第9話 臥薪嘗胆の女(後編)

「文明って最高ですねぇ……」

 湯気が昇る茶碗を見つめながら、ファウナがしみじみと呟いた。

 盛られているのは米と麦を混ぜ炊いただけの質素なものだったが、昼間、蟲とそれを食らう者たちの姿をまざまざと見せつけられたせいか、宝石のような尊さを覚える。

「お前、現地の食材を味わうのも野外活動の醍醐味とか言ってなかったか?」

 感涙にむせそうなファウナに、ミランは懐疑的な視線を送る。

「言いました。言いましたけど、ミランさんの食べるものはわたしの現地の範疇を超えていたんです。蝉とか飛蝗なら食文化として残っていますから納得もできますが、正直、今日の顔触れはわたしでも引きます」

「蟲、好きなくせに」

「あくまで生態が、です。というか、その理屈はおかしいですよ。じゃあ、人間が好きな人は人間を食べなきゃいけないじゃないですか」

 揚げ足を取るような物言いに、ファウナは拗ねたように唇を尖らせる。

「そう? 好きな人を食べるのは普通じゃない?」

 ひつから自分の分をよそいながら、フローラ。

「フローラ……それ、絶対別の意味でしょ……」

「ふふん。良く分かったわね。この耳年増」

「同い年でしょうが」

「そうだったわね。それにしても、せっかくの休日だって言うのに、アクイラさんも災難ねぇ」

 気を失ったアクイラを引きずってトルキダは駐屯所に戻った。今晩はそこで一夜を明かすらしい。ということは、必然的にあの部屋と対面するわけで――アクイラの受難は続きそうだった。

 去り際、明日もお願いしますとトルキダは言っていた。つまり、明日もまたここを訪れるということだ。

「前回の馬陸やすでの件で多少は耐性はついたと仰っていましたが、さすがに今日のは衝撃的だったでしょうね」

「変わった人だったわねぇ。緊急時に備えた生存術は必要だと思うけど、それにしたって極めすぎっていうか……」

「まあ、そうだな。俺みたいな生まれや育ちなら納得できるが、あの教官はそんなはずないからな」

 炊き立ての飯をかき込みながらミラン。トルキダの徹底っぷりは、さしもの彼も違和感を覚えたらしい。

「ただの下手物食いなだけとは思えないわね。何かしらの強迫観念を感じるわ」

「その根拠は?」

「だって、ただの下手物食いだったらって言うんじゃない? でも、あの人の基準はあくまで食べられるか、そうでないかだけなんでしょ?」

 問われて、ミランは今日のことを思い返す。とは口にしたが、と言ったわけではない。

「……そう言われるとそうだな」

 ミランとて優先順位はある。生きるためには食べなくてはならないが、食べるものを選べるのならミランとて選ぶ。肉が食える状況で、わざわざ蟲を食べようとは思わない。

「だが、それは教官としての責任感からじゃないのか?」

「それもあるだろうけど……やりたいことではなく、すべきことを優先している人間は、何かを抱えている傾向があるわよ」

「それは経験談か?」

「ええ、そうよ」

 フローラは苦笑する。かつては彼女もそうだったからだ。だからこそ解る何かがあるということだろうか。

「それはそれとして、報告書のほうはどうだ?」

「いやあ、全然進まなかったわね」

 悪びれた様子もなく、フローラ。

「少しは申し訳なさそうにしてくださいよ……すべきことを優先するつんけんしたフローラはどこに行ったんですか……」

「本当、嘘みたいよね。以前の私ならこんなことはなかったんだけど。ミラン君のおかげかしらね」

「まあ、その気持ちはわかりますけどねぇ……」

 空色の瞳と緋色の瞳が、揃ってミランのほうを見やる。

「……なんで、俺の方を見るんだよ?」

「「別にぃ」」

 国家賢人二人は曖昧な笑みを浮かべた。



◆◆◆◆



「これは……実に苦い」

 昼下がりの森の中。今日の収穫――主に多足類だ――の丸焼きを口に運びながらトルキダが言った。表情一つ変えない。

 今日は先日よりも、さらに極限的な知識を要求された。つまり、味や食べやすさなどを度外視し、ただ食べることができるもの。いや、もっと正確を期すならば、『食べられなくはない』ものか。

 多足類などは毒を持つ頭を取り除けば、焼いて食えないことはない。当然ながら美味いものではないし、はっきり言えばミランでも二の足を踏む。

「ですが、食べられます。これは有りです」

「そうか……」

 極限状態を想定し、食わねば生きていけぬのだとしても、その状況が発生したりしなければ一生食べないであろう物体。それをためらうことなく口に入れ、噛み砕く。フローラの言うとおり、その姿には強迫的な何かを感じずにはいられない。

「……なあ、聞いてもいいか?」

 焚火に薪をくべながら、ミランは尋ねた。

「なんでしょう?」

「食べられるだけで有り難い。その理念には大いに共感できる。だが、それでもあんたは俺とは生まれも育ちも違う。文明圏にいる人間が、俺のような価値観を持つのははっきり言って不自然だ。あんたがその思想に行きついたのには、何らかの理由があるんじゃないかと思うんだが……」

「……気になりますか?」

 鷹のような目が探るようにミランを射貫く。

「気にならないと言えば、嘘になる」

 偽ってもしょうがないし、こそこそ探るのも性に合わない。ミランは開き直って正直に答えた。

「自覚があろうとなかろうと、人間はそれぞれ在り方ってやつがあると思う。その在り方を損ねた奴は、何というか、独特の気配がする」

「それを、私にも感じると?」

「ああ」

「……では、少し昔語りをしましょう」

 トルキダは目を細めた。遠い過去を反芻するように。

「幼少のみぎり、私はとても偏食でした。人より裕福な家で育ったということもあるのでしょう。食べるものを選べる立場にいたのです」

 食料と定義し得る最低限のものを口にするトルキダからは想像もできない告白。だが、よく考えれば納得がいく。騎士としての教育を受けた部分もあるだろうが、彼女の立ち居振る舞いには育ちの良さがある。それは後天的なものではない。

「ある時、私が暮らしていた地方で飢饉が起きました。餓死者が大量に出るほどの大きな飢饉です」

 どれだけ優れた農法が普及しようと農作物は天からの恵み。豊作になることもあれば、凶作になることもある。飢饉は農耕社会において避けようのない災害だ。

「領主様は備蓄の米を放出してくださいましたし、近隣の領主も可能な限りの支援をしてくださいました。ですが、当時は戦時中。支援にも限界があります。貧しい生活は長らく続きました。配給が底をつくと雑草、木の根、虫の死骸……口にできるものは何でも食べました。そうしなければ飢えて死ぬだけですからね。私はそこで初めて食べることの有難みを知ったのです」

 ミランはその気持ちが痛いほどわかった。狩りもまた天運に因るものが大きい。獲物にありつける日もあれば、そうでない日もある。人生において飢えた日は一度や二度ではない。

「ある時、母が栄養失調から病に倒れました。父は少しでも精のつくものを求めて森へ入り、蛇に噛まれてあっけなく死にました。母も容体が悪化し、持ち直すことなくそのまま……」

「それは気の毒にな」

「ええ。食べるものがないというのは心底恐ろしい。飢饉は私から何もかもを奪っていった。まるで、。だからこそ忘れるわけにはいかない。二度と奪われないようにするために、私のような人間を作らないために、私は食べるということと向き合わなくてはならないのです。食べることは有り難いことだと、当然ではないのだと、皆に語り続けなければならないのです」

 トルキダの手に力が籠る。揺るがぬ決意が、そこにあった。

「だから、あんたは敢えてそんな生活を?」

「左様です。飢饉の恐ろしさを知る私が、どうして贅を凝らせましょう。その姿を見て、誰が学びましょう?」

 ミランは臥薪嘗胆という言葉を思い出した。決意を鈍らせないために、薪の床で寝、苦い肝を舐める。トルキダの在り方はまさにそれだ。

 だが、それは――あまりにも厳しい。厳しすぎる生き方だ。

「あんたの強さの一端がわかった気がするな」

「恐れ入ります」

「……でも、それはいけないことだ」

 ミランは沈痛な面持ちで首を振った。

「どういう、ことでしょうか?」

「そんな思いで命を食べたら駄目だ。そんなんじゃ食べられた方が納得しない」

「かわい、そう……?」

 トルキダは意外そうな顔をした。やがて、その言葉を侮蔑と感じたのか、表情が険しくなる。

「……残念です。ミラン殿ならばご理解下さるかと思っていましたが……」

「俺だって順調に食ってきたわけじゃない。食べたくても食べられない辛さはわかってやれるつもりだ。俺が駄目だって言っているのは、憎しみで生き物を食べるなって話だ」

 トルキダの行為は飢饉への憎しみから来たものだ。決して、

「では、忘れろというのですか。あの貧しかった日々を」

「違う。過去を忘れないことと、過去に囚われることは別だ。お前の記憶は忘れてはならないものだろう。だが、囚われてはならない。食べるってことは、その相手の、自分のってことだ。俺みたいに森に生きる者にとって生と死は等価値。いつか、俺も食われる立場になる。今まで食べてきた身分だ、食われたところで恨みはしない。けれど――どうせ食われるのなら、食った相手には善い明日を迎えてほしいと思う」

 トルキダが息を呑む。食べられるほうの気持ちなど考えたこともなかった。そう言わんばかりに。

「何より、もったいない。飯は笑って食べるもんだろう? 文字通り苦虫を噛み潰したような顔をして食卓は囲うものじゃない」

「笑って……食べる……」

「そうだ。笑って食べる相手がいるなら、何であれ美味しいもんだ。あんたは最後に笑って食べたのはいつのころだ?」

 トルキダは困惑しきっていた。質問の意味が分からいからではない。まったく思い出せないからだ。

 あの日以来。自分が誰かと笑って食事をしたことがあっただろうか。そもそも食事を楽しいと思ったことはあっただろうか。

「これは推測だが。あんたが忘れたくないものは飢饉の恐ろしさなんかじゃない。もっと別のものなんじゃないのか?」

「別のもの……?」

「きっと、あんたは……飢饉に遭う前の、家族と過ごした時間こそを忘れたくなかったんじゃないか?」

 瞬間、トルキダの目から一筋の涙がこぼれた。ミランは慌てる。

「す、すまん。追い込むつもりじゃなかったんだ」

「いえ、違います……違うのです……」

 涙を袖口で拭いながら、嗚咽の混じった声で応える。

(ああ、そうだ。自分はすっかり忘れていた。自分が本当に忘れたくなかったのは――両親の笑顔のはずなのに)

 それがいつしか飢饉の恐怖と入れ替わっていた。手段と目的が入れ違いになっていた。憎しみは人の目を曇らせる。本当のことを見失う。

「アクイラのことを言えませんね。私こそ未熟者だ……」

 そう言って、トルキダは苦笑した。

「しかし、ミラン殿。あなたは仰った。笑って食べる相手がいるのなら、なんであれ美味しいと」

「ん? ああ……」

「ですが、これは……やはり不味いままですが」

 多足類の丸焼きを掲げ、眉をしかめた。



◆◆◆◆



「有意義な休日でございました」

 翌日、ミランの元へトルキダが顔を出した。これから王都へと帰還するらしい。

「ミラン殿から教わった知恵は、きっと教練で活かして見せましょう」

「……悪食を止めるつもりはないわけか」

「ええ。持論を曲げるつもりはありません。食わねば生きていけぬのは真理ですから。我が教え子たちにあのような思いをさせるのは、やはり辛い。それを防ぐのもまた先達の務めかと」

 ミランは苦笑する。

「ま、いいんじゃないか。それこそはあんたの在り方だと思うしな」

「ええ。ですが、今度からは、できるだけ生徒たちと同じものを食べてみようと思います」

 ――いつか、生きるために食べたくもないものを食べる日が来たとしても、美味しいものを共に口にした日々が励みになるのだから。

「ミラン殿。あなたと会えてよかった」

 差し出されたトルキダの手をミランが握り返す。

「俺もあんたと会えてよかったよ」

「アクイラめが、ここから離れたくないと言ったのもわかります」

「は?」

 きょとんと目を瞬かせる。

「教え子の顔を見に来たというのも本当ですが、実はアクイラに異動の話があったのですよ。第一騎士団への栄転ですが、頑として首を振らなくて。ですが、あなたのような方がいるなら、なるほど、納得です」

 含み笑いをするトルキダに、ミランは困惑する。

「え? なに? なんであいつの進退に俺が関係あるんだ?」

「……鈍感ですね」

「……この辺境で一番珍しい生き物ってミラン君じゃないかしら」

 事情を一瞬で察した国家賢人二人は溜め息を吐いた。知らぬはミランばかり。獣の気配を敏感察知できる彼であっても、女心はまた別問題ということか。

 アキマネキの物悲しい声が遠く響く。

 待ち遠しい豊穣の季節が、すぐそこまで迫っていた。


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