第116話 He needs a name

 その男は、

 ――いや、こうなるとこの男にも名前が必要だ。名づけは作者の特権の一つだ。He needs a name というのなら、以後この男は緋弐図孔痲(ひにずあなめ)としよう。


 緋弐図は、ため息ばかりついていた。総務部調達課消耗品係見習いとしてタイラカナル商事に転職できたのは、ダッタンインク株式会社という、タイラカナル商事と取引のあるインク会社の顧問が伯父の妻の長男の嫁の父だったからだ。

 このご時勢、前職でしくじった人間を雇用してくれる会社はほぼなかった。本人がいかなる業績を収めてきたかは、すべて政府コンピューターに記録されており、しかるべき部署がしかるべき手続きを踏んで法務局に照会すればたちどころに判明してしまう。たとえば、緋弐図孔痲はファミリービジネスの染家を後継するはずだったのだが、イチオールなど複数の物質に対するアレルギーによってドロップアウトした。

 ファミリービジネスを許可されていながら、それを後継しない血族がどのようなものか。緋弐図はアレルギー発症後から、いやというほど思い知らされてきた。一度の失敗が社会からの脱落を、ひいては人生からの脱落を意味する社会で、ファミリービジネス許可血族という特別待遇を棒に振るなど、穀潰し以外の何者でもない。さらに、後継を失ったファミリービジネス許可血族は、現代表の定年をもって許可を剥奪されてしまう。つまり、一家が路頭に迷うこととなるのである。そうなれば、他の同職血族に、それまでの人脈や門外不出の極意などの多大な貢物をした上で、それが気に入られれば、養子縁組を行うことで給料を得る「水呑み血族構成員」の地位を認定されるのであるが、それとて血族全員が養子になれるはずもなく、セーフティネット便りとなる者も多数出るだろう。

 アレルギーを知らされたとたん、緋弐図孔痲は「悪魔の子」「疫病神」「役立たず」「フーリガン」「巴投げ」などと責められ続けていたのであった。

 この経験は、彼の情動に大きな爪あとを残すこととなった。緋弐図孔痲は「凝視性不安症候群」を抱えることとなったのである。

 「凝視性不安症候群」とは、文字通り凝視したりされたりすると、胃の底から腸の外側が浮き上がるかのような、臍に吸い込まれるかのような、ゆるゆるとねじれていくような、次第に細かな粒子となって消えてしまうかのような感覚を生ずるものである。こうした体感をわれわれは普通「不安」と呼んでいる。だが、この「凝視性不安症候群」の特徴は、その不安がまず身体症状として現れるのが特徴だった。

 症状が現れると、緋弐図は腹をさすり、体を前に深く折り曲げ、その過程で机に思い切り額をぶつけるがその打撃音と痛み程度では、身体症状のカウンターストレスとしては軽すぎるため完全に無視される。その結果、緋弐図の額にはいつもタンコブがあり、時折は目の周りに青タンができているのである。

 このコブと青タンに目をつけたのが、ダッタンインク株式会社の営業二課、タイラカナル商事担当の、実未だった。

「緋弐図さん。その青タンやタンコブ周りの赤褐色の斑を消せるような『飲む美肌インク』を開発できれば、イデア化粧品とかに売り込みができますよ。うまくすれば名門染家職人ヒニズの名称を冠した商品名や、シリーズ展開が可能かもしれません。インク調達なんて緋弐図家跡取りの血が泣きますよ」

 そう焚き付けられて、緋弐図孔痲は改めて、自分が今、タイラカナル商事に所属している意味を考えた。自分の前で、自分の肩をパンパンと叩く実未は、これまで決して熱心な営業マンではなかった。いつも不足したインク関連の消耗品の定数発注の確認がてら、ついでに営業部へ顔を出して女子社員に「いやーね」などといわれてヘラヘラしながら帰るだけの、典型的な腰掛社員でしかなかった。

 それなのに、一週間ほど前、突然このような提案を、触れられたくない過去を持ち出して「穀潰しの汚名を濯げ」と迫ってきた。


「何か仔細があるに違いない」

 緋弐図は熱心な社員ではなかったし、「凝視性不安症候群」を抱えてもいたが、決して無能ではなかった。

 在庫が定量減ったら定量補充するだけの発注ルーティンの業務に明け暮れる日々をすごしていても決して腐ったりはしなかったし、簡単なルーティンだからこそ絶対に誤りがあってはならないとの矜持をもって業務に取り組んでいたし、あまりよくは知らないとはいえ、親戚の口利きで入社できたのだから失敗などしてそちらに迷惑をかけるわけにもいかないと思っていた。

 緋弐図は、ファミリービジネスからドロップアウトした時点で、成功を諦めていた。「凝視性不安症候群」と診断されてからは、なるべく注目を浴びないような生活ができればよいと思っていた。自分がヒニズであることを恥じてもいた。両親や妹にも申し訳がなかった。妹は美容整形の施術者と結婚をして、そちらのファミリービジネスに入った。妹は有能だからきっと、そちらでもうまく切り盛りし盛り立てていくことだろう。

 両親は、息子が雇われ人(会社員)になることに賛成はしなかった。一族の誇りを奪った息子が、その上、情けなくも雇われ人になるとは、ご先祖に申し訳がたたないという気持ちもあった。しかし両親はその感情を息子にぶつけなかった。とはいえ、それは孔痲には針の莚だった。なぜならば、両親は、ほとんどなんの感情も示さなかったからだ。両親には蓄えがあった。だから孔痲は家を出た。仕事が決まれば社宅を借りることができるからだ。本当に親戚がいてくれてよかったと思う。

 両親は、残された時間も最良の染物を生産し続け、孔痲とは一切連絡を取らないまま、5年後に亡くなった。孔痲は葬式に出なかった。

 一族の中にはキャラバンになった家族もあった。各地を転々としながら物々交換とその手数料で生計を立てるキャラバンは、この社会のセーフティネットともいえた。アンタッチャブルだが、国からはラクダが至急され通行手形も与えられる。この流浪の民の多くはイフガメ砂漠に天幕を張った。

 緋弐図は、実未が、自分の遠い親戚と何か繋がりがあったのかもしれないと思った。自分をタイラカナル商事の消耗品調達業務に就かせたのは、ダッタンインク株式会社とタイラカナル商事との間に何事かの密約があってのことだったのかもしれないとも勘ぐった。だが、どう考えても自分はそのような働きをしてきたとは思えなかった。自分の業務は、今すぐにでもAIがとって変わることができるものだったからだ。

「美肌のための飲むインク? それは医薬品に関連するたくさんの法規をクリアしなければ不可能だし、だいたいテレビを見ていれば類似品は山ほど出ているし、その大半が表示法違反やら、詐欺罪やら、傷害罪やらで告訴されているじゃないか。この青タンを消すため、だって? そんなのBBクリームでも塗ればすむ話じゃないか。わざわざインク会社と染物屋を融合させてまで研究開発する価値のある市場じゃ……」

 とそこまで考えて、緋弐図はハッと思った。

「青タンやコブの周りの赤褐色の色を消すというのは、つまりは『血』を消す、ということなのか?」

 ヒニズでは一子相伝門外不出の「染」がある。それは「血で血を洗う染」と名づけられていた。美容業界では「白」と「黒」とが交互に流行る。だがもっとも肝要なのが「血色」であることは非常に軽んじられている。

 しかし、ファミリービジネスを消滅させ、追放された自分が、ヒニズの極意を不法に用いて「血」を消す仕事を持ちかけられるとは、なんと因業なことだろう。

 緋弐図孔痲は久しぶりに妹に連絡を取った。

「あ、お兄様。おひさしぶりね」

「う、うん。そっちは変わりないか? 静ノ?」


――な、なんだって?!

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