第72話 女医

 精神科へ向かう途上、ボスは軽いデジャビュにも似た感覚に足元を覚束なくした。ンリドルホスピタルは歴史ある病院だった。しかし歴史があるということは、さまざまな時代に応じて姿を変えてきていたということでもある。精神科にたどり着くまでに曲がったり、通り過ぎたりした角、上ったり下ったりした階段、乗り継いだり、見送ったりしたエレベーター、すっかり薄暗くなった中空歩廊のそこかしかで、それぞれの時代と、才覚と、経済との軋轢が危うい均衡を保っていて、そんな区域を幾度も行過ぎるたびに、ボスにはこの建物が、凪暴走後のタイラカナル商事そのもののように感じられるのであった。

 広大な敷地に増築に継ぐ増築を繰り返して現前する巨大病院。先端技術と利権とが錯綜するアナログとデジタルの曼荼羅。無論そこでやりとりされるのは、患者の人生であると同時にスタッフ自身の人生でもある。ボスは歩く速度を緩めるでもなく、急ぐでもなく、一定の間隔で時空を遡っている。 

 精神科は、ンリドル開設当初から存在していた。過去から見れば現在こそが可能な未来の果てだった。そして、その未来の事件を解く鍵が、古代の壁画や遺跡にあるのだという着想を得て、ボスは喉を鳴らした。

「馬鹿げている。あまりにも馬鹿げている」

 『ある犯罪の動機が、二十年、三十年前に起因するとしたら、それは血が引き起こしたものに他ならない。女でも金でもない。むしろ、名誉のための犯罪なのだ』

 ボスは推理小説作家が自作を語ったインタビューの一説を思い出し、舌打ちをしてつぶやいた。

「あの作家はもう一つの可能性を忘れているんだ。狂っている場合を」

 通路を仕切る引き戸を一枚、さらにもう一枚。ンリドル最古の遺跡、精神科がボスの前に現れた。


「氷医師から連絡を受けています。自称釜名見煙症候群の調査をなさりたいのでしょう?」

 ほの暗い通路の脇で待ち構えていた女医が、ボスの前に滑りでてきた。ボスは眉を上げて女医を一瞥し、

「これは、いつも聞いていることなので、気にしないでほしいのだが、」

と前置きをしてから女医に言った。

「君は、医師かね。それとも患者かね?」

 女医は三角の眼鏡が大きく上下するほど眼を見開いて、それからホホホと笑って答えた。

「一般的には、わたしは狂う前の人間ですわ。あなたと同じほどには」

 この答えにボスはうなずいた。

「氷先生にはお手数をかけました。しかしお陰で話が早い。早速ですがまず、行動療法の成果を見せていただけますか?」

「もちろん。三人の巨匠も、お待ちかねですわ」

「ふむ。そっちはもうしばらくお待ちいただこう。何しろ筋金入りなのだと聞いているものでね。準備をしていかないと、巻き込まれてしまわないとも限らない」

 ボスの言葉に女医は再びホホホと笑った。

「ずいぶんと臆病ですこと。巻き込まれないようにったって、それは土台無理ですわ。あの人たちが生きている世界にわたしたちも生きているんですもの。でも、いいでしょう。相応の覚悟は必要なことに違いはありませんから。とくに、あの人たちから何かを得ようという場合には」

「ご助力、お願いできますか?」

 ボスは女医を強く見つめた。

「そのために,わたしはここにいるんですの」

 女医はあっさりとそう言って、ボスの前を歩き始めた。

 そこは陽の当たらない東北の角の部屋だった。静かに堆積する埃が平面という平面で渦を巻いている。

「掃除をしないわけでは無いんです。ここはいろいろな埃が集まってくる。いわば吹き溜まりね」

 女はボスが室内を見渡しているのを背中で感じたのか、言い訳めいたことを口にした。

「そりゃ、何かの比喩でしょうか?」

 ボスは女のまっすぐだが花車な白衣の背中を見て尋ねた。すると白衣の肩が上下した。

「まさか。精神科医ほど言葉を厳密に取り扱う医師はいないわ。比喩なんて危険なもの、使う習慣は無いのよ」

「奇遇ですね。私もそう自戒している部類の人間ですよ」

「新聞屋さんが?」

 女医はカーテンを引きちぎるように開きながら、あっさりと言った。積もっていた埃が舞い上がり、窓からさす残光が女医の背後で煌いていた。ボスはその様子を黙ってみている。

「さて、箱庭の現物は倉庫にしまってあるの。写真でよければそこの棚に入ってる。あとは、そうね、絵画療法、作文、粘土なんかも写真ね。学術的価値があるものはしまっておくけど、基本的にクランケの合意がないと外には出せないものばかり。だからあなたも撮影は遠慮してください」

「もちろん。プライバシーに関しては、厳しいところで勝負している人種ですからね。私たちは」

 女医は軽くうなずいて、窓際のいすに腰を下ろすと、胸ポケットからいやに長細い煙草を取り出した。

「一本おつけになる?」

 ボスはそこここにあるショーケースに眼を奪われていたが、「煙草」と聞いて顔をほころばせた。

「いや、ありがたい。自分のを切らしておりまして」

 といいながらつかつかと女医に近づき、差し出された煙草をつまみくわえかけた。しかし、口元まで運んだところで、ふいにその銀色の煙草そのものに関心がうつり、しげしげとその煙草を眺め始めた。

「何か?」

 ライターをカチカチと鳴らしながら、女医が怪訝そうに尋ねた。

「珍しい煙草ですね、これは」

「そう? 私はいつもこれだから」

 女医はそういってゆっくりと煙草を吸った。銀色を帯びた煙が天井付近の闇にまぎれて行った。ボスは思いついたようにポケットをまさぐり始めた。

「いや、メンソールもあるんですね。最近は煙草の銘柄が増えて、私のように煙が出れば何でもいいという主義だとかえって、眼が迷ってこまります。かといって、一つの銘柄に決めるというのも、それはそれで不安なもので。つまり、出張が多かったり、仕事が不規則ですとね、あまり特殊な煙草だと手に入らないのじゃないかとね。いったんそう考え始めるともう、いけない。仕事どころじゃあなくなる」

 女医は口元だけで笑顔をつくって、煙草をくゆらしている。一日の勤務からくる疲労が、女医にまつわりついていて、それを払う気力すらないという風情が、官能を醸し出していた。そんな女医を見下ろしながら、ボスはようやく探し当てた一本の煙草を女医の目の前に突き出した。

「これこれ。この煙草も最近いただいたものでね。なかなか美味い。お礼に一本お分けしましょうか?」

 女医は少し身を乗り出したが、またすぐに背もたれに身体をうずめた。

「けっこうです。それは私には少し強すぎるの。同じ種類のものね。私のはメンソールのロング。そっちはノーマル」

「どこで売ってるんです。こういう高級な煙草ってのは」

 女医は二本目に火をつける。

「さあ。知り合いに頼んでいるから、詳しくは知らないわ。自分で買えるものだと本数が増えるし、毎月決まった数だけ注文してるのよ」

「特注なんでしょうね。きっと」

「さあ。ただちょっと高いのは確かね。でもこの仕事、これくらいの気晴らしがないとやってられないわ」

「なるほど。扱う問題も悩みも、私たちとは雲泥の差というわけですよ。いや、失敬。私もご相伴」

 ボスはソファーの前においていあるテーブルについて、卓上で渦を巻いている埃を気にせずにひじを突くと、持っていたライターで火をつけた。

「それで、箱庭の写真は? その後ろの棚ですが」

 女医は三本目に手をつけて、つまらなそうに元に戻した。ボスは眠ったように煙草をくゆらしていたが、女医に急かされて大きく息をついた。

「氷先生と話した内容について、あなたは聞きましたか?」

「いえ。ただ、あなたが自称釜名見煙症候群の箱庭を見たいと言ってるから案内してあげてほしいというだけだわ」

「それで、どう思いました? というのは、脳外科と精神科っていうのは、そもそもあまり折り合いがいいものじゃないのではないかと、邪推するわけですよ。個人的なことはともかく、方向性としてね」

 女医はボスの質問に薄笑いを浮かべて、それから思い切ったように三本目に火をつけた。

「アプローチに違いはありますが、結局は同じ目的を持った同士ですわ。氷先生は脳外科の中でも最右翼ですし、私は精神科の中でも折り紙付きの石頭ですけど、相手の方法論や研究には興味を持っています。脳と精神の問題は、いまだに二分法が有効だわ。もちろん、方法としては」

 ボスは女医にもらった煙草を根元まで吸い切り、吸殻をポケットに落とし込んだ。

「なるほど。するとあなたも一元論者なんですね」

「違うわ。私が一元論なんじゃなく、人間が一元論なんですもの。今は多方面に分化していてもいきつくところは同じ海だと思っていますの」

「同じ庭、かもしれませんよ」

 ボスはなぞめいたことをもごもごと言って、やおら立ち上がった。

「さて、それでは見せていただくことにしましょう。釜名見煙の歴史とやらを」

 女医は足を組みなおし、どうぞ、とでも言うように手を振った。

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