第97話 UFO

 艶消しシルバーの紙で細く巻かれた長いメンソールのタバコの先で、カチンという小気味良い音と、シュボッという、篭っているようで透き通った音が続くと、そこに焔があがった。隊毛の目からは、その炎の先が砂漠に浮かんだUFOの尻をジリジリと焼いているように見えた。

「焼き蛤みたいだね」

 隊家はそう呟いて煙をぷうと吐き出す。その煙をボスと真名とが垂涎の眼差しで見つめている。二人は以前に隊毛からせしめたタバコを吸い尽くし、今、灼熱の黒い砂漠の只中で、猛烈にその精神安定作用および精神亢進作用の双方を求めていた。隊毛はそんな二人に気づいて、懐からシルバーのシガレットケースを取り出すと、カチリと蓋を開けて見せた。二人は先を争ってそれを覗き込んだ。だが、中にタバコは残っておらず、ただ、この砂漠の砂がぎっちりと詰まっているのであった。

「いつのまにか灰皿に。というわけさ。許された最後の一服とはね。まるで私たちは死刑囚のようじゃないかね」

 眼差しをUFOにぴたりと吸い付けたまま、隊毛はゆっくりとタバコを味わっていた。ボスと真名とはその副流煙を、打ち上げられた魚のようにパクパクと摂取していた。

 はじめにUFOに気づいた或日野もまた、眼差しをUFOに固定したまま、膝の上に地媚を横たえていた。異常なまでに膨張した腹部は、ときおり内側からぎゅうと掴まれているような皺をつくり、それはどうやら一対の掌のみによるものではないように思われた。身体は軽かった。或日野はこういう軽さを経験したことがあると思った。身体に感じる肉感はどこもかしこも張りがあり瑞々しかった。それは風船のような膨満の感触ではなく、みっちりと詰まった桃の張りだった。押せばやわらかく包みこみ、話せばゆったりと元に戻る。低反発枕のような身体だった。或日野はUFOを見ながら、地媚の身体のそこかしこの肉感を味わった。今すぐ抱え上げて、砂の斜面を疾走したいという衝動を抑えながら、或日野は涎をたらしていた。意識を取り戻しつつあった地媚は、その微妙なようで、ぞんざいなようで、乱暴なようで、慈しむかのような或日野の指の圧力を無意識に予測し、無意識に貪ろうと、待ち受けている自身の劣情を感じていた。腹腔内に異物感はあった。皮下脂肪ごとぎゅっと掴まれるたびに、臍の内側から画鋲を指されるかのような鋭い痛みを覚えた。その痛みは一瞬だったが、記憶に残る痛みだった。そしてその痛みの記憶は、忘れることを許さないほど強烈な再現性があった。それを忘れさせてくれるものが、或日野の指だったのである。体中を這い回る十本の芋虫のような或日野の指は、やがて統制のとれた行軍のようになり、地媚の全身を検閲するかのような厳格さで、すべての区画を掘り下げた。地媚は、自分が暖かな砂の起伏の上に横たえられるのを感じた。右には或日野が、左には工辞基がおり、それぞれが地媚の左右の手を握っていた。

「まだだよ。まだイキんじゃだめ」

 そんな声が聞こえた。それはUFOから聞こえてくるような気がした。まぶしくて目を開けることができなかった。太陽が沈み始め、涼やかで生臭い風が吹き始めていた。真名がUFOと地媚達との間に立ち、脇のホルスターから拳銃を抜いて構えた。標的はUFOだった。ボスは真名が拳銃を構える姿を始めて目の当たりにして、一般人と刑事との差は、拳銃にあるのだ、と思った。結局、パワーの優位がなければ他人を取り締まることなどできないからだ。それが銃であることが、ボスには滑稽だった。そんな時代錯誤が未だに有効だと信じている権力と、それにひれ伏さざるを得ない大衆の愚劣さがだ。つまりは「命」の問題であり「執着」の問題であり「存在」の問題だと思った。ボスは真名とは反対側に陣取った。そちら側には、長い間勤めてきたタイラカナル商事の社屋跡があるはずだった。だが、ボスの背後へ沈む太陽の低い光は何にも遮られず、次第に色を変えていく砂漠の彼方まで貫いていた。いや、ただ一つ。ボスの影法師がその光を欠けさせていた。影は太陽の光の果てにまで続いていた。踵からズボンの裾、膝、股間、ベルトそして、ジャケットから肩、首、耳、帽子…… いや。帽子があるはずの位置は、もはやボスの視界からは外れていた。長大な二股の棒となった脚の影だけが、砂漠に、延々とくねるように伸びており、日が傾きを増すにつれてどんどん伸張していた。ボスは、もはや帽子の影には追いつけないと思った。「帽子がどこまで転がっても故郷だ」という寺山修二の俳句だか短歌だか詩だかが耳を掠めた。いや、それは凪の終わりを告げる西からの風に巻上げられた砂粒がこすりあわされた立てた音だ。

 この砂漠が如何なる砂に満たされているのかは、勤怠管理部で上映された一本目の映画で明らかだった。日が沈めば、黒い砂漠は白い光の砂漠と化す。それは人間の視覚の画素数に迫るほど微細な三原色のドット絵を3Dで構築する視覚の地獄であった。

 「この砂は、音まで奏でるのか……」

 ボスは背筋の寒くなるのを感じた。砂男が眠りをもたらす原因は砂嵐による視覚封鎖の変移だった。では音は? 音は子守唄にもなりうるし、目覚ましのベルにもなりうる。キスは目を閉じさせるものでもあり、目を開けさせるものでもある。キスに始まり、キスに終わる。そこで行われる息と体液の交換によって、キスする者同士の体内細菌環境はシェアされ、排泄物も似通ってくるはずだ。

 真名とボスの背後。工辞基の横で、或日野が今まさに、眉間に皺をよせて咽び喘ぐ地媚に接吻した。ボスはそれを眼前に広がる砂塵のスクリーン上で見た。真名はその同じシーンをUFOの壁面で見た。或日野と地媚との周囲の砂が吹き上がり、工辞基の左腕を半ば巻き込む形で砂の山に埋め始めた。それは球体となって激しく回転した。砂の球体からはみ出していたのは、工辞基の左腕から外と、地媚の左右に大きく開かれた下半身のみだった。

「はい。イキんで!」

 砂の球がペコンペコンと凹んだ。キューキューという硬いものがこすり合わされるような嫌な音があたりに響いた。その音に共鳴するかのように、砂漠全体がキーキーと鳴り、またたたく間に真っ白な雪のように変わった。日暮れだ。砂の内部から漏れ出す光が砂漠を光に変えていた。

「キュー!」

 今や白い光球と仮した砂の一部が括れた。真名が目を瞬かせながら「おう」と叫んだ。UFOもまた火球のような輝きを帯びて括れたのである。真名はその光に目をやられてしまった。

「なにも、見えん、いや、見える。見えるぞ。なんだ、ここは……」

 真名は、地球儀の緯度経度のラインのようにくびれたUFOの中央に、ひときわ多いな亀裂を見出した。いや、視力は失われていた。真名は目それを直接、視神経で見ていた。

「はい。もう一回!」

 声はUFOから聞こえてきた。「ヒィー」とイキむ声もまた空から聞こえた。だが、光球からはみ出した地媚の脚も激しく痙攣し汗に濡れていた。イキむたびに、UFOの高度が下がってきた。何かに押さえつけられるかのように落ちてくるのではない。引衣摺下ろされるかのように落ちてくるのでもない。ヘリウムの入った風船が次第に浮力を失っていくように静かに、自然に下りてくるのである。

 工辞基は左手をもぞもぞと動かしていた。或日野は光球のなかに完全に隠れていて見えない。

「はい。これで最後!」

「ぎゃ~!」

 UFOの底から地媚の股間に向かって、ボトリボトリと何かが落ちた。それはベトベトしていたので、すぐに砂まみれになった。そして砂まみれになってみると、どうやら三人の人間の姿をとっているのであった。夜になった。砂がまばゆく輝き始めた。どこまでも穢れのない真っ白な光そのものの人型が三つ。ortの形で喘いでいた。

「墜ちるぞ」

 真名が叫んだ。浮力を失ったUFOはゆっくりと接地し、砂に触れるそばから、ことごとくが砂へ帰した。砂の一粒一粒が人の形に輝いていた。地媚達を包み込んでいた光球が消失し、地媚が身体を起こした。そして自分の脚の間に三人の白い人間が蠢いているのを見て、「まあ。課長」 と口走って、意識を失った。

 傍らの工辞基は、地媚が「課長」といった白い人型を、亡霊でも見るかのような顔付きで見ていた。光球に巻き込まれていた左腕は、肘の上から失われていて、パチパチと音をたてて火花が飛び散っていた。それを見た隊毛が、

「贋物か?」

 と言って懐に手を伸ばした。

 そこへ、UFOの砂の塊のなかから放り出されるように、或日野が飛び出してきた。真っ黒こげになった工辞基の左腕を抱えて。

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