第71話 氷見佐治

 夕食の時刻になろうかというのに、ンリドルホスピタルの待合室は人で溢れかえっていた。人々は一様に神妙で暗い面持ちだった。

 老医師との会見を終え広報部に指示を下した後、ボスは通信を一切断っていた。ぶらぶらとそこいらじゅうを歩き回り、レントゲン課であやうく被爆しそうになったり、眼科の手術にいつのまにか立ち合って、いったんえぐりだされた眼球が再び頭蓋骨の所定の位置に戻されるのに感嘆したり、摘出された声帯をアルコール漬けにする手伝いをしていたり。医療の現場はいつも忙しげで、常に人手を求めていた。だが、ボスの、状況に溶け込む才能がいくら並外れているからといって、行く先々で思いどおりの事に手を出し、相当の時間を医療スタッフとしての扱いを受けることが出来たのは、異常な事態だった。

 病院には必ず派閥抗争が存在していたし、敵を知るという意味において、病院内人事はガラス張りなので、見たことの無い人間が聖域を侵して好き勝手をするのを許すはずが無いのである。医師も看護婦も、目先の忙しさに身も心も没頭させることで、何かから目を逸らそうとしていた。ボスにはその理由が分かっていた。つまり、院長と泌尿器化医師の死がもたらした休戦状態なのである。

 ンリドルホスピタルは区域で唯一の総合病院であり、さまざまな利権が絡み合う場所だった。時としてそれは、一総合病院内部にとどまらない巨大な利権を実らせていた。医は仁術だとかつての医師は書き残したが、現代において、仁術もまた算術に屈するのである。ましてや、命と健康とを自在に操る技術を持った組織である。命あっての物種と、背に腹は替えられない金と欲望が、黒い霧のように吸い込まれ、そこにいる連中を内部から真っ黒に染めていくのだ。

 院長の訃報はこの午後に伝えられていた。臨時の理事会が召集され、スタッフ達は後任人事の決定をおののきながら待ちわびているのである。だが、ボスにとってはそれは瑣末な問題であった。タイラカナル商事に起こっていた一連の異常事態の決定的な命運を分かつほどの要素ではないという意味で。ボスはたそがれの光りの中、空しくこだまする相撲の実況に、この時、只今が集約されていると思った。関取は己の勝負に、病人は自身の病気に、医師は後任人事に、まったくそれぞれがそれぞれの事情だけで精一杯で、互いの事情が絡み合ったときに何が起こるのかについて失念していた。ほおって置いても日は沈むだろう。行司は勝ち名乗りを上げるだろう。勝負は必ずつけられ、後には遺恨かもしくはデータだけが残る。だが本当は、何も残ったことにはならないのではないだろうか。勝負? ボスはナースステーションのガラスをコツコツとたたきながら、ふと呟いた。

 「一体俺は、何を暴こうとしているのだろう?」

 だがこの自問の答えを掴む前に、ナースステーションの窓口に若い看護婦が姿を現した。

「こんばんは。どうなさいましたか?」

 ボスは透き通るような看護婦の少し傾いたナースキャップを見つめながら、今朝運ばれてきたはずの白い男の入院先について、尋ねた。

「同じ会社の者なのですが、怪我をしたと聞いたものですから」

 看護婦は、傍らの端末を操作し、それから首を傾げた。

「或日野文之さんで間違いないですか?」

 ボスは看護婦の質問に少し考え、それからにっこりと笑った。

「こりゃ、勘違いしてたみたいですね。実は先ほど死体と一緒に運ばれてきた女性に会いにきたんです。或日野クンは、別の病院だった。見舞のかけもちっていうのは、どうも慣れてなくてね」

 看護婦はけげんそうな顔をしたがすぐに、瑞名の居場所を押しえてくれた。

「その方なら、まだ検査中ですね。脳外科にいらしゃいます」

「脳外科? なんだか深刻そうだな。会えますか?」

「はい。面会は禁じられていません。突き当たりを右に曲がったところにあるエレベータで三階へどうぞ」

「ありがとう」

 ボスは礼を言ってからも、しばらくじっと看護婦を見つめていた。

「まだ何か?」

 看護婦はボスにそう問いかけた。ボスはその声に「ああ」と生返事をして、それから照れたように笑った。

「ちょっと考え事を。なんだか、奇妙な1日なのでね。そうだ。ついでに院長先生に挨拶していこうかな。いや、院長とは句会でよくお会いするんですよ。今日は、いらしていますか?」

 看護婦は「院長」という言葉を聞いて、顔をこわばらせた。

「本日は所用で外出しておりまして…」

 口篭りながらそういう看護婦にボスは何でも無いことのように

「そうか。忙しい人だからなぁ。じゃ、三階に行ってくるとするかな。ありがとう」

 看護婦はほっとしたように笑顔になって頭を下げた。


 脳外科は剥き出しの無機質さだった。

「タイラカナル商事から搬送されてきた女性に会いたいんだが」

 ボスは通りがかりの看護婦を捕まえて尋ねた。看護婦はひどくかさばるアルミの板を抱えていて、迷惑そうだったが、ボスは彼女に負けないくらい不機嫌な顔をしてみせた。

「その方なら寝台の32号です。ひどく衰弱していらっしゃいますから、会われてもお話はできませんよ」

「そうか。では、その女性の担当医師に会わなければならないね」

 ボスは仏頂面のまま、彼女が小脇に抱えているアルミ板を幾度も持ちなおす所作を完全に無視して、続けた。

「担当は、氷見佐治先生です。今どこにいるのかは分かりません。受け付けで尋ねてもらえますか?」

「俺はその受付に言われてここに来たんだよ。また、下に戻れってのかね」

 ボスは傲慢に言い放ち、看護婦を睨み付けた。

「分かりました。こちらです」

 看護婦は今歩いてきた道を戻って、ボスを脳外科受付へと案内した。その途中ボスはふと気づいたかのように、看護婦に話し掛けた。

「院長はやはり他殺だったわけかね?」

 看護婦の足が乱れ今まで持ちこたえていたアルミ板を取り落とした。バァンという大きな音が廊下にこだました。

「静かにしないか。脳波が乱れる」

 すぐ脇の扉が開いて、若い男の医師が顔を覗かせた。

「申し訳ありません」

 と看護婦は気の毒なほどうろたえて、アルミ板とそこからはみ出したフィルムのようなものを拾い集めた。そして、あっと声を上げて、今しがた彼女を叱責した医師に言った。

「氷先生。お客様です」

「客? アポはあるのか?」

「いえ、ただ先ほどの女性の担当医に会いたいとおっしゃるので」

「俺は今忙しいんだよ。全くわけのわからない脳ミソを立て続けに調べなきゃならないんだから。だいたい人手不足なんだ、脳外科は。いちいちそんなどこの馬の骨かもわからない客を相手にしてる暇はないんだよ」

「分かりますよ先生。私もおなじことですから」

 と、ここでボスが会話に割り込んだ。

「誰ですか、あなたは」

 ボスはさきほどまでとはうって変わった柔和な顔で、いかにも相手の立場はよく分かっているのですよ、という同情の念を精一杯浮かべた。

「今日はおかしな一日でしてね。ずいぶんたくさんの死体やらけが人やら、行方不明者やらが、極めて狭い範囲で集中して発生しておりまして、そのこんがらがった状況について、先生のご担当なさった女性がですね、関与しているわけなんです。それで、ご意見を伺おうと、失礼を承知でこうしてお伺いした次第なのでしてね。いや、彼女を責めないでやっていただきたい。私が無理を言って先生に会わせてもらいとお願いしたわけですから」

 すっかり恐縮して立ち尽くしていた看護婦はボスの変わり身の速さに適当な反応ができないで、ただポカンとしていた。

「さあさ、気になさらずお仕事にお戻りください。看護婦さんの過労死も増えているそうですから、くれぐれも根をつめずに。なぁに、人間、死ぬときは死ぬもんです」

「そういう不謹慎な気持ちでは、看護師は勤まりません」

 ボスの言葉に、彼女はきつい顔でそう答えると、一礼してその場を去った。ボスは後ろ姿をにやにやとしながら見送り、それから、氷にむかって、言った。

「看護婦の鏡ですなぁ。ここの脳外科の優秀さは彼女のようなスタッフの支えあってこそなんでしょうね」

「言われたことの半分も理解しない雑用にすぎませんよ、あんなものは。で、何ですか。私は仕事を抱えているので、手短にお願いしたいんだが」

 氷は銀色の小さな眼鏡をはずして、目頭を押さえた。

「まず、先ほどここに運ばれてきた女性について、聞かせていただきたい。これは、今後の先生お仕事にも関係のあることですから、出来ればどこか落ち着ける場所で伺いたいのです」

「そんな時間は無い」

「いえ。ありますよ。この話をきちんと済まさないと、ここにあと数千単位の狂った脳みそが運び込まれることになるんですから。ここで、2、30分を無駄にしたからといって、損はさせないと思いますけれどもね」

 氷は始めてボスをまっすぐに見つめた。

「あなた、何者です?」

「通りがかりの旅の者にすぎません。行きがかり上ここにいるだけの者ですよ。しかし、目下私以上にこの状況の説明ができる人間は、あと一人しかいないといえるかもしれない。いや、それならばまだ救いはあるが、あなたの知識と示唆が必要なのですよ」

「話の意味がよく分からないが」

「ですから、落ち着いて説明をさせていただきたいというのです。今日ここで解析した脳と、まだここに運び込まれていない脳について」

 氷はうなずいて、「失礼」と部屋へ取って帰し、インターホンで「しばらく留守にする。緊急の場合以外の呼び出しはしないように」と告げた。

「では、あちらへ」

 二人は寝台32号に入り、扉を閉めた。ベッドには昏睡する瑞名がいた。その頭はきれいに剃られ無数の吸盤とそれにつながるコードが、ベッドサイドの端末に接続されていた。部屋は暗く、さまざまなレベルを示すモニターの明かりだけが明滅している。

「こりゃ、面会できる状態じゃないでしょう。ひどい事態になっているようですが」

 ボスは変わり果てた彼女を見下ろして言った。

「何からお話しますか? それとも最初に貴方のほうからご説明いただけるのかな?」

 氷はボスの感想を無視して椅子に座わり、給湯器からお茶を注いだ。

「事態は切迫している」

 ボスは自ら説明を始めた。

「私は行きがかり上、純粋な興味から今回の問題に首をつっこんだだけの、いわば通りすがりに過ぎない。だが、今では私以上に適任の通りすがりはいなかったのではないかと思っている。そして、先生もまた、不可欠な一片としてここにおいでになるのだという事を、私は知っている」

「漠然としすぎていて分からないな。そんな話しか出来ないのなら失礼させてもらうよ」

 氷は瑞名の頭をぺちぺちとはたきながら、立ち上がろうとした。だが、ボスはかまわずに話しを続ける。

「ンリドルホスピタルの権力闘争について、私は何の興味も抱いてはいない。しかし、この病院もまた今回の事件のもう一つの中心であるということは、間違いが無い。そして、このまま放置すればタイラカナル商事とンリドルホスピタルとを中心とした広い範囲にその影響が及ぶことになるだろう。その結果、氷先生の残りの生涯は、数千の狂った脳髄に埋もれて費えることにになる」

 氷は歯ぎしりをして、再び椅子に腰をおろした。手は相変わらず瑞名の頭を撫でている。

「そこが分からないな。私は病院の人事なぞとは無縁だし、あなたのいう事件というものに関与してもいない。被害者が数千という単位に及ぶというのなら、通りすがりのあなた一人が何とかできる問題ではないだろう」

「先生は脳髄が物を思う中枢だと、信じていますか?」

 ボスは唐突にそう訪ねた。

「物を思う中枢? そんな乱暴な設問に対する答えなぞ、医学者が持ち合わせているはずがないでしょう。馬鹿馬鹿しい」

「では、質問を変えます。先生は唯脳論者ですか?」

「そんな論は脳外科学会には存在しない。脳はあくまでも人体器官の一つにすぎないのですよ。さきほどから、脳髄とか脳だとか、あなたの話がまるで見えてこない。私は忙しいといったでしょう」

 ボスは氷の質問にうなずいた。それはどんな応えが返ってきても全く同じようにしたであろうと思われるうなずき方だった。

「事件の具体的な兆候が現れ始めたのは、一週間ほど前からだった。それはタイラカナル商事内部の、ささいなシステム上の問題に過ぎないと思われた。あなたもご存知でしょう。タイラカナル商事に装備されているシステムについて」

「胡散臭いグリッドシステムだろう。なんだ。あれが暴走したのか?」

 ボスは肩をすくめてみせた。

「暴走ならば、まだ良かった。畑違いかもしれないが、プラナリアファイル、ご存知ですか?」

「ああ。可能性においては人間哲学に深い示唆を与えるといわれながら、ろくすっぽ機能しないできそこないのワームだろう」

「正論です。つい、二時間ほど前までならば。しかし現在、プラナリアファイル本来の機能がどんなものなのか、そしてそれがどんな役割をになって創造されたのかが、明らかになりつつあるのですよ。可能性について戦々恐々の理屈をこねていられる間が平和だったのです。我々はもはや、次のステップへの移行を体験しつつあるのです」

 氷が瑞名からようやく手を離した。そしてベッド脇のモニターを、コツコツと指ではじき始めた。

「あまり、有用な会話とは思えませんね。一体、何が言いたいのですか?」

 ボスは青ざめた昏睡の内にある瑞名をじっと見つめ、眉をひそめた。

「脳ですよ。結局はそこにいきつく。だが、我々は自分の脳について正確に語ることは出来ない。それは自己言及の哲学的定理だった。しかしそれをやってのける方法を思いついた奴がいた。自己言及によるパラドクスを、そのまま受け入れることが可能な世界。それが尋常な世界ではないということは、あなたにも分かりますね」

「仮定の話ならどんな世界だって可能ですよ。私には目の前の脳だけが現実です。あなたのようにありえたかもしれない世界、について詩的幻想をもてあそんでいるゆとりなど持ち合わせていない」

 モニターはβの波長を規則的に刻んでいる。氷の指の動きも自然とその律動に同調している。ボスは氷の指先をじっと見つめているようでいながら、実はもっと別の何かにひきつけられているかのように、視線を固定していた。

「タイラカナル商事ですでに可動しているグリッドシステム、喫茶凪のバーチャルリアリティー空間、厚生部のタンク。これらは社員の脳に対するおそろしく正確なアナライザーであると同時に、コントローラーだ。一体どこが開発したシステムだったのか、これは導入の担当をしていた当時の営業部長の意識とともに、霧につつまれている。あれだけのシステムを研究開発するには、世界随一の脳の専門チームが必要だったはずだ。研究がいつから始まり、いつ完了したのかは記録が残されていない。だが、君のところが絡んでいなかったと考えることはどう考えても不自然だ。無論、随分昔の話だ。そうだな、ちょうど死んだ院長が脳外科のインターンをしていた頃ではなかったかと、私は推察している。脳だ。全ては狂った一個の脳から始まっている」

「おたくの営業部長ね。知っているよ。今ではもう随分回復している。ただ、残念なことに記憶が戻らない。自分が誰なのかも分からないんだ」

「そう、彼はきっと自分をある別人だと言い張っているのではないですか? 例えば、」

 ボスはそういって、氷に視線をうつした。その目は、時間というものをまるで捕らえていないかのように、静かで冷たい色をしていた。

「釜名見煙、だとか」

 唐突とも思われるボスの言葉を、しかし氷はあっさりと引き取った。

「その通り。この病院にはそういう患者が多いんだ。ほかにも一人、二人… 三人くらいいたな。私は釜名見煙だ。と。現代美術界で最高の芸術家だとね。ナポレオンだの、ヒットラーだの、リンカーンだの。人格障害のパターンだ。そういう脳をいじるのも悪くは無いが、どちらかというとそういう連中は行動療法だの電気ショックだので忙しいんでね。なかなかモニターにはつながせてもらえないんだよ」

「行動療法というと、あれだな。箱庭を作らせたりするやつだろう。全く、そういうところまでつじつまをあわせようとするから、狂っているというんだ。君ね、自分が釜名見だと言い張っている連中がこしらえた箱庭の記録、あるかな?」

 氷はモニターの電源を切った。ブウンという音がして、辺りが静かになった。だがそれは一瞬で、すぐにごった返す病院のノイズが、二人の周囲を満たした。

「とってあるんじゃないの? 私には興味の無い話。精神科にいって聞いてくれ。みんなそこにいる」

「なるほど。それじゃそっちへ言ってみるとしよう」

 来たときのしつこさはどこへやら、ボスは素直に席を立った。

「ありがとう。話せて楽しかったよ。彼女の意識が戻ったらすぐに連絡を頼みますよ」

 そういってボスはメモを取り出して、モニターに立てかけて置いた。

「タイラカナル商事、広報部… 信用できない肩書きだ」

「脳外科ってのも、こけおどしじゃあありませんか。それじゃ、失礼」

 立ち去ろうとするボスに向かって氷が声をかけた。

「ちょっと。なぜ、私と話をしたんです。全く実りのない話だったと思うが」

 ボスはちょっと考えてから応えた。

「あなたが、今度の事件とは程よく無関係だったから、かもしれない。何しろ、この事件には関係者が多すぎるのでね」

 氷は変な顔をした。

「何、別段深い意味はないんだ。ただ、脳に関する危惧は、心にとめておいていただいた方がいい。もし、これから患者が増えるようなら、それは、私が失敗したのだと、思ってくれたまえ」

 氷はだまって、手を上げた。ボスはカーテンを捲り上げて外にでた。カーテンが再び垂直に垂れ下がる寸前、氷の体が瑞名に覆い被さっていくのが見えた。だが、ボスはそんなことにはかまわず、精神科へ向かった。

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