第53話 偽証
結局
「…………とうさ、ん……とう……さ……」
夜になって熱が出てきたらしく、
「螢月殿」
ある程度の聞き取りと自分の仕事を片付けてから付き添っていた
「…………ぇん、しょ……、さ……?」
掠れた声が確かめるように名を呼んでくれるので、鴛翔は大きく頷く。螢月は少し安心したような表情になった。
すぐに
虹児が水を飲ませてくれてから、鴛翔はこの体勢ではお互いの顔が見えないことに気づく。けれど他に螢月を楽にさせてやれる体勢が思いつかなかったので、仕方がない。
「苦しくはないか?」
問われ、螢月は微かに頷くが、それだけで首の傷に障ったらしく、短く呻き声が零れたあと、痛みから涙が溢れたようだ。首筋が濡れていくのを感じる。
抱き締めて、頭でも何処でも撫でてやりたかった。けれど、今そんなことをすれば、この熱を持って赤くなっている背中が痛むに決まっている。鴛翔はやり場のない手をそっと握り締め、脇息の代わりを務めるしかなかった。
少しすると人の気配が近づいて来たようなので、横目で戸口を見遣ると、報せを受けた
「目が覚めたと?」
心配そうな表情でそう尋ね、鴛翔の胸に寄りかかっていた螢月が振り返ろうとするので、慌ててそれを押し留める。
「よかった……。ほんによかった」
そう言って双眸を潤ませ、無事を確かめるように頬を撫でる。その手の優しさに螢月はまた母を思い出し、涙を溢れさせた。
「痛むのかえ? 誰ぞ、侍医を呼んで参れ」
もっと詳しく診てもらおう御殿医を呼ぼうとすると、既に呼びに行っている、という答えがあり、気の利く女官達に仕事ぶりに満足気に頷き返す。
螢月はそんなやり取りを見ながら、自分の置かれている状況を整理しようと記憶を巡らせる。背中がズキズキと痛み、その瞬間、昼間のことが鮮やかに脳裏へと上る。
(
すべてを思い出すと、頭痛がするくらいに酷い悲しみに襲われた。溢れ出してくる涙を止められず、啜り泣く。
「螢月殿……」
心配気な鴛翔の声が届き、ハッとして顔を上げようとするが、首に痛みが走って断念する。
この痛みはなんだろう、と怪訝に思いながら恐々と首に触れると、包帯が巻かれていることに気がつく。それで、ここを酷くぶつけたかなにかしたのだろう、と納得した。
「横にさせた方が楽ではないのか?」
螢月の顔を覗き込みながら、朧玉がおろおろと尋ねる。
いいえ、と螢月は答えた。鴛翔に支えてもらっているので申し訳ないが、昔から俯せ寝はあまりしないので、横になっていると少し息苦しかったのだ。その所為で魘されたのかも知れない。
そうか、と朧玉は安心して頷き、用意してもらった椅子に腰を下ろす。しかしその視線は、憐れむような色を湛えて鴛翔へと向けられていた。
「
「ええ、問題ありません」
平然と答えられるのへ、朧玉は「……然様か」と曖昧な返事をする。
健全な若い男が、恋する娘が半裸姿でその腕の中に在って俄かにも動じないとは、その理性は鋼鉄製なのだろうか、と思わず疑いの眼を向けてしまう。
まさか男性としての機能が死んでいるのではなかろうか、とこの場にそぐわない下品な想像をしてしまったのは仕方がないことだろう。
螢月も螢月で、恥じらいはないのだろうか。――いや、自分の姿に気づいていないだけか、と目の前の二人の様子に少々の呆れを抱きながらも、朧玉は口を開く。
「つらいところをすまなんだが、螢月。其方の身になにがあったか、教えてくれぬか?」
その言葉に螢月はギクリとした。
「其方は厨膳処に倒れておってな。湯を被ったのか……」
「転びました」
問いかける言葉を遮り、螢月ははっきりと答えた。自分で転んだのだと。
その様子に朧玉は双眸を眇め、共に聞いていた鴛翔と虹児も僅かに顔を顰めた。
「……
「はい。転んだんです」
答える声は掠れて上擦っているが、震えてはいない。しっかりとしている。
「背中からか?」
「足元がふらついたんです」
「誰かに押されたのではないか?」
「……っ、そんなことないです。自分の不注意です」
螢月は生来嘘をつくのが下手だ。問いを重ねられる毎に答えるのが苦しくなっていく。
でも、月香と一緒にいたことを言うわけにはいかない。言ったらきっと、どういう関係なのかとか、何故一緒にいたのかとか、そういうことを説明しなくてはならなくなる。それだけは駄目だ。
月香と一緒にいたことを話してしまったら、そのうち母のことも話さなければならなくなる。それを話すのには、螢月の心の中の整理がまだ出来ていない。自分が母の子ではなかったのだという話に、まだ納得出来ていない。
「螢月殿」
呼びかけられ、ハッとする。
「あ……、ご、ごめんなさい」
朧玉の問いかけに答えていくうちに、嘘を重ねねばならない緊張から、手近にあった鴛翔の腕をきつく掴んでしまっていた。痛かったのではなかろうか。
僅かに身体を離し、鴛翔は螢月の顔を覗き込んだ。
「本当のことを言ってくれ」
問いかける声が厳しい。螢月は小さく「えっ」と声を零したあと、視線を逸らした。
その後ろめたさを秘めていることを感じさせる様が、彼女のすべてを物語っているかのようだった。
「螢月殿」
「自分で転んだんです。自分の不注意です」
尚も問い詰めようとする鴛翔から逃れるように、螢月は身を捩って寝台の上に転がった。敷布と焼けた肌が擦れて痛かったが、泣き出さないように歯を食い縛る。
転んだんです、と小さく繰り返すその細い背中と、その上に巻かれた包帯を見て、鴛翔は僅かに怒りと苛立ちを上らせた。
「螢月殿、あなたは加護――葉っぱのお
その言葉に螢月は震えた。そうして、首の包帯に触れる。これはその手当てをされたものだったのか。
「どうやったらそんな怪我をするというのだ。誰かにやられたのであろう」
下手人の名を言ってくれ、と言う鴛翔の声は悲しげで、螢月を心配しているからこそ言ってくれている言葉だとわかり、螢月はますます頑なに首を振った。
「そんな人いません。私が転んだんです」
「螢月殿」
「私が自分で転んだんです」
もうこれ以上訊かないでくれ、と願いながら突っ伏し、同じ言葉を繰り返す。
月香のことを知られてはいけない。螢月がそんなに大怪我をしているのなら、一緒にいた月香がその怪我を負わせたと思われてしまうかも知れない。
今までずっと螢月の妹であるという立場に我慢してきてくれていた月香に、これ以上の迷惑はかけられない。
螢月がこれ以上なにを言っても答える気はないのだと見て、鴛翔は朧玉を見遣り、視線を戸口の方へ促すように向けた。
「……では、螢月殿。じきに侍医が参る故に、傷の具合を診てもらったあと、今宵はもう休まれよ」
静かな声音で諭すように告げると、寝台を立つ。その様子を横目で見ながら、螢月はホッとした。
あとは頼んだ、と控えていた女官達に言い置き、退出するついでに虹児の腕を掴んで部屋の外へ連れ出す。その行動に驚いた虹児だったが、さっと口許に指先を当てられたので、黙ってついて行った。
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