第8節 愛娘
脳の奥に響くような痛みで目が覚めた。
薄っすらと目の前の光景が映るも、どこか視界がぼやける。
一体何があった……?
「起きたかい?」
声がして、ぼやけた意識がハッと覚醒した。
薄暗い部屋の中。
四方についたろうそくの灯火だけが、光源となっている。
目の前に、男が立っていた。
暗くてその表情はわからない。
だが、彼がテッドであることはすぐに分かった。
首には逆五芒星のペンダントが光っている。
そうだ、私はたしかテッドに殴られて気絶したんだ。
殴られた衝撃で吹き飛んでいた記憶が、ようやく戻ってくる。
だとしたら、この狭苦しい部屋は地下室か。
「うう……」
すぐ近くで、女性の声がした。
メアリとジルさんだ。
部屋の中心に、私達は固まって横になっていた。
「困るよ。勝手に人の部屋を漁られたら」
「どうして、確かにお茶を飲んだのに……」
「あぁ、美味しいお茶をありがとう。もう少し効力が強かったら危なかったねぇ」
私の睡眠茶は魔力耐性がない人間にしか効かない。
悪魔契約者であるテッドは、悪魔の庇護を受けている。
それで、お茶の効力がすぐに分解されてしまったのだ。
私の魔法が弱かったせいだ。
自分の未熟さが、こんな時に仇になるなんて。
立ち上がりたかったが、上手く動けなかった。
手足が縛られている。
そりゃそうだ。こんな時に獲物を逃すような真似はしないだろう。
そんな当たり前のことに気づかないほど、私は動揺していた。
テッドは私のすぐ近くに寝転がるジルとメアリを撫でた。
蝋燭の灯りで彼の顔がぼんやりと照らされる。
その表情からは、慈しむような、愛しむような、慈愛の感情が漂っていた。
「本当はもっと手荒な真似を考えていたんだけれど、君のおかげで手間が省けて良かった」
「私達をどうするつもり……?」
「どうって、君が一番よくわかっているんじゃないか? ここ最近、僕たちに近づいていたのはそれが理由だろ?」
テッドはそう言うと、部屋の奥にある棚に置かれているロウソクに火をつけた。
ボゥッと火がつき、それがずっと探していた祭壇であると気付く。
ふと、私達を中心に、部屋中に陣が描かれていたことに気がつく。
見覚えがある。
悪魔召喚の際に用いる魔法陣だ。
「いつから気付いてたの」
「最初から。僕を見る目がおかしかったからね。驚いたよ。悪魔の契約印が見える人がいるなんて。魔女の中には見える人が居るとは聞いていたけどね」
「じゃあ、最初から私も供物に捧げる気だった……?」
「あぁ。魔女は悪魔の大好物だ。たとえ君がまだ見習いだったとしても」
「それなら生贄は私だけで良いじゃん! 何で愛した家族にまで手を出すのさ!」
するとテッドは「愛した家族だからこそ、捧げなければならないんだ」とかすれた声で言った。
「悪魔は自分の崇拝者の本気を探る。だから、最も大切な物を捧げなければならない」
「どうしてこんなことを……何があなたをそうさせるの」
「もう限界なんだよ」
テッドは、虚ろな笑みと瞳で私を見た。
「満員の通勤電車、社内の冷ややかな目線、無能な上司の扱い、後輩からの遠慮。全部全部全部……家族からの支えさえもが、僕を内側から破壊しようとしてくる」
目の焦点があっておらず、逝っている。
すでに彼が悪魔に魅入られており、正気ではないことが分かった。
「僕は見返さなきゃならない。僕を見下したあいつらを、僕をコケにした全ての人間を。君も僕の輝かしい人生の礎になってくれ」
「そんな下らないことのために……?」
「下らない……? お前に何が分かる! 僕がどれだけの屈辱を味わったか! どれだけの涙を流したか! 小娘のお前に、一体何が!?」
「それでも家族がいるじゃん!」
「家族なんて何の支えにもなりはしない。ただ、逃げ道をなくして追い込むだけだ!」
テッドはそう言うと、ポケットから鈍く光る何かを取り出す。
果物ナイフだった。
「もう終わりにするんだ、こんな下らない毎日は。悪魔の力があれば、それが出来る」
「やめ……!」
私が止める間も無く、テッドは躊躇も見せずに自らの手にそれを突き刺した。
鈍い男の呻き声と共に、テッドの血が祭壇に滴る。
「悪魔サタンよ、その全知の力を我に渡したまえ。我が最愛の妻と娘に加え、貴方様の
その時だった。
フッと、部屋に存在する全ての炎が消えたのだ。
その瞬間、私の身体が痙攣した。
違う。これは痙攣じゃない。
震えてる。
身体が、恐怖で震えてるんだ。
おぞましいほどの恐怖、怨嗟、怒り、絶望が、狭い室内に満ち溢れるのが分かる。
圧倒的な魔力の質量に押し潰されそうになり、叫び声すら出ない。
そして、それは姿を現した。
呼吸が聞こえる。
響くような、不気味な声が。
私の耳元で囁くように。
それは、人間のものではなかった。
悪魔サタンだ。
深淵から出て来たかのような異形の気配に、私は咄嗟に顔を背けた。
まともに見たら目が潰れ、精神が狂うことを直感的に悟ったからだ。
別次元だと思った。
勝つ勝てないと言うレベルのお話ではない。
台風に打ち勝てないように、津波から逃げるしかないように。
私達は、ただただそれが現れた時、身を潜め、息を殺し、祈ることしか出来ない。
悪魔サタンという災害が、私の目の前にいる。
サタンは、私の首元に手を伸ばすと、ゆっくりと私の頬を舐めた。
悪魔の接吻だ。
不気味な感触と怖気が全身に走り、恐怖で意識が飛びそうになる。
それでも気絶しなかったのは、私が気丈だからじゃない。
接吻と同時に頬に刻まれた生贄の烙印の痛みが、意識の消失を許さなかったのだ。
すると、私の足元がまるで沼にハマったかのようにズブズブと地面に沈み始めた。
連れて行こうとしている。
本能的に悟った。
私を足元から飲み込む闇は、どんどん私の全身を包み、侵食する。
身体が沈み、やがて私の顔まで飲み込む。
ああ……私死ぬんだ。
まだ、沢山やりたいことがあったのに。
話したい人が沢山いたのに。
祈さん、ソフィ、フィーネ、カーバンクル、シロフクロウ、ラピスの街の皆。
色んな人の顔が私の視界に浮かぶ。
お師匠様……。
すると。
不意に、誰かが私の手を掴んだ。
その手は熱く、まるで生命そのもののように滾っていた。
強く強く私を掴んだ手は、闇の中から私を引っぱり上げる。
私を引っ張り上げたのは、お師匠様だった。
「おし……しょう……さま……」
呼びかけようとするも、かすれて声が出ない。
悪魔の魔力が、まだ室内に満ちてるんだ。
するとお師匠様は私を全身で抱き抱えながら、真っ直ぐ目の前の存在を見つめた。
「サタン、お前のいる場所はここじゃないだろう」
お師匠様はゆっくりとサタンに語りかける。
私がまともに視認することできず、声を出すことすらも叶わなかったサタンに、たった一人で向き合っている。
それがどれだけ偉大なことなのかを、私は言葉に表せられない。
「私の愛娘に手を出すんじゃないよ」
お師匠様はそう言うと。
そっと、目の前に手を伸ばし、何かを掴む動作をした。
その瞬間。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
テッドの全身が火に包まれ、悲鳴が上がった。
そして同時に、祭壇と、そしてサタンも炎に包まれる。
それがただの炎でないことは、魔力の強さで分かった。
地獄の底から湧き上がる炎だ。
「熱い! 熱イィィ! 誰カ助けデェ!」
テッドの叫び声に重なるように、人間のものではない奇怪な叫び声が上がる。
サタンの声が混ざり込んでいるんだ。
契約を破棄されて、サタンと契約者であるテッドの両方にペナルティが課せられている。
しかし、ペナルティを課せられたのはその二人だけではなかった。
お師匠様がかざしていた親指にも、ボッと火が付いたのだ。
指が先端から燃え尽くされ、炭になって行く。
私はただその光景を、黙って見守ることしか出来なかった。
全身に力も入らない。
お師匠様はその痛みに不敵な笑みを浮かべながら耐え、言った。
「地獄に帰りな」
その言葉とほぼ同時に、部屋中を包んでいた地獄の業火がフッと鎮火した。
一瞬部屋が暗くなったあと、何事もなかったかのように地面に置かれていた四隅の蝋燭に静かに炎が灯った。
痛いくらいの静寂が、室内に満ちる。
それは、あまりにも唐突で、あまりにも一瞬の出来事だった。
私自身、何が起こったのかを正確に把握できている自信がない。
ただ、部屋の中には、テッドの姿も祭壇もサタンの姿もなかった。
床に描かれた魔法陣も消えており、まるで全てが嘘だったかのように綺麗さっぱり消えている。
部屋に残っているのは、気絶したメアリとジルさん、私、そして――
「お師匠様!」
ようやく声が出て、体を起こした。
しかし相当魔力を吸われたのか、体がよろめいて言うことを聞いてくれない。
そんな私を「無理すんじゃないよ」と言って、再びお師匠様が支えた。
その額からは脂汗が浮かんでおり、表情も強張っている。
「でもお師匠様、指が……! 手当しないと!」
「何てことないさ、これくらいね」
お師匠様は脂汗を流しながら、ゆっくりと私の頬を撫でた。
「メグ、良いかい。これが悪魔に触れた代償だ。悪魔に触れるって言うことは、代償が求められる。傷つかずに済む方法なんて、どこにもない。だから悪魔契約は禁忌であり、それに関わることは危険なんだ。魔女は決して万能じゃない。だから両手を広げた範囲に収まる人だけを守るんだ」
「はい……」
「まぁ、それでも」
お師匠様は、どこか優しげな瞳で、ジルさんとメアリを見つめる。
「ちゃんと守れたじゃないか。枠の外にいる人達を」
「はい……!」
私は、また自分の愚かさと、永年の魔女ファウストの偉大さを知った。
薄暗い室内で安らかに眠るメアリだけが、この世に残る安寧に思えた。
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