第89話 砂の女
5 砂の女
1
砂には砂の秩序がある。秩序をもたらすのは砂粒のサイズや重量、もともとの地形や重力、そして外力としての風雨や通過してゆくものの圧力などの複合的要因だ。
それらによって引き起こされる変化は、一定の法則に従って起こる。この法則は、さきほど挙げた諸要因の配合如何によって決定し、この宇宙上のあらゆる場所において一定である。
私は砂のなかにうずもれて、もう随分と経つ。砂にうずもれる以前の生活よりも、うずもれてからの生活のほうが長いようにも感じられる。だが思い出はいつも果敢無いものだ。そして現実は砂を噛むように味気ない。
ここの秩序は砂の外の秩序とは異なっている。空気と砂との混合比率が異なることが、その要因である。大気中を移動する際にかならず対抗していたはずの空気抵抗の値が、砂まじりとなることで相当な障壁となること。大気にくらべて砂は光を通しにくいため、あたりは薄暗く、そして見通しがきかないこと。雨は直接皮膚をぬらすのではなく、砂そのものを重たくする。着衣水泳などとは比べ物にならぬほどの抵抗と、水分によって大気が押し出されるために発生する酸欠状態。雨上がりには全身を覆った泥をかきとらねば、全く役に立たない砂の鋳型が完成してしまうこと。従って、雨のあとには人の往来が絶えないこと。
そう、砂の下にも秩序があり、生活があるのだ。
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砂が入ってくる。皮膚を切り裂いて傷口から毛細血管へ。鼻や耳の穴、眼球と瞼の隙間から涙腺を逆行して。脳関門などやすやすと越え、肺も食道も全てが砂で満たされていく。
苦しくはない。焼けつくような痛みが内外にまんべんなく貼りついてしまうと、もはやどこが痛いのか、どこまでが躰でどこからが沙漠なのかが分からなくなる。砂が続いている限りの地平からの振動を感じることができる。
イフガメ沙漠の砂は三原色に発光する、片栗粉よりも細かな粒子の一粒一粒がまざりあい極彩色に流動する。体内の細胞と結びついた砂の発光は、器官に発光バクテリアを住まわせた深海生物へと私を変化させた。光っているのは砂か私か。見えているのは砂の幻影か私の記憶か。脳細胞の、シナプスの、ニューロン骨格の微小管につまった極小の明滅する砂が空想する歴史は、もはや私の記憶と混然となって久しい。 数千万年分の夢が私を沙漠へと還してくれる。砂の中にうずもれている私はもう存在しない。私は沙漠の空想であり、沙漠の使者であり沙漠のアンバサダーであり、沙漠そのものの代弁者でもある。
砂男は夢を奪う。だが砂男が見る夢は誰が奪うというのだろうか。
ゴーレムは魂を持たない。だがここには魂しか存在しないのだ。
私は砂の塊にすぎず、砂の空想を具現するための傀儡にすぎない。三原色の光がまばゆい白一色となり、私を浮き上がらせようとしている。帝王切開される私の身体は砂の鋳型を壊して成型された釜名見煙という個体として産声を上げる。
元気な女の子ですよ
取り上げた看護婦の声は若かった。だが顔がなかったので正確な年齢は把握できない。彼女の手の中で、私は彼女の白衣をはぎとって、まだ硬さののこる乳首に吸い付いた。「あっ」という短い叫びが顔のない唇の間からあがり、スカートの間からはざらざらと砂が零れ落ちた。私は安心して彼女の胸にしがみついていた。
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チャイムが鳴る。休憩時間が終わったのだ。私は物憂く瞼をあける。この夏最後の潮風が、サンセットビーチから私の前髪をすくって山の手へともつれていった。
「釜名見クン。ここだったのか」
そう声をかけてきたのは、もうすっかり髪のセットを終えた工辞基我陣企画営業部長で、私の直属の上司兼私のテトラポットだ。黙って、左手を差し出すと、彼は大きな瑪瑙のついた指輪を左手の薬指に光らせながら、そって私の指先を掌にのせる。分厚い掌だ。若い頃には、空軍に所属し、灼熱のM作戦では数々の武勲をあげたとかあげないとかいう話を、少しだけ汗ばんだシーツからゆったりと回るシーリングファンを見上げたまま、聞いたことがあったようななかったような記憶が鼻腔に香った。
「おや、怪我をしたようだね」
彼が私の左手首を握り直し、ねじ上げる様に肘を上にむけた。私は反射的に彼の右から左右の肘を自分の右ひじと右わき腹でまきこんで、彼の両方の腕を一本にまとめると、彼の左の脇の下をくぐった。それだけで、彼の両肩の関節がきまるのだ。
目の前を一筋の血が流れた。血は私の腕をゆったりと伝わり、目の前の肘から一滴ずつ落ちた。
「ごめんなさい」
私は彼の肩をそっとはめてあげた。激痛が走ったはずだが、歴戦の勇士である工辞基我陣部長は、眉一つ動かさない。一説には、私と過ごす時間が増えるにしたがって、肩を外される機会が増え、ルーズショルダーになってしまっているのではないかといわれていたり、または、M作戦において拉致された折に、肩を外すことによって赤い砂の塔の鉄格子を抜けて脱出してきたのだとか、が噂になっているとかなっていないとか。
「手当てをしたほうがいい。厚生部へ寄ってから戻りなさい」
部長は腕を前から上にあげて大きく背伸びの運動から、ハイッ! の動きをしたそうな顔で、私の頬に軽く触れ、白い歯を少しだけ見せて凪を出て行った。私はその足で厚生部へ向かった。
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社屋の通路は長い。そしていつだってうっすらと砂が積もってる。海風が膨大な量の砂を運んでくる。私たちの服や身体の襞という襞には、この砂がはさまっている。肺にも、腸にも、そしてもちろん脳にも。モカシンとリノリウムの床の間で不均一な形をした砂粒が、軋むような音をたてている。口のなかもじゃりじゃりして、喉もいがらっぽい。この時間は特に、砂が多いようだ。清掃部の誰かが怠けているのかもしれない。あとで上司に報告しておくことにしよう、と決めた。
突然、傍らの片開き扉が私の進路を塞いだ。顔の前に、日々をセロハンテープで継いだスリガラスが立ちふさがったのだ。私はあやうく、顔をつっこむところだった。そして、この扉こそ、厚生部の才女から顔を奪った、忌まわしき扉であったことを思い出した。その同じ扉が今再び、私の貌を奪おうとしていたのだった。
「或日野クン!」
私は、目の前の扉越しに、そう怒鳴って、扉を目いっぱい引いた。その向こうで、男が一人土下座をしていた。或日野文護。数か月前、営業から清掃部へ転属となった、私の元同僚である。
5
在日之文護は、平身低頭していたが、真っ白なつなぎを来て床にはいつくばっているものだから、大福のようであった。
「あなた、太ったんじゃない?」
私はそんなことを言って、なぜそんな言葉が出てきたのかをいぶかしんだが、私が文護に対して、思いも寄らぬ言葉をかけてしまったなどということに動揺しているところを、文護に悟らせるわけにはいかなかったので、文護が顔を上げる寸前に少しだけ文護の前に移動し、心持ち、足を開き気味にしておいた。
文護は、頭を掻きつつ、ニヤニヤとした顔で私のパンプスから踝、そして向うずねへと視線を上げてきた。この位置関係だとおそらく文護からは、タイトスカート内の膝からガーターベルトの下の停め金具がギリギリ見えるかどうか、というところだろう。私はあと、半歩だけ前に出た。
文護は、もう少しだけ首を伸ばし、下から覗き込むようにすれば、パンティーが見えるに違いないが、今、懸命にスカートの中を覗こうとしているなどということを私に知られたら、どれほど軽蔑されるかしれないし、なによりも、自分自身が惨めではないか。だが一方、今ここに必然的理由が発生し、私がさらに下方から、釜名見クンを見上げるという姿勢が、ごく自然であるような状況になったため、不可抗力的に、釜名見クンのスカートの内側の深くにまで視線が及んでしまったからといって、それは純然たる事故ということになるのではないか。
と、考えていることが、手に取るようにわかった。
そして、このときすでに、文護の首は異様に伸びており、まるでクエスチョンマークの形で私の足元に迫っていた。その口からは舌をチロチロと這わせているのである。
私は、身体の向きを変えながら、文護の頭を右足のインサイドで蹴った。そして、文護の「って!」という声を背中越しにきいて笑った。右ひじからまた、血が滴ってきた。文護はこの血を丹念に舐めとっているのだろうと、思った。そしてその姿を想像して、少しだけ、興奮していた。
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「あら、今日はこっちなの?」
大きなマスクの若い女性。私が、元厚生部の才女とよび、顔と心に大きな傷をおって、タイラカナル商事を去り、ンリドルホスピタルでカウンセリングを受けるうちに、才能が開花。いまではンリドルホスピタル、精神科のインターンとなった、平喇香鳴クンだ。彼女は、ここでのPTSDを見事に克服し、いまでは数ヶ月に一回、メンタルヘルスケアのため、古巣の厚生部に出向してきては、全社員のカウンセリングを行っているのである。
いえ、今日は脳外科の方の依頼でデータとりと、タンクのプロトタイプについての問診に伺ったんです。
「タンク」というのは、現在タイラカナル商事が取組んでいる社内プロジェクトの内で、もっとも費用がかかるものの一つである。数年前に導入された勤怠管理及び喫茶凪システムは、MOMUSと呼ばれていた。簡単に言えば、社員を監督するための鞭と飴という、古い方法論を、流動的グリッドシステム論という最先端のさらに少し前をいっている理論に従って設計された。一言で言えば、人間の空想力を支配下におくことで、作業能率を高めるための、リゾーム的アプローチなのだというが、私はその時にはまだ学生だったので、よく知らない総務部秘書課に採用された私は、当時の室長であった室田六郎という、出世欲と色欲に凝り固まったポマードベットリ野郎に、なびかなかったせいで、その後の数年、社史編纂質付きとなった。そこでは、過去の資料を、そっくりそのまま新しいノートへ手書き更新するという、非生産的作業の極みに身をやつして、少々脳をやられたのであった。そしてンリドルホスピタルの精神科に入院歴があり、現在も定期的にカウンセリングを受けている。現在の担当が、彼女だ。
あ、ついでにカウンセリングやっちゃいます?
今日はまだいいわ。それよりこれ。
と私は右ひじを彼女にみせる。マスクを少し押し下げて彼女が私の肘に近づいてくる。
どうしたんですか? 散弾銃にでも打たれたみたいな傷……
大量の微細な粒子が、狭い範囲に、早い速度でぶつかったような傷だと、彼女は説明し、それから少し口ごもっていた。
それで?
はい。これ、内側から、弾けています……
そ。じゃ、弾は全部抜けているってわけね。
え、ええ。一応レントゲンはとりますけれど。多分。
うん。じゃ、外傷の処置だけお願いね。とりあえず血が止まってくれないと、清掃部が私の後をついてあるくことになるから。
清掃部の裏の顔。あそこは社内ゴシップを拾っては、広報部が発行している社内報へ売っているのである。ありとあらゆるゴミを片付けるのが、清掃部の仕事だ。彼らに付きまとわれるのは、ひじょうに煩わしい。
だけどあの、こういうことってあまり例がなくて……
そう? それは好都合っだわ。私、前例なんて、だいっ嫌い。
フフ。そうでしたね。釜名見さん。じゃ、肘をここへ。
オキシドールの香り。身体に張り付くように沁みるその痛みを、私はいつも、分厚いゼリーの外側を指でつつかれている程度にしか感じなかった。痛みはある。だが、その痛みに意識を集めることができないのである。
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まだ、沙漠の夢は続いていますか?
彼女は生真面目なので、肘に湿潤式疑似スキンを貼りつける作業の途中で、カウンセリングを進めようとする。私は彼女にむかってそっと首を振ってみせる。彼女は頷いて処置に集中する。
疑似スキンは乳白の半透明で、皮膚をこそげ落とされた私の肉や、筋や、血管などがうっすらと透けている。貼り付けて数秒で、境界の区別は失われ、高湿度に保たれた無菌状態の中で、私の肘はこれまでよりもずっと瑞々しい、角質化などとは無縁な新たな皮膚に覆われることになる。
美白とか、アンチエイジングとかのために、全身の皮膚をはぎ取って、このスキンを貼りつける女性たちだっているんです。
肌がきれいだって、下地が歪じゃ、何にもならないじゃないの?
そこはパック料金で、全身美容整形コースを選ぶ方も多いんです。美への執念の前では傷みや、しばしの絶対安静なんて、物の数ではないんです。
「美」か… 私は溜息をつく。
そういう人たちが求める美がやがて独りよがりになっていってモンスターを生み出すのよ。しかも彼女たちは自らの意思でモンスターになる。もちろん、それがモンスターのように見えるのは、マス・イメージから逸脱しているから。でも、美は常に、共同幻想を踏み外す部分をもたなければならないの。美意識はね。だから常に「今」から流れ出していく。指の間からこぼれる砂のように。
平喇香鳴は、無言でマスクと眼鏡を取る。剥き出しの歯茎、二つの縦長の穴だけの花、覆うものの無い眼球が今にも転がり落ちそうに、私を見つめる。
この貌にもずいぶんとなれたんですよ。ただ、周りの人はなかなか慣れないみたいで。
表情筋の動きだけでは、感情を表すことはできない。その動きによって起伏するパーツあっての表情なのである。
彼女は、社史編纂室の在日野文吾が突然開け放った扉のせいで、貌に大きなダメージを負った。形成外科、美容整形外科、皮膚科はあらゆる手段を講じて、彼女に元通りの貌を与えるつもりだった。だが、彼女は「顔を拒否」した。
顔なんていらない。中途半端な顔を縫い付けるくらいなら、私は仮面で十分。
しかし、彼女が気に入る仮面は世界の何処にもなさそうだった。傷口の乾燥をふせぐため、彼女の貌は弾性の高い半透明の膜で覆われていた。大きなマスクで顔の半分を、帽子と色眼鏡とであと半分を隠して、彼女はタイラカナル商事へ出社し、在日野文吾に素顔を晒してみせた。
私はあなたがしたことを忘れない。あなたがしなかったことも忘れない。
文吾はその場に卒倒し、彼女は会社を去った。
8
これで大丈夫です。しばらくの間、肘の屈伸はなるべく控えてくださいね。
平喇香鳴は治療器具の片付けをしながら、朗らかに言った。しかし、声の抑揚に対して、表情筋の動きはどこかぎこちなく感じられた。
上唇挙筋と、口角挙筋が引き攣るように動いてはいたが、下唇下制筋と口角下制筋とのバランスが崩れていたため、口輪筋が歪んで振るえているのだ。咬筋に力が入っており、それは頤筋の硬直を招き、笑筋は完全に弛緩してしまった。左の大頬骨筋がピクピクと浮き出し、眼輪筋と側頭筋が干渉しあって、目の大きさが非対称となり、鼻根筋と皺眉筋とがぶつかりあって深い襞を織り成していた。
何か気にかかることでもあるの?
私は、捲り上げた袖を戻しながら、何気ない風をよそおってたずねた。香鳴の顔がいっせいに緊張し、前頭筋が少し伸びた。ゆっくりと耳が前後に動いて、秒間5回の瞬きの間に、口を大きく開けて、また閉じてを2回行った。かすかに、ミントが香った。
(恋ね)
と私は確信した。
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