第88話 改めて 福利厚生部の水の女

4 改めて 福利厚生部の水の女


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 イルカチャンというのは、要するに瞑想タンクです。完全な闇と無音状態のタンク内部には特殊な液体が充填され、そこに浮かぶことによって重力すら感じない。液体は完璧に体温と同じで肺にたっぷりと入れることによって酸素と二酸化炭素の交換もしてくれる。液体を吸い込む際の反射反応と肺から液体を抜き取る作業も、慣れてしまえば多少咳き込む、えずく、程度のこと。そんな些細な苦痛を補ってあまりある効能は、疲労回復、ストレス軽減、トラウマの解消、物忘れ防止、アンチエイジング、多幸感、自己実現への意欲高揚、頭痛肩こり腰痛歯痛。胃炎胆石十二指腸潰瘍。痔ろうに近視、不安減少。性欲亢進。我が「タイラカナル総合図案」において、メンタルヘルス問題も、セクハラも、パワハラも、一切存在しないのは、凪と、勤怠管理グリッドと、このイルカチャンの三種の神器があればこそだ。

 ともかくすっきりしてやる気がみなぎるという、脳内麻薬がドバドバでてくるような電波だか何かが出ているのだろうけれど、ともかく会社公認の健全なる生体ドーピング機構なのだというのが公称の効能で。

 タンクのなかでは丸裸だが、真暗なので気にならない。タンクへの出入の際にだけ生まれたままの姿を晒すことになるわけだが、勤怠管理部にあのような美しい人型端末が設置されているからには、こちらにもひじょうに魅力溢れるアンドロイドテクニシャンが配備されているというわけで。


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  おそらく三体の白衣姿のテクニシャンが、24時間体制で厚生部タンクルームに常駐しており、24時間戦い続ける社員達のメンタルケアに専心してくれている。

  おそらく三体、というのは、この部屋に常時いる人数が三体であって、交代要員がほかにどれだけいるのかが分らないという意味だ。

 彼女達ナースタイプテクニシャンは、派遣されてきている。派遣元は「ンリドルホスピタル」というこの町随一の総合病院で、このイルカチャンシステムの発案企画制作施工導入は、ンリドルホスピタルの開発部が手がけた。画期的なリフレッシュシステムとのふれこみで、クライアントの無理難題で、あちこちの調子が狂った社員達を治すために導入が決まったのだという。

 「最先端は常に尖っている」というのが、創業者美弥牟理蜂尾郎の口癖で、その口髭もダリのように激しく尖っていたという。残念ながら過去の大火のため、その写真は一枚も残っていないが、社史編纂室には「タイラカナル商事40周年記念品案」として、創業者の顔をかたどった「ホログラフィック文鎮」のスケッチが残されており、三日月顎と尖った鼻の間につきたったカイゼル髭を、360度どこからでも観察することができるのだ。が、はっきりと写し取られているのである。


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 それはともかく、タンクに入るとあらゆる刺激を遮断された完全なる浮遊感覚を味わうことになる。この状態が長時間続くと人はあらゆる記憶を失うのだという。脳は常に各器官からのフィードバックによってのみ自己認知を行っている。身体を失った脳は、もはや脳ではない。あらゆる知識や記憶は、身体各器官への刺激をインデクスとしている。手を失ったからといって手に紐付けられていた記憶の全てが失われるという意味ではない。当初は手が失われたという事実を脳は容認せず、幻肢痛のような症状をもたらすことがある。これは、失うにあたり痛みを伴っていた場合に発生するものであるから、タンクによる身体喪失は痛みを伴わないことはここに明記しておこう。さて、脳は手に紐づけていた知識や記憶を別の部位に引越しさせることができる。または、知識は記憶の位置はそのままにして、配属先を手から、右足や、頬などに取り替えることもできる。だが、タンク内においては四肢や皮膚感覚は一切失われてしまう。


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 ところで、このような状況下でも、脳はまだ臓器を失ったわけではない。あらゆる記憶や知識を、胃や肝臓や腸などへ割り当てることは可能だろうか? これら臓器は自律神経下におかれ、例えば脳は「空腹」であったり「腹痛」といった感覚だけを自覚する。細かな調整については、記憶や知識とは別の部分が受け持っており、指先や乳首といったように細かく認識することは困難だ。それに、たとえばそのような感覚をトリガーとした場合、空腹になるたびに、院長の性癖に関する他言無用なレポートを頭から反芻してしまったり、胸焼けしたとたんに、ボスの予言が実現した経緯に関する疑念と調査報告にこの病院の派閥闘争がどのように絡んでいたのかなどといったゴシップを思い起こさねばならなくなってしまうのだ…… ん? これは、誰の思念だ?

 だがそれが有用である場合もあって、たとえば、脳移植は困難だが、胃形成術であったり、腸の移植であったりはひじょうに簡便であるということ。肺でも心臓でも、ともかく脳以外の部品であればわりと融通が利くという点から、記憶を物理的に移動させたい場合の、仮置場として、臓物は利用できるのである。タンクに入る前に、適度に空腹をおさえ、あらゆるホルモンバランスを整えておきながら、ただ一箇所に「痛み」や「動き」を認識させれば、脳は慌てふためいて、その臓器へあらゆる知識と記憶を移し変えようとするだろう。ナノマシンなどを投入しなくても、タンクに入る前にちょっと痛んだ牛乳を飲ませるとか。タンク内で粗相してしまうと、それが肺に入って大事になる可能性もあるので、その匙加減は難しいので、やはり適当な薬剤か、寄生虫かという選択になるのだろうが、ともかく、脳が認識できる臓物を指定してから、タンクにぶちこんでやれば事足りる。あとは、外科手術によって目当ての臓器を取り出して、移植すれば済む。


だから、これは、誰の悪巧みなんだ? って


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 「ヨウヤク繋ガルコトガデキタヨウダネ」

 頭蓋骨内に声が響いた。抑揚のない金属的な響き。今時分、フリーのテキスト読み上げソフトだってもっとマシな出力をするってものだ。まさに、漢字交じりのカタカナがぴったりなのだが、読み下しが面倒くさいので以降は通常の表記にもどしてあ・げ・る♡

 一体これはどこからの出力なのだろうか? と考える程度に僕は冷静であり、リアリストであり、プラクティカルであった。

 先ほどから説明しているように、イルカちゃんは子宮内回帰セラピーセオリーを基礎としており、感覚できるのは肌に感じる定期的な振動のみである。この振動は母の血流と心臓の鼓動を模したものだと説明され、まさに胎内へ回帰し、産まれ直すというプロセスを追体験する施設なのであった。溯れば、修験道の男たちは、女体に見立てた山をたどり、窪みを撫でまわし、岩をまさぐり、洞穴へ身体をねじこんで、再生するという変態行為にいそしんでいたわけだが、それを科学的に洗練させたものが、ンドリルホスピタル謹製イルカチャンシステムに他ならないのである。


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 「産まれ直すことの意味を君は知らない」

 またしても言葉が割り込む。だがこれはこれは音としての割り込みではない。僕は誰何したい。だがタンク内では発声は不可能だ。そもそもタンク内部には空気がない。呼吸もない。したがって、空気の流れを声帯でバイブレートする発生方法で、音を発することなど不可能なのだ。全身で感じる律動。ゴボゴボゴボ…… だがそれも、不可能なのだ。気管も腸管もおおおよそ穴という穴には高粘度の液体が浸潤しており、身体内外の圧力差は0である。これはつまり、僕という存在は水中に沈めたコンドームのようなものだということなのだ。何をいっているのだ。そのために人には筋肉があるのではないのか? 身体を収縮させれば内部の液体を外部に排出することはできるはずだろう。さあ、腹をへこませろ。両手の人差し指で両方の頬をプッと押してみろ小首をかしげて。

「無駄だ。このタンクの寸法を思い出せ」

 タンクは標準的セミダブルベッドの幅があり、長さは僕が精いっぱいのびをしても手足が装置に触れないていどに大きい。基本的に内部では横になっているため、高さ方向はさほど大きくはないが、日サロの紫外線ベッドよりはよほどゆったりしている。三等の寝台車程度だろうか。乗ったことはないが。


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 「思い切り手を振り回してみるがいい」

 みるがいい? ときたもんだ。相変わらずどうやって声、というは意味を届けているのかしらないが、どうにも回りくどい。こいつは、自分が何かを知っていて、僕は何にもしらないと思っている。僕はそんな風に人に思われることに慣れていた。そう思われているほうが楽だと考えて生きてきた。だが本当は、みんなにそう思われているということは、この世界にとって僕はそういうようは人間としてしか存在していないのだってことに先日気づいた。だから、この会社の疑惑を暴いてやって、僕がみんながおもっているような何もしらない、つまらない、何の値打ちも取柄もない、人畜無害でただ腹立たしいだけの、にやけづらの、利用されることしかできないくせに、利用価値が皆無だという、どうして生まれてきてしまったのかしら? という認識からの卒業を企てていたわけだ。

「天上天下唯我独尊」

 僕は念じて右手を、人差し指をたてて蓋にむかって、左手を人差し指をたてて底に、思い切り伸ばしてみた。いや実際には躊躇した。背泳をしていてもうすぐゴールというところで、回転している手を思い切りプールの壁にぶつけてしまった時の痛さを思って、つい手加減してしまうのと同じだ。おずおずと、手を伸ばしてみた。

 両手の指先は、どこにも触れなかった。


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ここは、どこだ? おまえは、誰だ? 何を、知っているんだ? 敵か? 味方か?

そんなことを思った。思ったとたんに、もうこの思いはデジタルデータとなって複数の箇所に記録されてしまう。質問は質問のまま質問としては取り扱われず、思想信条を占める指標として記録されるのだ。だ・け・ど。このダイアログはどうだ? 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも…… 

「お兄さまぁあああああぁああああああぁああああああ」

それは明確な振動として、もはや肉体を失った神経組織そのものへダイレクトに伝わってきた。しょんぺんちびりそうな歓喜の犬コロの舌ベラ。涎。「女?」と僕は相当のタイムラグの後に疑問を感じていたことに気が付く羽目になった。神経組織は特殊な液体でふやけて、イルカチャンタンク内にびっしりと蔓延っているじゃあないか。カタカナしゃべりの男と、生臭い息を、失われた肉体の中心部にそそり立つ蜃気楼にまつわりつかせている顔のない女と。やいやい定員オーバーもいい加減にしろってんだ。だいたい、中途から相乗りたぁ、どういう料簡だ、このべらんめぇ。


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 「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」

別にダメだなんていってないが、とっておきの琥珀色の液体を、注ぐそばから飲み干されるんじゃたまらないね。

「顔なんて不要だわ。顔があるから所有欲が産まれるんだし。すべては相対的なんだから貌なんて結局は差異にすぎないんだし、あらゆるテキストは交換可能なはずよ」

 またそういう極論をいう。宇宙著作権長老会がだまってないよ。理研じゃなかった利権がすべてなんだからさ、科学の世界だってえげつない徒競走主義なんだろ?

「結果だけが問われるのだ。先生はすっかり老いてしまわれた。老いて頑なになられてしまった。若いエキスをいれなければ。若い芽を接ぎ木しなければ。精神は枯死してしまうだろう」

 先生って誰だ? 背中に黒い星がある羊をジンギスカン鍋でくっちまた国粋主義の大物の話か?

「お兄さまぁああああああああああぁああああああああ」

 タンクは肉体を溶かしてクローン再生する。24歳の男をつくるのに24年かけて、新たな記憶(会社にとって有益な教育)を施して。膨大な時間が流れているのである。

指折り数えて二十四年。ひぃ、ふぅ、みぃ、こぅーっと72年が流れてるって寸法かい? こりゃ爺と孫の関係性だね。

「甥と祖父といった人もいましたが」

 うっすいな、それ。そこは"You're my son."っていうから、カタストロフが起こるんだろ? お前は私のいとこだ。じゃ、しまらないよ。

「お兄さまぁああああああああああぁあああああああああああああああああ」


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 ああ、うるさい。タンクのなかがこんなにうるさかったことなんてこれまでに一度もなかった。うるさいのはタンクの中なんかじゃなかった。てかタンクの中に脳漿をおぶちまけにならしゃっていらっしゃるアルビヤアヤノがむしろタンクそのものになっているのであるいじょう、この騒々しさの要素は全てアルビヤアヤノの脳に起因していることは明白だ。これまでに一度もこんなてんやわんやになったことがなかったのだとしたら、それはタンクが変わったんじゃない。君が、君であるところの私が、私たちであったところに起因しているのに相違ない。「Teamアルビヤ」というわけだ。

 よしてくれ。私はチームプレイから外されて社史編纂室へ飛ばされた一介の平社員にすぎない。

「いえ、あなたは私のお兄様です。お兄様は決して他の方の思惑にしてやられるようなお兄様ではありませんでした」

 それは、まあ……

「やっとこうして巡り合うことができて、夏个は幸せでございます」

そうか。そうだな。この年になるまで妹がいたなんて知らなかったからな。ところで両親は達者でやってるかい?

「?」

「?」じゃないよ。 一心同欠けている体だからって意思の疎通の手を抜いてたら理解なんて夢物語になってしまうじゃないか。


彼女ニハ欠落ガアルノダ


 人間、欠けている部分があってこその個性じゃないのかね? 欠けているところをあえて埋めようなんてばかなことを考えるものじゃないと私は考えているんだがね。


欠如ヲ埋メラレルモノハ空想ダケダ。


 夢見がちな少女ってわけだ。「お兄さまぁぁあああああああああああああああああああああああああ」って近くにいる男みんなに言っているんだろ、どうせ。

だれだって、タンクの中では一人きりだ。



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 タンクが開いた。耳鳴りが止まない。冷徹なテクニシャンが全裸で横たわる僕の身体をクンクンと嗅いでいる。

人体のステータスをチェックするのにもっとも総合的かつ合理的な器官は「鼻」であるという。つまり、匂いだ。健康状態も精神状態も、人はその状況におうじて体内にさまざまなカクテルを生成している。眼も耳もしょせんは不完全であり、対症療法的診断しかもたらさない。東洋医学において重要なのは、身体を部分の結合とみなすのではなく、その全体性の調整である。眼や耳といった部分的な観測を継接ぎして全体を捉えようとしてもうまくいかないのは明らかだ。外からおそるおそる手を差し入れるような態度で、人間の診断をつけようというのが覚悟不足なのである。時々刻々と変化する肉体と精神。その変化を引き起こすのは体内成分の配合にほかならないわけだ。


私はテクニシャンの冷たく尖った鼻先の軌跡を全身に彫り込まれているような気分だった。むず痒いような、切り刻まれるような、貪られるような、羞恥。そういった気分もおそらくテクニシャンは観測しているのに違いなかった。あらゆる凹凸をなぞり、穴深くにまで差し込まれるテクニシャンの鼻。念入りに、非常に念入りに、私は嗅ぎ取られていた。まるで、別の犬の縄張りへ入り込んでしまった犬があらゆるところに鼻先を突っ込むかのように。(20170528)


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犬は匂いを嗅ぎながら唾液を垂れ流す。私の全裸はまだ溶液のヌルヌルに塗れている。テクニシャンの鼻先にはベロがついている。もう唾液だか鼻水だかエタノールだか重曹だか分らない。脇や鼻の穴はおろか、穴という穴、襞という襞の隅々にまで、冷たい鼻先と柔らかなベロが這い回っている。私がこのイルカチャンに入るのは三回目で、二回目がいつだったのかもはや曖昧ではあったが、こんなむずがゆいような、叫びだしたくなるような、それでいて声をだしたらいらぬことを叫んでしまうのではないかという恐怖がなぜだか笑いにかわって、咽喉チンコを爆発させてしまいそうになっていることが恐ろしくてたまらなくなって、体の一部が次第にこわばってくるような手順を踏んだという記憶は完全に喪失していた。テクニシャンが増えた。二人になっている。増えた独りの髪が、瞼の隙間から眼球をこすりつけるので涙が出てくる。体がこわばってくる。ふいに、口の中に含みっぱなしだった溶液の舌触りがザラリとしてきた。ザラリとするなと思ったとたん、口の中一杯にザラリが膨れ上がって咽喉チンコを真ん中にして胃と肺の両方へとザラザラとなだれ込んでいく感触がする。体中を這い回っていたはずのテクニシャンの鼻先と下先が遠くなった。瞼を抉じ開けようとしていた長い髪が全身に巻きついてきているような気がする。「罠だ!」私はそう叫ぼうとした。だがその叫びはひび割れた唇とこびりついた鼻くその隙間をかすかにプーッと鳴らすにとどまった。もう、体は動かず、やけつくように熱くなった。砂風呂に埋まっているような感触だろうか? いやそんな湿度は微塵も感じられなかった。唾液も鼻水も溶液もみな干上がって、ただザラザラとした熱だけが体の内と外とで押し合っていた。塩釜の魚はこんな感覚だったのかもしれないと思う。だが私は塩釜の料理をちゃんと見たことが無かったので、その想像は、鯛の形に整形された砂糖にしかならなかった。すっかり塩の塊になってしまった私は、結局、あの沙漠の塔から落下して、熱い赤い砂の深く深くに埋もれたまま、ミイラになっていくのだったと気が付いた。勤怠管理部も、福利厚生部も、みな落下する間の走馬灯であった。私は砂の塊になった。


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 希代の芸術家 釜名見煙 は、最近彫刻を発表する、釜名見ナンバーズと呼ばれる一連の彫刻は、木彫から粘土、スクラップから水晶といった素材を組み合わせ、これ以上は不可能と思われるほどのディテールを持ちながら全体の形態としては実に単純なアルファベットを模している。

 釜名見煙は現代芸術家であったが、コンセプチュアルアートという未熟者のエクスキューズとしか思えない「コンセプト」なるものを、作品の事前にも、事後にも語ることなどしない。作品が語ることが全てだ。いやむしろ作品が語らなことこそが全てだ。そんなことはない。作品そのものが作品の外に成立するのだ。などという言説が常に釜名見作品の周辺には渦を巻いているのだが、それらの、当て外れな、独りよがりな、知ったかぶりな、勘違い野郎な理屈を一蹴して現れたのが、釜名見煙研究の第一人者にして、現代美術雑誌「几螺果巳(きらかみ)」の編集者であり、実はタイラカナル商事精神課臨床心理士でもあるという平喇香鳴女史なのであった。

 砂と化した私の脳裏に、こうした情報が送り届けられてきた。ここは暗く、そしてまぶしいところだ。身体の表面は焼けていて熱く、しかも震えがとまらない。声が聞こえている。つまらないような、値踏みをするような、争うような、心底うんざりしているような女性の声。それが平喇香鳴の声であることを、私は認識の向こう側で確信していた。そしてこの確信している器官が、この砂の身体に生命を吹き込んでいるのだと思った。この思っている場所こそが、砂の鋳型の外側なのだと思っていた。

「沙漠の話をしよう」

と男の声がした。だが、私は、言下に断った。


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「沙漠は夢を見すぎる」

男の声が続いた。私は耳を塞いでしまいたかった。だが塞ぐための手がどこにあるのか分からなくなっていた。真っ暗でありながら眩しかった。チカチカとした閃光が絶え間なく私の皮膚を削っていった。削られるたびにそこが自分の皮膚だったのだと気が付いた。そうしてその痛みの輪郭の内部にこそ私の領分があるのだと思っていた。だが、輪郭のどちらが内側でどちらが外側なのかは、判断できなかった。

「空想は過去と希望とのミックスだが、希望とは結局は過去からの演繹にすぎない。先生が発見した『純粋空想』とはまさしく「過去」の呪縛を逃れた『純粋希望』に他ならなかった」

「それはエゴだわ」

 平喇香鳴の声が割り込んだ。鼓膜がビリビリとした。それはとても小さくて丸いセミの翅のように感じられた。香鳴の声は金属的で尖っていて、鼓膜を突き刺してくる。と、同時にどこか鼻にかかった嬌声のような響きをも含んでいた。こんなダブルバインドな声でカウンセリングをするのでは、クライアントはますます自閉するに違いないと思った。現に、私はこんなに自閉しているではないかと気が付いた。そして、私自身ンリドルホスピタルのやけに時代がかったクレゾールの匂いのしみついた診察室での一幕を、いまさらながら思い出していた。私は香鳴に誘惑され、二人で使うには窮屈すぎるカウチの上でコトに及んだ。とたんに、私は勃起していた。ペニスの感覚はやけに遠くにあった。沙漠の砂の底に溺れつつあるらしい私のペニスが屹立している場所は、どう考えてもタイラカナル総合図案株式会社の中庭でなければ、この距離感覚の辻褄が合わないのであった。それはつまり、勤怠管理部と福利厚生部とを斜めに結んだ重心点に位置しており、どうやらそこそが、ンリドルホスピタルの脳外科ICUと、目下絶賛埋葬中の私がいるここ、「イフガメ沙漠」との対称軸座標に近似していたようである。

「ふふん。手をつかうまでもなかったわ」

「純粋な不純空想のなせるわざだろう」

「ただの淫夢よ。夢精されるまえにコンドームを嵌めとかないと」

「中庭のナンバー19に受精させてみるって手もあるぜ」

「やめてよ。作品としてなら管理できるけど、人身そのものの作品化にはまだまだ越えなければならないハードルが山積みなんだから」

 ならば、生きながら勤怠管理部のメインコンソールへメタモルフォーゼさせられた地媚真巳瑠のことは、どうだというのだ!

 思わず私は叫んでいた。だが残念なことに、呼吸と生体と舌と口蓋との位置関係がどうにも曖昧だったため、私が発したかった音素を構成することはできていなかったようだった。私はペニスだけでなく全身をきついゴムで覆われていった。これがコンドームの感触だとしたら、第一に、こんな締め付けがきついものを装着していたら、立っているものもしぼんでしまうだろうということと、第二に、私の全体が今一本のペニスにメタモルフォーゼしている可能性も0ではないということになるのだった。35年も生きてきて、砂のなかで一本のペニスになってしまう人生というものを、どう判断すべきだろう? サイズのあわないズボンをはくために平喇香鳴を死姦して射精した夜の物語が亀頭をよぎった。あれは、事実だったのか、願望にすぎなかったのか、それとも私以外の誰かの体験だったのか… 確かなことは、今灼熱の閉そく感の渦中にいるのは、間違いなく私自身だということだけだった。

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