第91話 贋作潰し

贋作潰し

1

 タンク室のモニターでは、平喇香鳴と土師無明とが一糸纏わぬ姿となって、タンクNO.7に入ろうとしていた。香鳴の身体は素晴らしかった。土師の身体は中肉中背の筋肉質で、いやに生白いことだけが目を引く程度の、平凡なものだったが、やはり香鳴の、顔と肉体とのコントラストは、解像度の粗いモニター越しに見ていても、様々な欲動を活性化させた。

 まず、土師がタンクに仰向けに横たわる。私はタンク内部のモニター画面を手前に引き寄せ凝視する。土師のペニスは生白い皮にすっぽりと包まれ、静かに俯いている。香鳴のヌードを見て、勃起しない男がいるということに私はひじょうな憤りを覚えていた。香鳴は、ずっと土師の顔だけを見つめている。

 タンク内のモニターに大写しとなった土師の顔が、奇妙に歪んだ。頤から、こめかみにかけて、なにかヒラヒラとした襞が現われ、それがウミウシや蛞蝓であるかのように蠢き始めていたのだ。香鳴は、その顔の変化をみて、大きく口を開いた。真っ赤な舌が複雑な筋組織の間からだらりと垂れ下がった。

 いまや土師の顔は、顎から額まで、顔の形にビラビラと襞が蠢き、時折その襞がアーチを描いて、ブルブルと震えるような動きをみせた。土師は表情を歪め、口を開けた。だが、頬と唇とはそのうごきについてこられず、ビチビチという音がして、土師の表情を形作っていた皮膚が、ズリ下がってきた。

 香鳴がタンクにのぼり、土師を跨いで仁王立ちした。土師は自分の両脇におかれた香鳴の踵をぎゅっと掴かみ、再び口を開いた。そこへ、香鳴の股間から激しい水流が放たれた。それは黄金色に耀き、1/fの揺らぎをもって迸ると、土師の顔面の隅々を洗い、土師はその全てを飲み干そうと試みていた。


 土師の顔が、鎖骨まで流され、香鳴と同じように筋組織がむき出しになった。


 香鳴は、土師の顔面にしゃがみこみ、背中を大きくのけぞらせながら、流れ落ちた土師の顔だった皮膚を拾い上げ、無造作にニ三度振って飛沫をとばした。皺くちゃで分りにくかったが、それは土師の顔ではなかった。いや、振られるたびに、表裏となるその皮膚には、表と裏とで二通りの貌を見て取ることができた。


 一方が、土師無明。そして土師が貌に装着しているあいだ、ずっと土師と接吻を交わす側にあった方にあったのが、平喇香鳴の貌だったのである。

 そのことに気付いた私は、反射的に嘔吐していた。洗浄室のセンサーは、こうした汚物の匂いをけっして放置しない。退去を促すサイレンがけたたましく鳴り、室内に強アルカリ性の洗浄液が放出された。


2

 洗浄液が触れた皮膚からは、黄ばんだ煙と共に腐敗臭が立ち込めた。点々と皮膚が溶け、中身が露わになっていった。鼻腔から肺にかけての気管支は、焼けた火箸を突っ込まれているようだった。私は、扉へ走り、小さな窓に貌を押し付けて、闇雲にドアを叩いた。No.7のタンクから、むくむくと何かが盛り上がってくるのが見えた。私の背中にはもう背骨と肋骨が露になり、色とりどりの内臓自体の匂いが鼻を突いた。タンクの腰のあたりから、巨大な黒い塊が、いや黒く見えたのは一瞬で、七色の細かな光が明滅する不定形の霧のようなものが、たしかな量塊としてタンクを跨ぎ超え、巨大な肩をそびやかすようにこちらを振り向いたような気がした。

 貌があった。二つの貌が、私が懸命に叩いている扉の、小さなガラス窓のすぐ近くに、こちらを覗き込むようにしていた。二つの貌は、笑っていた。その貌を、私はよく知っていた。その二つの顔が、分厚いガラスを隔てたすぐ先で、激しく口付けを交わした。出入する舌の微細な震えまで、見て取ることができた。唇も歯も無い、全く素通しの二つの顔は、互いに激しく舌を吸いあいながら、私の、もう頭蓋骨が露わになりかけてしまった顔を、横目で眺めていた。


 あの時の私にこのようなことが起こったという事実はなかった。

私は、この私の記憶という時空の中で、私自身が殺されていくのだという事実を、受け入れることができなかった。

 頭蓋骨が割れる音を聞いた。ザラザラという音が、耳の中から聴こえた。熱い滝が流れ出しているような感触だった。貌が崩れていった。首筋も、胸も、骨盤も、ことごくがザラザラと音をたてて落ちていった。


 最後にガラスの外に見えたのは、二本の真っ赤な塔だった。瞼のない巨大な眼を二つずつ備えた、巨大な、沙漠の塔だった。


3 最終回


 ―アルビヤアヤノ 所属 社史編纂室

 金属的光沢を帯びた女性の声が響いた。抑揚のない声だ。


―パスワードを発声してください

 「ヒナゲシ。カサブランカ。ゴルゴダ」

 僕は反射的にそう答えました。国民には出世時にランダムに選ばれた言葉が与えられており、管理者からの求めに応じて、間髪入れず答えられるようインプットされます。インプットというのは比喩ではなく、このキーワードは厚生省がほこる健康維持管理システム通称イルカチャンにより、国民一人一人の深層意識深くに埋め込まれるのです。このシステムの適用は、先のご説明した勤怠管理グリッドの適用などと同様、出産時の承諾義務事項となっています。

 なので、国民であればだれでも、管理権限者からの「パスワードを発声してください」との質問には即座に応答できるのです。ただし、この認証方法は、不測の事態により本人確認の手段が限定された場合にのみ、適用されることとなっています。なので、即座に応答できるとはいっても、私がこのキーワードを実際に発声したのは、本当に、忘れてしまうぐらい、久しぶりのことだったのです。


 脾臓及びランゲルハンス島界隈の代謝率に問題が見受けられるとの報告を受けています。本日午後より、ンリドルホスピタル消化器科及び内科の検査を受けて下さい。ただいま、診断予約を取っています。そのままでお待ち下さい。ただいま、診断予約をおとりしました。本日14時15分、ンリドルホスピタル別館の人間ドック受付へ、この札を提示してください。なお、検診費用はタイラカナル商事が支払います。社史編纂室は現在上司不在となっております。このような場合の会社指示による欠勤は有給を充てることになります。ご承諾のサインをこちらの端末にお願いします。ありがとうございました。それでは、本日は現時刻をもちまして、早退扱いとなります。なお、この早退は、会社支持によるものなので、勤怠査定にはその旨記録されます。これによってあなたの勤務態度の評定が影響を受けることはありません。なお、ンリドルホスピタル行きのEVBは、現在から20分後、正面乗り場に到着します。昼食は摂らずにこのままバス停へ移動してください。検査の結果は当社に送付されます。あなたは、医師の指示にしたがって帰宅して結構です。それではよい旅を。


 私は口をさしはさむ余地のないまま、札を受取、何回かサインをし、勤怠管理部の扉から吸い出されるように廊下へ追い出された。目がチカチカし、耳の中がじゃりじゃりしていた。通路にはうっすらと砂が積もっていた。


 さきほどの「喫茶 凪」でのバットトリップは、結局、私の内臓に問題があったということのようだ。もちろん、気分は腸の具合で決まるなどというのは、自明のことだ。あの皺皺に折り畳まれた腸の重なりの中で、綿密にやり取りされる内臓伝達経路は全臓器に及び、気分とはいわば、それら内臓の信号の総意なのである。

 私はバスを待ちながら、「バリウムあるかな。バリウムはいやだな」と、そんなことばかり考えていた。どこまでも澄んだ空の彼方に、二本の赤い塔が見えていた。


 ――私たちはね、防潮堤なの。くっそみたいに入り組んだ脳みそに気付かれた万里の長城なのよ。必要ならば、脳梁の切断だって厭わないし、前頭葉の全摘出だってやってのけるわ。

 ――とりあえず、医師免許は持っているからね。やれなくはないだろうけれども、どちらかというと、君のメスは言葉ではなかったのかい?

 ――利いた風なこと言わないでよ。私にいわせれば、脳だって腸だって同じようなものよ。腸がうんちを作り出すなら、脳は空想を作り出すんだわ。


 平喇香鳴は、ンリドルホスピタルの若き脳外科医氷見佐治にむかって毒づくことを止められずにいた。彼女の顔にマスクはなく、氷見もそのことを気にする様子はなかった。


――夏个が出たって?


 氷見がその名前を出すと、香鳴は顔の筋肉を引き攣らせた。


――あれは、一種の共同幻想みたいなものよ。あなたにだってきっと巣食っているわ。あの夏个っていう、妹キャラ。


――釜名見煙の分身形態なんだろ、ありゃ。


――切り刻めないものに関しては、本当に大雑把なのね。あなた方って。でもま、いいわ。そうよ。私は顔をなくして、あの子は身体をなくした。相補完的存在者としては、私も彼女の二重星みたいなものね。母かもしれないし、もしかしたら、兄かもしれない。ま、こんな分析医の述語なんてあなたには退屈でしょう。


 氷見は脇で、ごぼごぼと音を立て始めたカテーテルをちょっといじって、看護婦にガーゼで拭うように指示を出すと、失敬、といって香鳴に向き直った。


――そもそも、この部長殿が発端だっただろ。あの混乱は。タンクの導入に関しては、創業者のぶよぶよの脳が、ああ、君に言わせれば柔突起の磨り減った腸の、世迷言だったんだから。まったく、見上げた腰ぎんちゃくだよ、この部長さん。おかげで、とんでもないものを残していきました。誰かの心です。ってな。


――排泄部よ。どこにでもいて、どこにもおらず、誰でもなくて誰でもある。限界の中にいて限界と突破し、ありもしないものを次々と送り出す。そのエネルギーは何なのか? ハッ! ばかばかしい。あいつは砂を食っている。サンドイーターだった。蚯蚓みたいなものよ。砂坊主ね。眠りを忘れた眠り姫の見てる夢につきあわされなきゃならないこっちの身にもなってほしいわよ。


――だが、なぜ、君はそうするんだ?


 そう尋ねた氷見は真顔だった。それはどことなく彼女のマスクの裏面に刻み込まれた皺と眼差しを備えているように見えた。


――ささやくのよ。私の直腸が。


 再びゴボゴボという音が始まり、鼻腔から脳幹の深部へ差し込まれているカテーテルから、真っ赤な砂が噴出し始めた。氷見は看護婦に、カテーテルの先につけたストーマ袋の取替えを命じると、鼻を押さえて香鳴に告げた。


――喫茶室へ行こう。これは臭くてたまらん。


 二人は部屋を出た。通路にはうっすらと砂が溜まっていた。


――どれだけ密閉したって防げるもんじゃない。中庭だって、そろそろ満杯だよ。


 二人は皹だらけで、いびつに歪んだ病院の窓ごしに、中庭を見下ろした。さまざまな形をしたオブジェが、ところせましと並んでいた。


――根本的な解決方法がないいじょう、私たちは対症療法に専念するしかないわ。釜名見煙のオリジナルが不在であるいじょう、その亜種の出没を食い止める術はない。


――皮肉なものだな。あれほど苦労して仕留めたってのに、あいつが吐いた砂のおかげで、終らない悪夢が始まったってわけだ。


――反省も総括も無意味よ。状況は変わった。私たちが相手にすべきは、うんちなんだから。


――血だろうが、うんちだろうが、手を汚すことにはかわりないさ。


二人は、疲れ果てた身体を支えあうように、喫茶凪の暖簾をくぐった。


しばしの休息。ここでは、仕事の話をすることは禁じられているのだ。(fin)

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