第6話 遠い花園の夢



 ――自分の視線の位置がいつもよりずっと低くて、遥はこれが夢だと気づいた。


 夢のなかの遥は、まだ幼稚園に入るか入らないかぐらいに幼く、庭園を無邪気に駆けていく。

 場所はどこかのお屋敷だった。

 色とりどりの花が咲き誇り、柔らかな風が花びらを揺らしている。

 たぶん庭園の一角の花園だろう。

 自然にそう思い、自分がこの場所を知っていることに気づく。


 夢なのは……間違いない。でもなんだろう? まるで昔の記憶を思い出してるような……懐かしい感じがする。


 『今の遥』がそう思っている間も『幼い遥』は花園を駆けていく。

 両手をめいっぱいに広げ、あどけない笑みを浮かべている。


 そんな遥の後ろを着物姿の老淑女がゆったりと歩いていた。

 髪留めでまとめた白髪は年老いても艶があり、しゃんと伸びた背中は凛々しく美しい。


 あれ? この人はひょっとして……。


「遥」

「なあに、おばあちゃん」

 老淑女に優しく声を掛けられ、幼い遥が足を止めた。

 そのやり取りで気づいた。


 僕の……おばあちゃんだ。


 懐かしさで胸がいっぱいになった。

 これは小さい頃、祖母に会いにいった時の記憶だ。

 どうして忘れていたんだろう。

 そうだ、思い出した。あのくみひももこの時に……。


「良い物をあげるわ。手を出して」

 祖母はきんちやくを開くと、組紐を取り出した。それを遥の細い手首へ巻きつけ、輪っかにして端を結ぶ。


「きれい……これなあに?」

「お守りよ。悪いモノから遥を守ってくれるの」

「わあ、ありがとう」


 遥が元気よくお礼を言うと、祖母は目じりに皺を寄せて微笑んだ。

 優しい手がぽんぽんと遥の手を叩く。


「でもね、これもいつかは切れてしまうの」

「切れたらだめなの?」

「少し困ったことになるかもしれないわね。でもこの組紐が切れる頃には、遥はもう良いモノと悪いモノを見極められるようになっているはずよ。だからきっと大丈夫。いつか選択の時がきても、あなたは正しい道を選べるわ」

「?」


 幼い遥はよくわからないと言うように首を傾げる。祖母は構わず、遥の頬を愛おしそうに撫でた。

「今はわからなくていいの。その日がきたら、わたしの執事を迎えにやるわ」

「しつじ、ってなあに?」

 そうねえと祖母は笑みを深める。


「わたしにとっての執事は、目の前でかしずき、人生の支えとなってくれる旅の杖。でもね、遥、あなたにとっての執事が何かはあなたが決めるの。覚えておいて。いつかあなたを迎えにいく執事、その子の名は──みやというの」

「みやび……」


 幼い遥はあまり話を理解してはいなかった。しかし祖母が大切なことを言っているのはわかり、忘れないように「みやび、みやび」と何度もつぶやく。

 そして、ふと背後を振り向いた。そこに誰かがいるような気がしたのだ。


「みやび?」


 呼びかけるようにつぶやいた、その瞬間だった。

 花園に強い風が吹き、花びらが一斉に宙を舞った。白、青、黄、赤……と無数の花びらが綿毛のように舞い上がる。


 色鮮やかな空を見上げて、遥は「わあ!」と歓声を上げた。

 祖母は先ほど遥が見つめていた方向を見て、くすりと笑む。

 イタズラっ子ね、と言うように。


 遥の手首で組紐が揺れ、孫と祖母は手を繋いだ。

「きれいだね、おばあちゃん」

「ええ、そうね」

 そうして二人はいつまでも見つめていた。お屋敷の一角、まるで夢のように現れた、美しい花びらの空を。


 同時に『今の遥』は自分が夢から覚めていくのを感じた。

 花びらの空や、祖母の笑顔が薄らいでいく。

 それをひどく残念に思った。

 この思い出にまだ浸っていたい。目を覚ましたらまた忘れてしまうかもしれないから。

 だからもう少しだけ、あとちょっとだけ……。そう願っても、目覚めはどうしようもなく訪れる。

 記憶の欠片がまたこぼれていくのを感じながら、遥は夢から覚めていった――。


               ○・○・○


「……ここはどこだ? 僕は一体……」

 眩しさを覚え、遥は瞼をこすった。

 どうやら眠っていたらしい。昔の夢をみていた気がする。

 胸のなかにはまだ懐かしさのざんがあった。けれど長く浸ってはいられなかった。


「……え、本当にどこだここ? ぜんぜん見覚えがないぞ?」

 視界に飛び込んできたのは、豪華なシャンデリア。壁には細かな意匠が施され、暖炉や調度品が並んでいる。

 寝かされていたのは来客用らしきソファーだった。体を起こして、きらびやかな室内に目を瞬く。


「……どこかのお屋敷?」

 無意識につぶやき、自分の言葉にはっとした。

 お屋敷。

 そうだ、あの妖狐はお屋敷へ連れていくと言っていた。

「まさかここってあの妖狐の住処なのか……っ」

 豪勢な室内と執事のイメージもぴったり合った。たぶん間違いない。

 見たところ妖狐の姿はなかったので、慌ただしくソファーから下りる。


「とにかく逃げないと」

 部屋の扉の方へいき、取っ手を掴んでそっと開けた。

 ……誰もいないな。

 扉の先は廊下だった。深紅の絨毯が敷かれ、等間隔で彫刻が並んでいる。

 恐る恐る部屋を出て、廊下を進んだ。

 ところどころ窓もあったが、嵌め殺しで外には出られない。

 ガラスの向こうには青々とした庭園が見え、その先には街が見えた。さらに奥には海もある。位置関係からして、この屋敷はどうやら小高い丘に建っているらしい。

 それでピンときた。

「……丘の上の幽霊屋敷」


 遥の住んでいる街は港町である。東側に海があり、海岸線沿いからふ頭、商業区画、住宅街とグラデーションが広がっている。その住宅街の奥には小高い丘があり、古い洋館が建っていた。

 誰が住んでいるのかは定かではなく、昔の領事館跡だという話もあれば、外国人のお金持ちの別荘だとも言われている。そうした正体不明な建物の常で『あの洋館には夜な夜な人ならぬモノが集まっている』と噂されていた。


 おかげでついた呼び名が『丘の上の幽霊屋敷』。

 もちろん絶対近寄らないようにしていたし、なんなら丘の方も見ないようにしていた。なのに、よりにもよってその幽霊屋敷に連れてこられてしまったらしい。


 しばらく廊下を進んだ先、金縁の大きな扉にたどり着いた。

 ここが玄関でありますように、と祈りながら扉を開く。

 しかし外には繋がっていなかった。それどころか行き止まりである。

 ひどく神秘的な雰囲気の場所だった。燭台のほのかな明かりが円形の間取りの部屋を照らしている。ソファーや椅子などは一切なく、並んでいるのは何枚もの肖像画。

 そのなかの一枚を目にして、遥は言葉を失った。


「なんだ、これ……」

 目の前の肖像画は、遥にとって受け入れがたいものだった。

 なぜなら、そこに描かれていたものは――。

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