らない。恐らく朧玉の家が関わっているような気がしないでもないが、それを知っているだろう両親は、どちらも数年前に相次いで鬼籍に入っており、もう確認のしようがない。


「何故そのようなことを?」

 月蘭は親友だった筈だ。その彼女が恋人に宛てた手紙を横から掠めてしまうなんて、あんまりではないだろうか。

「戻っても、不幸になるだけだと思ったからだ」

 問いかけの答えは、往時を偲んでぽつりと零される。


 あの頃の都は、ひどく落ち着きがなかった。戦が終えたかと思えば二人の太子が対立し、負けた世太子は廃嫡され、その直後に再び戦が起こった。それらに忙しく対応していた鴛祈は、月蘭と赤ん坊を迎えに行けるような状態ではなかった。

 だから、少し時を見てからにした方がいい、と思って手紙を隠したのだ。

 もう少し経ってまた手紙が来ていたら、すぐに鴛祈に報せてやろう、と何度となく隠し場所を確認していた。だが、それっきり手紙を見ることはなかった。

 隠れ住んでいるらしい地名はわかっている。鴛祈に教えてやるべきだろうか、と悩んでいるうちに、王后としての入宮が決められてしまった。

 後宮に入るということは、家の為だ。政治の為の婚礼だ。女として生まれたからには、そうして家の為に嫁ぐことが宿命なのだ。

 家の繁栄の為に、障害となるものは排除せねばならない。王の妻として迎えられる朧玉にとって、それが王の寵愛を得ている親友の存在だった。


 悪いことをしたとは思っていた。ずっと悔やんでいた。

 だが、月蘭は守月という夫を得て、二人の娘を育て、幸せに暮らしていたというのだから、これでよかったのだ――と己に言い聞かせていたところだ。

「なにより……」

 小さく言いかけ、やはりやめた、という風情で苦笑して口を噤む。

 そんな朧玉の様子に、鴛翔が言葉を継いだ。

「陛下を怨まれておいでだったから、ですか?」

 見透かされた言葉に、ふっと笑みを浮かべる。

「なんじゃ。気づいておったのかえ」

 意外そうな朧玉の声に、然もありなん、と鴛翔は頷いた。


 肩の力を抜いた朧玉は、冷たい笑みを浮かべて「怨んで当然だ」と言った。

 鴛祈が月蘭を孕ませなければ、噂を聞きつけて激怒した鴛凌えんりょうが私兵を差し向けることもなく、その為に彼女が都落ちすることもなかった。朧玉の許を去ることがなかった。

 その名の通り、月のように凛として涼やかな容貌と、蘭のように美しくかぐわしい佇まいの彼女へ、朧玉は友人以上の親愛の情を抱いていた。

 だから鴛祈が許せなかった。月蘭をあんな目に遭わせたことも、朧玉を王后に迎えようということも。

 初めの手紙を隠したときに、鴛祈に対する意地悪心が働いてなかったといえば嘘になる。その程度には黒い感情が動いていた。

 それきり手紙を見かけなくなったので、月蘭はもう鴛祈のことを忘れ、別に生きていくことを選んだと思ったのだ。

 今思えば、人を遣って様子を確かめるくらいすればよかったのだろう。けれどそうすれば、湘家の為にはならない。

 親友への親愛と、憎らしい新王への怨嗟と、実家への義務との間で悩んだ結果、沈黙することにしたのだ。


 月蘭の娘である螢月が現れて、彼女がどう生きてきたのかを聞き、心から安堵したのもまた事実。

 今後は螢月の後ろ盾となり、頼りない彼女を支えていくことで、月蘭への贖罪としたいと思っている。



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