第136話 56億7000万年の男

 しかしすぐ、ボスはそれが揣摩摂愈だと認知できたことを、むしろ訝った。

 M型に鋭く禿げ上がった額。尖った鼻先と、ヘの字にひん曲がった薄い唇が、

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 の顔文字みたいに互いに反目していて、その唇の下の顎もまた>の形をしている。そこに先述した額の生え際をくわえて表すならば

 >:><>

 なのである。耳は薄く削がれている。真正面からみると、マンボウのように平べったいが、横からみれば人間のシルエットを保っている。薄い身体にまとっているのは破れた地蜘蛛の巣のようになった背広の上下だが、袖は失われていて剥き出しの腕は真っ黒だった。その一方がインパクトある右腕である。

 ボスの危機を救った飛び道具は右の肩口に絡みつくように癒合した明らかに肉でも砂でもない金属的な光沢をもった、非常にメカニカルな構造をしていた。さまざまなオーガニック曲面をもつ細かなパーツを適正な稼動域を妨げることなくビス留めしてあり、稼動部は歯車の組み合わせだ。

「ぜんぶマニ車をモチーフとしたものです」と揣摩は肘を曲げ伸ばしして見せた。

 そららのパーツ同士の接合部からは向こう側が透けて見えているのだから、中央に例のプラズマ的なエネルギー体を射出する砲身のような構造がないことは明らかだった。そしてそのような腕の先端、つまり通常であれば拳がある部分だけは、磯巾着のように生々しており、中央の肛門のような噴出口からは絶えずダラダラと粘液を垂れ流しているのである。その粘液は高温か、もしくは非常に酸性の強い年度の高い性質らしく、それが落ちた地点の砂はシュウシュウと白い湯気をあげて安倍川もち(黄粉)のようにまとまってしまう。

 だが、そのほかはほとんど人間と同じで、歩き方の癖などは揣摩そのものなのである。それでボスには揣摩を見分けることができたのだろう。だが、わずか半日ほどで人をこのように変貌させてしまう何が、揣摩を襲ったのであろうか。

 ボスは揣摩と抱き合った。揣摩は右手をボスに触れないように細心の注意をはらってハグをした。二人の目からは黒い砂がとめどなくあふれた。

 「で、どうしていた?」

 「ゆっくりお話します」

 揣摩は右腕プラズマ砲を上手に駆使して事務所の屋根の上に物干し台のような塊をつくり、揣摩の右手からダラダラと垂れ流すプラズマ汁がその物干し台の脚をつねに流れるように溝を掘ることによって、蟻の侵入を防ぐ砦にした。室内ではまだ、シロアリの女王がせっせと出産しているが、安易にそれに手を出すことは危険だということを身をもって体験したボスは、ともかく砂漠の先輩である揣摩に、これまでのサバイバル生活を聞いておこうと思ったのである。

 揣摩はウーロン茶のペットボトル(2リットル)をデンとちゃぶ台において(ちゃぶ台?)、コップに注ぎボスにも勧めた。ボスはそれを飲んで生き返る心地がした。

 「わたしは社史編纂質の庫裏唐孤塁との闘争のなかで右腕を失いましたがなんとか生き延びることができました。あんな絶体絶命の状況下でなければ、自分の体内にこのような熱く滾るドロドロとしたものがあっただなんて、一生気づかずに終えていたでしょう。天道虫っておりますね。あれでもカブトムシでもカナブンでもいいんですけど。あいつら、自分が飛べる! っていつ、どんなときに気づくのでしょうね。もう駄目だって思い、しかし駄目だなんて嫌だという、それまでに生じたことのない生への執着が、脳の飛ぶためのモジュールに点火して、背中が割れて複雑に折りたたまれた翅が広がり、それまで一度も使用したことはなく、それをどのように用いればよいのかもわからない筋肉を振るわせて、あいつらは死んだ自分が死んだ状況を脱して、重力からも逃避することができた自分に、そうなってしまうともう、何の疑念もなくその空を飛ぶ能力を自明のものとして、次からはもう、なんの感興もなく、もしかしたら面倒くさいくらいな不遜さで、らくらくと空を飛ぶのではないでしょうか?」

 ボスはなんと答えれば良いかわからなかったので、ただ「うむ」と頷いた。賛同や共感はおろか理解することも自分はできていないが、とりあえず言葉の意味は把握できているから先を続けたまえ。という思いをこめた「うむ」だった。

 「そのようにわたしは眼前の脅威を排除することができましたが、これにより庫裏唐が発見し、その発見について立てた仮説は、そもそもそれが実際にそうであったのか、はたまたそれ自体が庫裏唐の自作自演であったのかはうやむやになりました。わたしの身の回りに、アナログ文字など残存してはいなかったからです」

 ボスはふと、営業二課の或日野の机の上に黄間締が残したという引っかき傷による伝言メモが、どうなっているのかが気にかかった。あの疵はいかに面妖な庫裏唐であっても改竄は不可能だろうからである。もっとも、この騒動のおそらくは首謀者側に与するため、室内すべてのファイルの手書き文字を無意味な記号の羅列に書き換えておくなど、容易く準備できるものではないだろう。タイラカナル商事創立時から、コツコツと用意していくのであれば別だが……

 とボスは、可能性の否定のためにもちだした仮説「タイラカナル商事創立の時からこのような騒動を計画していた説」も、案外、除外できないかもしれないぞと考え直していた。

 ボスは自身がタイラカナル商事に入社した当時のことを思い出そうとした。社の創立記念式典は社屋の中庭で大勢の来賓を招いて盛大に行われたと記憶している。その思い出の中庭はとてつもなく広く、一面の砂に覆われていた。

 「ともかくわたしは広報部に戻ろうとふりむいたのです。しかしそこにはもはや社屋はありませんでした。残骸すら見当たりませんでした。すべてが砂に帰したのだとわたしは思いました。社屋の時空は歪んでいました。あらゆる外力に抵抗しうるよう建物は構造設計され、台風や地震などには耐えうるような構造基準が義務付けられています。社屋の工事に手抜きがなかったことは、広報部による独自調査で立証できていましたが、建物が存在の根拠となしている時空そのものが歪むなどという事態を想定しているはずはなく、少なくとも分子レベルでのい崩壊はやむをえなかったであろうと推測できます。しかし、あくまでもそれは崩壊、あるいは分解であるはずだとわたしは思いました。社屋と施設と備品や消耗品や、さらに社員のすべてが分子レベルで崩壊し、一面の砂に帰したのだとわたしは推論しました。では、その崩壊は付加逆的なのか、とわたしは問いを立てました。分子結合が外力によって崩壊する場合、分子そのものは破壊をまぬかれているだろう。分子はそれぞれがユニットを構成しておりそれらが結合することでモジュールとなりそのモジュールが組み合わさることで器官が発生する。その器官はおそらく創発性を有するはずで、それは多分、無数のユニット化とモジュール化に対応するパズルの凹凸のように残された継ぎ手が、適合する継ぎ手と結び合った際に成分化したプログラムを成すtiktakbangメソッド、もしくはフェニックスtermなどに似た、いわば隠れコマンドの発動であったと思われます。つまり、この砂の一粒一粒には長大なOS的なプログラムの数行から数千行が内臓されており、何らかの要因で分子結合した際に走り始めるプログラムそのものなのではないかと」

 SEというのはそのような考え方をするものなのか、とボスは思った。回りくどい言い方だったがつまり世界とは砂漠の夢だったと言っているのだとボスは理解した。

 「そこでわたしは、この砂の一粒一粒の内臓するプログラムをリバースエンジニアリングすることに専念することにしました。といって、わたしの携帯端末は燃え尽きていましたし、たとえそれが無事だったからといって社屋のサーバーが壊滅していてはどうにも使用がありません。仕方がないのでわたしは、砂を解析するためのシステムを、わたし自身のレガシーを組み込んで、砂で作成することからはじめました。そのために、わたしはわたし自身を一度リバースエンジニアリングし、わたしを構成していたモジュールを精査し、さらにユニット別に切り分けた上でそれらと眼前のサンプルコードの差分をとることによって、わたしを再構築するさいに必要なユニットをモジュールとして組み込むことにしたわけで、それには七年半かかりました」

 「七年半だと? 揣摩君。君は砂漠にきて体感的にはどれほどの時を過ごしていると感じているのだね?」

 「ボス。わたしにはもはや体感などという曖昧な感覚は存在していません。わたしに組み込んだストロンチウム光格子時計によれば、わたしがわたしを再構築してからざっと56億7000万年の経過を記録しています」

 「ずいぶん待たせてしまったな」

 「いえ。何事にも時宜がある、ということです」

 揣摩摂愈は、右腕を失くしただ一人で砂漠に残された56億7000万年の間に、砂を完全に掌握することができたのだろうか?

 いや。揣摩の全知全能をもって、それほどの年月を費やしたとしても揣摩は王にはなれなかったのだ。だからこそ揣摩は、身を守る武器を右腕に実装し、先ほどもその武器を駆使せねばならなかった。

 では、揣摩の56億7000万年とはなんだったのか。そしてそれがボスの半日とどのような差を生み、揣摩はボスのどれほど先に存在しているのだろうか。

 ボスは改めて揣摩を広報部に迎え入れた当時のことを思い出そうとした。すると揣摩、は社屋の中庭の創立パーティーの際、ボスが砂の中から掘り起こした兵馬俑の一体であったことを思い出した。そしてボスは先ほどのみずからの入社時と、今の揣摩との出会いに関する記憶はすべて出鱈目だということにも気づいていた。

 「揣摩君。君はわたしと初めてあったときのことを覚えているか?」

 「ボス。忘れもしません。タイラカナル商事の創立記念パーティーの最中、ボスは余興で砂のなかの兵馬俑を掘り当て、そのなかの一体がわたしでした」

 揣摩の記憶も書き換えられていた。ボスは、どちらがどちらに同期したのか、それとも二人とも誰かに上書きされたのかを調査すべきだと考えつつ、頷いた。

 「では揣摩君。今回の件について君の考えを聞かせてくれたまえ」

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