12話 天に手でさわればいい

 昼のあたたかさが嘘のように西に傾いた頃の空気は冷たかった。

 身が切られる寒さとはどれほどのものなのだろう、とメグミは思いながら学校の屋上に立っていた。髪が風に乱れるたび、手で髪をすく。手を離すと乱れる、それが嫌だから風に向かってメグミは立った。

 大輝勇がそこにいる。

 彼も風に向かって立っている。

 メグミは紺色のブレザーのポケットに手を入れながら彼の隣へと歩いた。


「安曇さん、どうしたの?」


 用があるから来ただけよ、そう言ってメグミは空をみた。

 西の方、灰色の、大きくふくらんだ、雲が折り重なる、それでいて、空がすみわたっている場所も目につく。冬が、もう、すぐそこまで来ている、という、知らせだ。太陽が、雲の中へと、隠されていく。光が、雲の隙間から、降り注ぐ。光のすじが、扇のように、広がっていく。太陽光線は平行にやってくるのに、目の錯覚で、広がってみえている。線路が遠くでくっついてみえるのと同じだ。雲の隙間からこぼれる光のすじは、カーテンのようで、すばらしい。太陽に背を向けて立つと、虹だ。虹が観える。雨かみぞれが降り出しそうな雲と紅葉の終わった山との間に、虹の橋がみえた。赤、だいだい、黄、きみどり、青、むらさき……あと一色はなんだったのか、わからない。青と白を基調とした空にカラフルな色彩が現れると気持ちが明るくなる、そんな気がする。


 太陽が雲の中に隠れていく。虹がぼんやり、ぼやけてきた。唇が乾燥してきて、下唇を巻き込むようにして噛む。虹は消えてしまった。雲からこぼれている光のカーテンはまだみえる。それにしても、自然の作り出すものはすばらしい。それに引き替え、人のつくるものははじめきれいでも、やがて色褪せてしまう。けれど、人の持つ、気持ちだけは、色褪せてはいけない。


 この前のこと、謝りに来たんだ。


 メグミは彼に向かい合わず、向かってくる風に向かって言った。


「この前、ですか」

 大輝勇は一瞬、メグミをみた。彼女の横顔をみてから風と向き合う。


 笑ったこと、悪く言ったことは私が悪かったと思う、なに言っても言い訳にしかならないから、だから……ごめん、


 謝りの言葉を口にしたメグミは、どうして真剣に謝っているのか自分でわからなくなっていた。謝ったところで、やはり、言い訳をしているに過ぎない。言い訳をするくらいならしない方がましだ。でも……自分の気持ちを無視した行動で傷つけたことに対しては彼に謝るべきだとして、彼に深く頭を下げた。テレビのニュースで軽く頭を下げる悪い大人達とは違うんだと意志表示を込めてポケットから手を出し、頭を下げ続けた。


「も、もういいから頭を上げてよ。怒ってないから」


 ほんと?


「それは……少しは怒ったけど」


 でしょ、


「でも、今は、そうでもないから」


 ほんとう?


「うん、本当だから」


 それじゃあ、とメグミは顔を上げて大輝勇の顔をみた。冷たい風の中、彼の顔がうっすら赤くなっていた。

 風は冷たかった。でも屋上に来たときの身震いするほど寒さじゃない。靴の中、足の指先はしびれたような、感覚が希薄になっている。でも寒くはなかった。むしろ暖かく、風とひとつに溶けてしまったみたいに感じる。


「虹、きれいだったね」


 うん、


「雲で夕日がみれないね」


 けど雲からこぼれてる光はきれいだよ、


「うん、本当だ」


 ひとつ聞いていい?


「なんですか?」


 大輝君って、本当は未来なんて、みえないでしょ、


「うん。やっぱりわかっちゃった」


 もし未来がみえてるなら、私が大輝君に悪いこと言うことだってわかっていただろうし、今日ここに来ることだって……と言いかけてメグミは口を閉じた。


「未来がみえるっていうのは嘘だけど、嘘じゃないんだよ、みえることもあるんだ」


 ここに私が来るのがわかってたの?


「確信はなかったけど、なんとなくそんな気がしたんだ。この前、目の前に映像が浮かぶように未来がみえるって言ったじゃない、昔は本当に、そんなふうに未来がみえたんだ。テレビをみているような感覚で、はじめはおもしろかったけど、だんだん嫌になってきてね、人より先にみたところで結局なにも変わらないし、だから気のせいだと思うようにしたらそのうちみなくなって。だから本当のことを言うと、僕に未来はみえてない。でもたまにみるんだ」


 大輝勇の話は、歳を取ったスーパーマンが昔を懐かしんでいるみたいにメグミには聞こえた。


 もうひとつ聞いていい?


「言わなくてもなんとなくわかるよ、どうして空に向かって手を伸ばしてたのか、あと屋上とか窓の外みてなにしてるのかってことだろ」


 メグミは小さくうなずいた。


「空みてると思ったことない? あそこを流れてる雲に触れそうだなとか、夜空の星がつかめそうな気がする、みたいなことを。触れるわけがない、わかってる。二十キロくらい上空に雲はあるし、星は何光年、手を伸ばしたところで無理なんだってことも知ってる。でもさ、頭で知ってるのと実際にやってわかることは違うと思うんだ。手に届かない? そんなことやってみなくちゃわからないじゃない。手を伸ばす、届かないから背伸びをする。でも触りたい。その気持ちを忘れず人が持ち続けたから、天体望遠鏡を発明し、ロケットやシャトルを作り、月に降り立ち、宇宙や星のことが少しずつわかってきた。それは別に星だけのことじゃないと思う、夢とかやりたいこととかなんにでも言えると思うんだ。触れない? 誰がそんなこと言ったの。やってみなくちゃわからないじゃない、そうだろ? そりゃうまくいかないこともあるだろうし、儘ならない思いを抱えてつらいときもあるかもしれないけど、手を伸ばしてみないと触ることもできないよ」


「屋上とか人のいない教室は静かなんだ。クラスのみんながいる教室だと聞こえない音や声に気がつけないんだ。屋上にいると昼間はグランドにいる人達の声やボールの弾む音、校舎内からは廊下を走ったり、階段を駆け下りたり、遠くで車の音がする、ブレーキ音だったり急発進、自転車のブレーキ音やバイクの走り抜けていく音、鳥のさえずり、飛行機が飛んでいく、風が建物に当たって作る音、火の明かりとぬくもり、そして匂い、工場から出る白い煙は吸い込みたくないけどかすかに嫌な匂いがまじっていたり、どこかで嗅いだことがある懐かしい香りは昔みた風景さえ思い出せる、空だって一階と二階じゃ違ってみえるし、いつもうすい青とは限らない、ものすごく遠くに感じる鮮やかな空だったり、気分が悪くなるような空もある。たまに、だけど屋上で寝ころぶんだ。そうするといつもみてる空と違うんだ、気持ちが軽くなる、すると普段聞こえない音まで聞くことができるんだ」


「変なことしてるなって思ってるんでしょ、わかってる。でも今みてるもの、触るもの、匂いや温度は昔感じたものといま感じたものは違う、きっと五年ぐらいたったとき感じるものとも違うと思う。旬って言葉があるでしょ、その季節にしか味わえないもののことだけど、本当は毎日毎日が新鮮で、一瞬一瞬が新しいんだと思う。いま感じられることは感じておかないといけないような気がするんだ」


 大輝君のそういう考え、私好きだよ、


 メグミが言うと大輝勇は急に慌てだし、小さく早口で「ばかあ、先に言うなよお」と言ったあと、つきあってくれないかと告白してきた。


 告白したと勘違いしたらしい、メグミは笑いそうな気持ちを少し我慢してみた。でも笑ってしまった。笑いながら、そういう意味で言ったわけじゃないんだけどと説明しながらいいよと答えた。大輝勇の顔は沈んだ夕日みたいに赤かった。


 校舎の中に戻るとき、メグミは手をつないだ。彼の方が自分の手より温かかった。

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