第1話 高町遥の受難①


 たかまちはるかが神社で妖狐と出逢う、およそ一時間前――。


 遥はホームルームが終わると同時に、席から立ち上がった。

 放課後のチャイムが鳴り、他の生徒たちはそれぞれに帰り支度を始めている。


 足早に教室から出ていこうとするのは、遥だけだった。

 あまり長く教室にいたくない、と思っていた。

 正直、居心地のいい場所ではなかったから。

 どこか逃げるような気持ちで遥はドアへ手を掛ける。すると背中越しに声を掛けられた。

「お、高町。もう帰るのか? ひょっとしてこの後、暇か?」


 少し驚きながら振り返る。

 声を掛けてきたのは野球部の生徒だった。

「俺らさ、今日、部活が休みだからカラオケいくんだけど、一緒にどうだ?」

「あ、いや、僕はその……」

 つい、しどろもどろになってしまった。

 廊下側の席に男子たちが集まっていた。だいたいは野球部だが、他の男子の姿もある。どうやらこれからみんなで遊びにいくらしい。


 誘ってもらえたのは素直に嬉しかった。でもとっさにどう返事をしていいかわからない。

 戸惑っていると、他の生徒が申し訳なさそうに口を開く。

「ダメダメ、高町はこういうの来ないからさ。かわいそうだから困らせてやるなよ。ごめんな、高町。無理言って」

「……あ、ううん。いいんだ。僕の方こそ、ごめん」

 遥は愛想笑いで首を振った。

 すると最初に声を掛けてくれた男子が不思議そうな顔をした。

「高町ってホームルーム終わるとすぐ帰るよな? バイトか何かしてるのか?」

「いや、そういうんじゃないんだけど……」

 遥は付き合いのいい方ではない。むしろ教室のなかで誰かと仲良くなるのを避けているところがあった。


「とにかくごめん。また今度、もし……機会があったら」

 会話を打ち切るために社交辞令を言い、足早に教室を出た。

 誘ってくれた生徒の「おう。またな、高町」というどこか残念そうな声がいつまでも耳に残った。


               ○・○・○


「せっかく誘ってくれたのにな……」

 帰り道。並木道を歩きながら、遥はつぶやいた。

 本当は行ってみたかった。誰かと遊びにいくなんて、もう長いことしてない。


 遥は今年で高校二年生になる。

 やや小柄で、顔立ちは中性的。たまに女子と間違えられる。

 成績は上の中、運動神経も悪くはない。

 ただ、学校生活のなかに友達と呼べるような相手がいなかった。

 小学校、中学校、高校と、もう何年もひとりぼっちだ。


 クラスメートはみんな、良い人たちだ。あまり話すことはないけど、教室で見ていればわかる。一緒に行ったら、きっと楽しい時間を過ごせたはずだと思う。

 でも行くことはできない。

 そういう事情が遥にはあった。


「あ、ニンゲンさんです。今日もニンゲンさんに会えました。こんにちはです、ニンゲンさん。こんにちは、こんにちは」

 ふと街路樹の枝から声が聞こえた。

 最初は一つだけだったが、声は反響するように増えていく。


「こんにちは、ニンゲンさん」

「ニンゲンさん、ニンゲンさん、こんにちは」

「こんにちは、ニンゲンさん。聞こえてますか? こんにちはー」


 またか……と思って遥は足を止める。

 視線を向けると、枝の上に不思議なモノがいた。

 見た目は丸っこいどんぐりだ。茶色い体にちっちゃな手足がついていて、葉っぱで作った服を着ている。中央にぱっちりした目と口があり、大きさは遥の親指ほどしかない。

 そんな不思議なモノが身を寄せ合うように何匹もおり、期待を込めた目でこちらを見下ろしていた。


「……こんにちは。確か……だまだったか?」

 一応、挨拶は返しつつ、警戒心から少し口調が固くなった。

 しかし枝の上のどんぐり――木霊たちは気にしていないようで、嬉しそうに葉っぱの服を揺らす。


「はい、木霊です。ボクたちは木霊です。ボクがえるニンゲンさんに今日も会えました。嬉しいです」

 一番大きい一匹がそう言うと、他の木霊たちも「嬉しいです」「嬉しいです」と後に続いた。

「僕はあんまり嬉しくないんだけど……」

「ニンゲンさんは嬉しくないですか?」

「喋るどんぐりに声を掛けられて嬉しい人間はあんまりいないと思う」


 当たり前だが普通のどんぐりは言葉なんてしゃべらない。

 今、枝の上からこちらを見つめているのは、ヒトでも動物でも植物でもない、不思議な存在――あやかしだ。


「でもニンゲンさん。普通はボクたちのこと視えないです。だからニンゲンさんは珍しいニンゲンさんです。胸を張っていいです」

「……胸なんて張れないよ。僕だって好きで君たちを視てるわけじゃないんだ」

 肩を落としてため息をつく。


 遥はあやかしが視える体質だ。子供の頃からずっとなので、こうして身近にいるあやかしの相手をするのは慣れっこだったりする。

 ただ、なかには悪さをするあやかしもおり、迷惑を被ったことも一度や二度ではない。


 だからクラスメートなど、周囲の人たちとは常に距離を置いていた。何かあった時、自分のせいで巻き込んでしまっては申し訳ないから。

 教室での微妙な立ち位置もそうして一歩引いていることが原因だった。

 正直、淋しかった。でもまわりに迷惑を掛けるよりはずっといい。


「あやかしなんて視えなければいいのにな……」

 愚痴をこぼし、無意識に自分の右手首に触れる。

 そこには房付きのくみひもが巻いてある。色は赤で、数種類の紐を結い合わせたような形をしている。


 落ち込んだ時、この組紐を触るのが遥の癖だった。

 いつから持っていたのかは覚えていない。ただ、物心つく頃には肌身は出さず持っていて、寝る時も枕元に置いてある。


「ほあー……」

 ふと気づくと、さっきの木霊が変な声を出してこちらを見つめていた。

 他の木霊たちも熱い眼差しを向けてきている。

 正確に言えば、彼らが見つめているのは遥の組紐だった。


「……なに? どうかした?」

「素敵な紐ですね」

「そう? ずっとつけてるものだけど……」

「知ってます。ずっと素敵だなと思ってました」

 でも、と木霊は哀しそうに続ける。


「ニンゲンさん。その素敵な紐、たぶんそろそろ切れちゃいます」

「え?」

「とっても優しくニンゲンさんのこと護ってくれてたのに、もうお役目が終わっちゃうんですね。その素敵な紐が切れちゃったら、ニンゲンさんは悪いあやかしから護ってもらえなくなっちゃいます」

「……待って。それ、どういう意味? 悪いあやかしが……なんだって?」


 木霊の言葉は要領を得ない。全体的に説明不足だった。

 でも何かひどく不穏なことを言われているのはわかった。

「残念です。ニンゲンさんに会えるのも、きっと今日で最後ですね。さよなら、ニンゲンさん、さよなら。せめて痛くないように食べられて下さいね」


 そう言って、大きい木霊は街路樹の葉のなかへ消えていく。

 他の木霊たちも後に続き、「痛くないように」「食べられて」「下さいね」「下さいね」「下さいね……」と声が反響した。

 でもこんな不吉なことを言われて帰すわけにはいかない。

 遥は慌てて手を伸ばす。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 食べられるって、まさか僕が悪いあやかしに食べられてしまうってことか!? ちゃんと詳しい話を聞かせ――」

 その言葉の途中だった。


 はらり。


 あまりにも唐突に、そして木霊の言った通りに――組紐が切れた。

 木霊を追って伸ばした手。その右手首から組紐が外れ、地面に落ちていく。

 その直後のことだった。


 突然、どこからともなく真っ黒なもやが現われた。

 靄は一瞬にして辺りを覆っていく。まるでいきなり夜になってしまったように、周囲が薄暗くなった。

 落ちる組紐を掴んでいた遥は、悪寒が全身を駆け巡るのを感じた。


「な、なんだ……?」

 見まわすと、いつの間にか人通りがなくなっていた。並木道には猫の子一匹おらず、黒い靄だけが急速に広がっていく。

 まるで別の世界に迷い込んでしまったような光景だった。

 感覚的に理解する。

 これはあやかしの領域だ。

 子供の頃からの経験が警鐘を鳴らす。


「に、逃げないと……っ」

 組紐を握り締め、駆け出そうとする。

 でも一歩遅かった。

 目の前で靄が渦を巻き、一か所に集まり出す。

 そして、恐ろしいあやかしが姿を現した。


 色は漆黒。全体は靄のように不定形。けれど大きさが車ほどもあり、真っ赤な目と鋭い牙を持っている。

 動物にたとえるなら狼。ありえないほど巨大な漆黒の狼だ。

 それが目の前に現れていた。

「……っ」

 遥は恐怖を感じて立ち竦む。


 牙の生えた口元からは、低い唸り声が響いている。

 漆黒の狼には明らかな敵意があった。

 舗装されたアスファルトを砕き、狼が駆け出す。真っ直ぐ遥に向かってくる。

「うわぁ……っ!?」

 悲鳴を上げて飛び退いた。

 そのまま転んでしまったが、痛がっている余裕はない。

 尻餅をついたまま絶句する。 

 黒い巨体に激突され、街路樹が半ばから折れていた。

「う、嘘だろ……っ」

 もしも避け損ねていたら、どうなっていたかわからない。


 折れた街路樹を踏み潰し、狼がゆっくりとこちらを向く。

 心が恐怖に支配されていくのを感じた。

「く、来るな、こっちに来るなぁ……っ!」

 震える膝を叱咤し、必死になって逃げ出した。

 

 狼は真っ赤な目で遥を見据え、一目散に追いかけてくる。

 追いつかれたら、間違いなく食べられてしまう。


「なんなんだ!? なんで急にこんなことになるんだよ……っ!?」


 夕方へ近づいていく空の下、遥の悲鳴が響き渡った。

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