第62話 宿業



 自らその名を口にした筈なのに、その事実が信じられなかった。

 けれど目の前にいる男は、記憶の中のものより多少老けてはいるが、確かにあのスウォルでしかなかったのだ。


「スウォル……」

 信じられない思いで、確かめるようにもう一度その名を呼ぶ。

 守月スウォルは小さく鼻を鳴らし、青褪める鴛祈えんきを睥睨した。

「覚えておられたか」

 皮肉気な響きを含んだその声に、鴛祈は身震いする。

 確かにスウォルだ。滅多に喋らない男だったが、口を開くと刺々しい声を発することは覚えている。その声音が月蘭げつらんにだけ柔らかいのだということも。


「何故……何故、お前が……」

 茫然と呟き、ハッとしてあたりを見回す。

蘭々らんらんは何処だ?」

 月蘭の従者だったスウォルは、いつも月蘭と一緒だった。鴛祈との逢瀬にも同行していて、邪魔だと何度思ったことか。

 あれだけ付き従っていたのだから、あの忌まわしい夜も、二人は共に逃げたに違いない。


 そのひと言が契機になった。

 拝跪していた者達は一瞬反応に遅れ、構えて立ち上がったときには、守月は鴛祈に掴みかかっていたところだった。

「近衛!」

「待て!」

 侍従達が捕らえさせようと隠れて控えている筈の衛士を呼ばうのと、それを鴛翔えんしょうが止めさせるのは同時だった。


「どの口が、お嬢様を呼ぶ!」

 守月の怒りに満ちて押し殺された声が、鴛祈に迫る。

「お嬢様を棄てた貴様に、その名を呼ぶ資格はない!」

「棄てた?」

 聞き捨てならない言葉だ。鴛祈は眉根を寄せ、襟を締め上げている守月の手首を掴んだ。

「貴様こそ、何故ここにいる? 蘭々をどうした!」

 怒りに頬を染め、鴛祈が言い返す。守月は眉を吊り上げ、締め上げる手を更に強くした。


「父さん、やめて!」

 わけがわからないでいた螢月けいげつだが、よそ様に暴力を振るう父を止めなければ、と悲鳴を上げた。

 その声に鴛祈が眉を上げ、守月と螢月を交互に見た。

 駆け寄って来た螢月が触れると、守月は振り払うようにして鴛祈の襟を離す。僅かによろめいたところを侍従達が慌てて支えた。

「娘、だと? 貴様の?」

 怪訝そうに目を細め、螢月の顔を見つめる。螢月は怯えたように身構え、不敬かとは思いつつも、鴛祈を見つめ返した。

 その父娘の様子を見ながら、この娘はいったい何者なのだろう、と改めて思い至る。何故スウォルの娘が、この王宮の中にいるのだろうか。


 守月は螢月を庇うように前面に腕を差し出す。その様子を見た鴛祈は、ハッと小さく笑い声を零した。

「貴様、子を設けたのか。蘭々にべったりと張りついていた貴様が、子を?」

 鴛祈は乾いた笑い声を響かせる。


 つまりは妻を娶ったのだろう。月蘭以外の女を。

 鴛祈はずっと、この男は月蘭に懸想しているのだと思っていた。拾われ者のくせに主家の姫を恋い慕っているのだと、その愚かな片恋をずっと腹立たしく思っていたのだ。

 二人の消息が揃って知れないと聞いたときから、ずっと危惧していた。これを好機と、身重の月蘭になにか無体を強いるつもりではなかろうか、と。

 だが諦めたようだ。だから、子がいる。月蘭には似ていない娘が。

 貴様の恋慕はその程度の想いだったのか、と嘲笑すると、守月は堪えるように、僅かに眉間に力を入れる。


 そうこうしているうちに、先程の騒ぎ声を聞きつけていた衛士達と、部屋から異変に気づいた朧玉ろうぎょく達が集まって来た。

「陛下」

 朧玉は心配そうに夫である王を呼び、その彼に先程掴みかかっていた男の方を見遣る。そうして、ハッと息を飲んだ。

「其方……、まさか、スウォルか?」

 窺うように尋ねてくる朧玉に、守月は頷き返す。

「ご無沙汰致しておりました、しょう家の姫様」

「あぁ、スウォル! 生きておったのだな!」


 その一連のやり取りに、螢月は頭の中を疑問符でいっぱいにする。

 父と王は知り合いだったのか。そして、王后とも知り合いだったのか。

 昔、母は都で暮らしていて、父はそこの使用人だったという話は聞いたことがあったので、その関係で知り合っていたのだろうか。

 それでは、先程の王との剣呑なやり取りはいったいなんだったのだろう。朧玉とは親しそうな雰囲気だが、王とは仲が悪かったのだろうか。


 次々と浮かんでくる疑問と状況整理をしようと混乱していると、そっと肩を抱かれる。振り返れば鴛翔がいた。

「鴛翔さん……」

 不安げな声に、鴛翔は優しく微笑み返す。

「心配はいらぬよ、螢月殿。これですべてが明らかになる」

「明らか?」

 いったいなんのことだろう。螢月にはまだよくわからない。


 大丈夫だ、と笑みと共に力強く囁くと、鴛翔は守月の許へと行く。

守月しゅげつ殿、話してくださらぬか? すべてを知っているのは、恐らくあなただけだ」

 その言葉に守月は静かに振り向き、そうしてゆっくりと、その場を見渡した。

「我等はいくつかの情報は得ています。けれど、確証はない。あなたなら知っておられるでしょう?」

 説得するように紡がれる鴛翔の言葉に、このスウォルがずっと到着を待ち侘びていた螢月の父親であることを朧玉は悟った。


「……わかった」

 ややして守月は呟くように同意した。その様子に一同はホッと胸を撫で下ろす。


 そのときだった。


「お父様!」

 庭の向こうから、弾むような少女の声が響いてくる。

 揃って振り返れば、供の女官達を従えた萌梅ほうばい公主の姿があった。

 王の帰還を聞きつけ、逸早く会いに来たのだろう。満面の笑みを浮かべ、裾を蹴立てて嬉しげに駆けて来る。


 月香げっか、と呼びそうになって、螢月は口を噤む。自分達はもうそういう間柄ではないということになったのだから、親しげに呼んではいけない。

 その悲しい気持ちを堪えるように、鴛翔に寄り添ってその袖口を掴んだ。誰かにこの心を支えてもらわないと、落ち着いていられなかったのだ。

 そんな螢月の様子に気づいた鴛翔は、悲しみと不安が綯い交ぜになった横顔を見下ろし、宥めるようにその肩を抱き寄せる。


「お戻りなさいませ、お父様!」

 明るい声で言いながら駆けて来るが、いくらも近寄らない位置に来て、その場の異様な雰囲気に気づいて脚を止める。そして、そこに居並ぶ面々を目にし、僅かに表情を強張らせて瞠目した。


 国王夫妻、世太子、螢月、そして父――何故この場に、こんな取り合わせで集まっているのだ。

 なにかよからぬことが起こるのでは、と瞬時に理解した月香は、緊張を滲ませてそれぞれの顔を見渡した。


「おお、萌梅……」

 娘の緊張を怯えと解した鴛祈は、宥めるような声を出して手を差し伸べる。

「なにも恐がることはない、大丈夫だ。さあ、父の許へおいで」

 月香は頷き、警戒しながら鴛祈の許へと駆け寄る。王は優しい腕で娘を抱き締めた。

 その様子を一瞥した守月は静かに目を伏せ、鴛翔へと向き直る。

「場所を移そう。せめて女達が座れる場所がいい」

「そうですね」

「なれば、中宮殿はすぐそこだ。そちらに行こう」

 王を迎え入れる為に茶請けの仕度も出来ている。話をするなら丁度いいだろう。守月も鴛翔も朧玉からのその提案を受け入れた。

 それでも一応は祇娘ぎじょうに申しつけ、室内の確認と用意に戻らせる。それを待つ為に、少し間を置いて向かおう、ということにする。


 その間に月香は鴛祈の袖を引いた。

「お父様、萌梅は嫌です。あちらに行かないで」

 きっとこれから話されることは、螢月の出生を言及したものに決まっている。それ以外に考えられない。

 そうしたら月香の嘘は確実にばれてしまうし、こんな大それた詐称を働いたのだから、この先どうなってしまうのかわからない。今の暮らしを奪われるくらいならまだいいが、もっと恐ろしいことになってしまうのではなかろうか。


 震える月香の様子を憐憫の表情で見つめ、鴛祈は申し訳なさそうに抱き締めてくる。

「なにも案ずることはないぞ、萌梅。ただ少し、昔話をするだけなのだから」

 娘に言い聞かせながら、鴛祈はその言葉を己でも噛み締める。

 そうだ、これから聞く話は、今も愛している月蘭がどうしたのか、それを知る為でもある。鴛祈は聞かねばならなことなのだ。


 そんな鴛祈の決意など、月香にはどうでもいいことだ。

(なにが大丈夫なのよ。全然大丈夫じゃないわ!)

 心はどんどん追い詰められていくが、どうすれば引き留められるのかわからない。

 ただ駄々捏ねのように嫌がってもわかってもらえないだろうし、なにをそんなに嫌がるのか、と理由を訊かれることになる。それに答えることは出来ないのだから、やはり引き留めることは出来ない。

 それでもどうにかしなければ、と焦る気持ちから鴛祈に縋りつく指先に力を込めると、ふと、視線を向けられていることに気づく。

 振り返らなくてもわかる。父の視線だ。

(なんで父さんまで王宮に来てるのよ……!)

 なにを言われるかわからなくて、月香は必死のその視線から顔を背ける。

 螢月だけなら上手く言い包められたところだというのに、あの厳しい父は無理だ。すべてが暴かれてしまう。


 しかし、鴛祈が気にせずに娘として扱ってくれていることから、その守月がまだなにも言っていないことに気づく。

 何故、と内心で首を捻る。そうしてハッとした。

(もしかして、父さんはなにも言わないでいてくれるつもりなの?)

 嘘を暴かずにいてくれるか、若しくはさり気ない援護をして、月香が萌梅公主であることを納得させてくれるのかも知れない。

 きっとそうだ、と月香は心の内でほくそ笑む。

 ここで月香の嘘がばれたら、月香には罰を科せられる。そんな不幸なことはない。

 可愛い娘の不幸を望む親などいない。親からは無条件で愛されるものだと思っている月香は、愚かにも自分に最善で有利な状況を想定した。

 それならば安心だ、とホッと力を緩めたとき、女官が中宮殿に迎え入れる準備が出来たことを伝えに戻って来た。



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