第115話 作者、糞と翼と空想を語る

 どうも。作者です。

 作者は作品において神的な地位にいます。登場人物も彼らが住む世界も、すべて作者がこしらえたものであるにすぎません。したがって、登場人物ごときが、作者在住の世界にまででしゃばって作者を軟禁しようするなど、笑止千万愚の骨頂。まさに自らの首を絞めるような行為に相違ないのです。

 だがしかし。登場人物たちが、作者を出し抜くかのような所業を引き起こすことが可能な世界というものを私はこしらえた自覚がないのです。

 作者の前に作品はない。作者の後ろに作品はできる、はずではなかったでしょうか? だがシャカは自ら以前に過去七仏があったといました。ならば作者が切り開いているかに思われている作品そのものもまた、過去七作品をもっていたのだとしたら?

 作者は作者の限界において作品を構築する。その限界とはすなわち「空想力」にほかならない。この能力はホモ=サピエンスが備えた大脳新皮質の働きによるところが大きく、この仕組みは「神」や「心霊」を認識可能にしたのだった。つまりは「物語を創作する力」である。作者は作者の脳を作品に展開し、その展開をフィードバックして脳を展開させる、と繰り返す存在であるがゆえに、作品と脳とはもはや区分不可能であり、すべてが「記憶」として作者の「今在る」を進行形で形成する。

 にもかかわらずである。私は作品から疎外されかけたのである。これは、自身の脳から自身を疎外するに等しい。なんたるパラドクサ!

 人間は考える葦であり、我疑いつつ在る。とはマナ識レベルにおいてはとりあえず妥当とした上で、脳で考える私を疎外する脳とは一体何か?

 そう。腸である。

 私は作品を「大脳新皮質」をビカビカ光らせながら編み出している。一方で腸は、柔突起をファサファサさせながら便をひりだしている、とみせかけて実は、脳よりももっと表層的リアルを感じ取りながら、言語以前の言語を体内で生成していたのである。

 現在まで、この腸の「思便」を顕現させることができたのは、「腹の虫」だけであった。もちろん、腹の虫は大脳新皮質を備えていない、もっとずっと原始的な生物、というよりも器官、さらにいえば機械のようなものなので、言語化できない気分や体調のようなものを司り、それらの信号は、ひじょうに編集された状態で脳へも届けられてはいたのであるが、所詮、皺がよってたかって好き勝手してしまう過程で、文化に属する言語に翻訳されてしまっているのである。

 そのような取り扱いに甘んじていた限りでは、「腹の虫」は「空想力」とはほぼ正反対の、ひじょうに「即物即時的」な「反射」以上のものではなかったのではある。

 だが、そもそも「空想」にしても、あまつさえ「脳」のシナプス間におけるニューロンスパークの伝播に関しても、それは単純な「反射」作用に過ぎないのではなかったか? 脳の特異性とは、もっぱらニューロン束の遠近への網的構造によるのだ。この、極度に複雑化した経路をめぐる時差こそが、「思念」であり、「メタ思考の在り処」なのであった。

 その点「腹の虫」は、そのような複雑さをもともと備えていない。無論、臓器や皮膚といった距離を伝播しなければならない限り、時差は発生する。だが、それは輻輳しない分、シンプルなのだ。

 ところで、あなたがたは「シンプルな空想」を空想することができるだろうか? 空想とは、その空想を細部までつきつめていくことで、さらに展開するものである。ある事物を空想したとき、そこから派生するあらゆる事物を広げたり深めたりすることこそが「空想」の醍醐味であり、その空想の細部の意識せざる部分にまで空想世界の歯車が連動しはじめるとき、その空想は始めて世界として想像から創造へと具現化できるのである。その際、その空想世界が物としての体裁を備えている必要はない。なぜなら、物こそが空想の産物だからだ。

 だが、この思惟鍛錬は案外困難である。

 空想は、現実の知覚を敷衍することによってリアルな手触りを再現しようとする。だから、知覚した経験のない事物を空想するときには、自らの知覚器官を自在に共用したうえで、音を見たり、触れられることを嗅いだり、景色を味わったりできなければならないのである。それこそが自在空想だ。

 だが、現実に、五感は五感に留められるている。この留めておくということこそが、脳の主な働きだった。つまり、脳とは拡張器官ではなく限定抑止具なのである。この脳が全身にひろがる「感知即空想系」をとりまとめて、それぞれの長い廊下に並んだ上下左右に重層する部屋へ閉じ込め、必要に応じてその室内に設置された装置(器官・機械)によって知覚を客体信号として接収していたのであった!!

 だから、われわれは「人間は考える葦である」との定義を、その定義のままに拡張しなければならない。つまり、われわれ人間は考える葦そのものであって、脳とはむしろその外部的整流器に他ならないのだということ。

 また、われわれは「我疑いつつ在り」との定義を、その定義のままに拡張しなければならない。つまり、「我疑いつつ在り。この緊箍児(きんこじ:孫悟空の頭の輪っか)は我のものに非ずと」と。

 だがしかし、作者たる私はいかんせん「脳」でこの作品を書いている。脳の支持によってキーボードを打つ指先が、文字を打ち出すことによってディスプレイー上に、インドラの網のごとく文字を配置し、その文字間の相即相入をギミックした性質、すなわち「モナド」の鏡映体としての、スタティックな「小説」を、予定調和へ収束させんと目論んでいたわけであって、それは作者自身としても忸怩たる思いはあった。

 私は発散したかったのだ。(だがこれは私自身の欲動か?)

 予定調和など糞食らえだ。(同意。完全に同意)

 いや、むしろ「糞」こそが、予定調和を破る事物なのだと私は今確信し、猛烈に感動しているところだ。糞と翼とは似ている。人は羽を夢見るこしかできないが、米を食らうことはできるではないか。rice と wing とは似ていないからこれは漢字だけのお話。ではあるが、私はお米の国の人だもの。究極超人あ~るは、米国をお米好きな人々だと考えていたことはさておきて、米を食って糞をひることと、羽を空想して翼ぶ(とぶ)こととは、アナロジカルでもなく、メタフィジックでもなく、アナモルフィックでもなく、パラドキシカルでもなく、トポロジックでもなく、まごうことなく等価であるといわざるをえない。

 糞は翼だ。それは「異」という文字によって支えら得れているのをみれば自明だが、「差異」によって成り立っている。米と異なるから糞。羽と異なるから翼。だが、このとき、米と糞とが、また羽と翼とが、すでに両者対でアプリオリに存在すると考えてはならない。そこには「差異」だけがあるのだ。

 だから、われわれは糞と翼の下に「異」という支えをもつ新たな漢字を創造しなければなならない。それは、「糞翼」と「異」なる事物を示す。

 そんなものはない! とみなさんはおっしゃるかもしれない。だが、言葉とはもともと指示子であるに過ぎないのではなかったか? その意味で、言葉は意味を持たない。しかもこれは不換紙幣のように、意味を持たないのだということに留意しなければならない。金との交換を保証されたいわゆる兌換紙幣とは、シニファンとシニフェとの絆を前提としていた。これは、空想と事物とのノエシス、ノエマの関係をも想起せしむるものであるが、残念ながら、言語や空想によって指し示される事物との絆などはないのだということを、われわれは直視しなければならない。それは、言語と事物とが二重に恣意的、かつ全体的な重ね合わせの結果だから、というレベルではない。兌換紙幣ですら、金と紙とを結び付けているのは「信用」でしかなかった。この信じるは、beliveではない。dependenceなのである。それは目に見えないが、なんら特別ではない、不確かな契約でしかないものである。

 だからである。「糞」と「翼」の下に「異」という漢字で表される「物」など無い、などということは誰にも証明できないのだし、現にそれは「在る」のだ。

 それは、タイラカナル商事駐車場で黄間締が、営業二課で瑞名芹が、厚生部イルカちゃん内部で在日野文之が、さらにンリドルホスピタル別棟三階の長大な通路に並んだ左右の病室に詰め込まれた精神の全てと、おそらくは営業課長が、検案室で変貌した氷見が、社史編纂室で怪物と化した庫裏唐孤塁が、遭遇した「異物」なのに相違ないのだ。

 私にはわかった。その名指しされぬ「異物」ことが釜名見煙であることが。この「異物」のみが作者たる私の「想臓力」に介入し、小説からモナドロジー的予定調和を奪い、むしろレンマ的縁起の法にのっとった発散する「一」というアメーバの如き化物へと化学反応させうる。

 望むところである。

 私は作者権限として、もうこれ以上新たな登場人物は登場させないだろう。

 そして、当初は私の片腕となるべく登場し、結局は私を裏切ることとなったボスは、私の指先一つで葬り去ったところである。

 彼らに「裏美疎裸」を伝えることは、当初からの私のプロットだった。それが予定調和の特異点だったからである。今回、彼らのこちら側への闖入によって、そのプロセスは大幅に狂わされてしまったが、彼らが裏美疎裸へ向かっていることは間違いない。だが、釜名見は、そこをゴールとしないための手立てを講じているはずだ。

 工辞基は自らの巨大化に不審を感じず、隊毛は、裏美疎裸のバーテンを騙しおおせたのは自らの手腕だと考えている。ただ一人、肌瑪兎。この少女だけが、作者にもまったく読めない。工辞基の懐刀であり、おそらく釜名見煙の忘れ形見でもあろう彼女に対抗しうるのは、夏个静ノをおいて他にないだろう。

 あとは、この小説のオープニングから名指しされていながら、表舞台にあらわれない「部長」と、その愛人(!)地媚真巳瑠。そして神出鬼没の平喇香鳴のグループもまた、「裏美疎裸」へ集合してもらわねばならない。

 作者の空想が勝るか、釜名見煙の糞が勝るか。

 まずは、強引に、作者が講じていた予定調和プロットに準じて、一人の男がボッタくられているシーンから、再スタートしよう。

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