第70話 通武頼炉

 工辞基我陣は冷暗所に潜み、傍らのキメトの心地よい荷重に係留されている、と思った。準備万端で乗り込んできたつもりだったが、状況は工辞基の予期を超えていた。というよりも、予測できない展開が進行してしまっていたというほうが妥当かもしれない。とにかく、考える時間が必要だった。この三日間、いやもしかしたらそれ以前の十年間をまたいでいたかもしれない計画の破綻。だが、それがどのくらい無効にさせられてしまったのか。判断するための時間が必要だった。さらに、その判断を下すに足る情報を確保するための時間も必要だった。なによりも、全力疾走で息のあがった身体と、敗走という屈辱から冷静さを取り戻すための時間が、絶対に不可欠だった。だから、というわけではないのだろうが、工辞基我陣とキメトは、タイラカナル商事の中でもっとも冷たい「勤怠管理部」に、その身を寄せたのである。そして、この部屋に入る者は誰でもが着用を許されるトドの毛皮でつくったフード付コートフリーサイズをぶかぶかと着こみ、フードの縁に縫いつけられているボアにこすれてヒリヒリとする顎のひげそり後も気にせずに、じっと沈思黙考を決め込んでいるのだ。

「陣ちゃん。だめだよ」

 脱兎のごときダッシュをみせたキメトが、不意につぶやいた。これもトドの毛皮の奥ヒダあたりからくぐもって、かすかな鈴の音のような囁きだったのではあるが、我陣はすぐに顔を上げた。しかし見えるのはフードの裏地だけである。

「また、悪戯をしたのかい?」

「違うよ。そうじゃないよ」

 毛皮がグネグネとうごめいた。我陣は黙って、キメトのシルエットすら見えないコートの塊を、全裸のキメトででもあるように見つめている気分で、フード内部の獣臭さに耐えた。

「考えちゃだめだよってことだよぉ」

「キメト。私はずいぶんといろいろな準備をしてきた。しかしね、なぜかうまくいかなかったのだよ。ならば、それがなぜなのかを見極めなければ、次の方策が立たないだろうじゃないか? 違うかね」

 我陣は、キメトの子供じみた質問に真剣に答えるという行為を、自らに課された義務であり、またゲームだと思っていた。キメトは、幼いころに誰もが行う、無限問答、「象はどうして象っていうの?」「そらはどうして青いの?」「パパだけどうしてそんなにツルツルなの?」「ママは? どうしておうちにはママがいないの?」などを受けてくれる相手がいなかった。それを我陣は知っていたし、また、絶体絶命と思われる状況での罪の無い、基本的でまっすぐな質問は、我陣の心に平安をもたらしてくれるような気がしていたからだった。

「考えちゃわからなくなっちゃうでしょ」

「考えなくちゃ、わからなくなっちゃうんだよ」

「考えたらうまくいかなかったじゃないかぁ」

「考えが足りなかったから、失敗したんだよ」

 冷気が立ちこめる薄暗い勤怠管理部の、コンソールにもたれた二つの毛皮の塊が、そんな限りない対話を繰り返しているその反対側では、地媚型端末の瞳に仕込まれた赤青黄緑白の各LEDが、上下の歯を小刻みに打ちつける律動に合わせて盛んに明滅を始めていた。トドの毛皮は分厚いので、この歯の音はフード内部に届かず、地媚の眉根が、ピクピクと不愉快そうに跳ね上がるところを目撃できたものはいなかった。ただ、地媚型端末のこの反応の引金を感知した者はいた。本人はそうとは知らず、したがってそれがタイラカナル商事に、ひいてはこの世界に新たなる展開をもたらす程重大であったことなど分からないままに。


 ボスからの連絡が途絶えてからも、広報部の面々はめまぐるしい諜報活動と、得られたデータの構成に余念がなかった。矢継ぎ早のボスからの指示の後は、収集した情報自体から発するさらなる情報の裏付け、さらにとめどなく伸びていく触手の取捨選択といった業務が、自動的に派生していた。際限の無い情報の波に洗い流され、いつしか、時間の観念は喪失された。時間の前後とは、情報の既知、不既知のみで区別されたし、空間的隔たりは、蓄積されたデータベースとの関連度によって計られた。

 髭がのび、爪がのび、目が充血してゆく中で、ただ一人、巨大化してゆく情報と戦うことを拒否し続けている社員がいる。通武頼炉君である。仕事の出来ない通武頼炉君。趣味は掲示板の煽りという、情報世界で最も卑下されるべき男なのであったが。

 通武頼炉は周囲から漂ってくる疲労のにおいに顔をしかめながら、誰にも注意されないから、という理由で趣味にいそしんでいる。こうして社に残っているだけでも十分に会社のために尽くしてやっているのだから、という理由で、むしろ大胆に部のトラフィックを私用に使っている。通武頼炉は不貞腐れているのだろう。誰かが彼を叱ってやるべきであり、責任を負うべき仕事を任せるべきなのであろう。だが、ボスですらその手間を惜しむかのように、通武頼炉に関しては放任しているのであった。そして、その通武頼炉のネットライフを逐一監視しているのが、誰あろう揣摩摂愈なのである。揣摩摂愈は四肢五感を総動員して日夜、内向き外向きのパケットをかぎまわり、不信な動きがあれば即時必要な対策を施すいわばタイラカナル商事の非公式ファイヤーウォールそのものなのである。通武頼炉の動きを監視することは、ボスからの密命である。二人の席は離れていて、顔を合わせることはほとんどなく、通武頼炉が不謹慎極まりない書き込みにいそしんでいる時でも、眉根をそよがせもしないので、誰も揣摩摂愈と通武頼炉の非対称的な関係を知らない。ボスにしてみれば、通武頼炉には揣摩摂愈という緩いが決して外れることの無い首輪を付けておく事で、広報部にとって有用な何かが得られるものと確信しているようだった。そして、揣摩摂愈は、ボスが何を期待していたのかなどはなから興味はなく、膨大なスニッフィングパケットがほんの少し増えるだけのことなのである。

 通武頼炉は珍しく、コアでディープなハッキング系のBBSに顔を出していた。社の非常事態に感じることがあったのだろう。先ほど内部からおかしな接続があり、揣摩摂愈によって防御されたことは、すでに部員全員の了承しているところである。さらに、プラナリヤという獅子身中の虫も不気味な成長を続けていることも、部に緊迫感を与えていた。ワクチンは届けられているが、ボスはまだ投与の指示を出していなかった。

「なぜです」

 とラボから汗だくで戻ってきた未池短弧が尋ねた。

「ボスの指示が無いからだ」

 と揣摩摂愈は簡潔に答えて、ディスクを引き出しに放り込んだ。揣摩摂愈の下で数名の部員がプラナリアに擬似的な形態をあてはめ、それは揣摩摂愈のモニターに映し出されていた。さながら、思いもよらない部分から生えてきた首をもてあましているキングギドラといった姿である。

 通武頼炉が「あれっ」と声を上げたのはそんな時だった。

「これって、うちのことじゃないでしょうかね」

 揣摩摂愈はこの誰に当てられたのか不明の質問を完全に黙殺したが、数名の部員が通武頼炉の席に駆けよる気配だけは感じていた。そして、目の前のモニターには、今現在通武頼炉が見ているBBSがそっくりそのまま映し出されていたのである。


2115  リアルハッカー dfi456i

>210 が娘の処女膜破ったらしい。確認できる?

2116  リアルハッカー eewoqw34

>2115 天岩戸開いた。音楽なってる間違いなし。

2117  リアルハッカー okeu55903

蹴舌酢の首もげた・・・

2118 リアルハッカー dfl456i

7号線渋滞解消。都心環状線の工事は先ほど終了したもよう。

2119 プラナリア *****

お母さんに会えたの? みんな一つになればいいのにね。

240 リアルハッカー gti8749e

>2119 氏ね

241 リアルハッカー iiuje56

>240 が今・・・

242 リアルハッカー eewoqw34

分岐をrへ。こっちの水は甘いよ。

2411 リアルハッカー okeu55902

>2411 そっちの密は甘いさ。蓑多雨留守らしきにおい。

244 プラナリア @@@@@

だから、僕を乗り越えていけば大きくなえるってば。

245 リアルハッカー gti8749e

>244氏ね

246 リアルハッカー iiuje57

まじっぽい。野馬外?

249 橋絵蜘蛛 いえいえw

なんか混んでる?

250 aoasjl keいあけ

ocisoudaaa


「サーバーが落ちたみたいですね」

 通武頼炉が熱に浮かされたような声を絞り出した。その直後から、揣摩摂愈はすさまじい量のリクエストが、MOMUSに向けられ始めていることに気づいた。BBSのサーバーを落としたのは揣摩摂愈だった。通武頼炉がたまたま覗いていたBBSのログを詳細に検討していた揣摩摂愈には、このスレッドがタイラカナル商事への攻撃を促すものへと変わっていき、番号108の時点で、アタックツールのありかが告知され、それを数万単位のアタッカーが手にしていることも掴んでいた。外からのパケットはすべて遮断するべきであった。だが揣摩摂愈の指はキーボードの上数cmの中空で静止したままだった。何か、たいへんなことが起きている。この時、この状況を判断できたものは、広報部には誰もいなかった。プラナリアは成長を続けていてもはや、胴体から首が生えているのではなく、たくさんの首の塊と化していた。揣摩摂愈は、その首が何を象徴しているのか、いや、正確に何と対応しているのかを予測することが出来た。その首の一つ一つがバックドアとして機能し、数縦列に及ぶ牙は、そのバックドアを突破しようと押し寄せているクラッカーなのだ。境界のフィルタリング機構は、事実上無効とされている。完全に監視化に置いていたはずのプラナリアの急変に、揣摩摂愈は敗北を見とめざるをえなかった。すべてが一瞬にして結実し不可逆的だった。これがプラナリア本来の機能なのだ、と揣摩摂愈は唾を飲んだ。牙は容赦無く壁を食い破ろうとし、無数の頭はさまざまな思惑で動く。だがその根元は一つだった。そしてまた、無数の牙は頭に支配され、頭は首に支配され、結局はみな、その根元の子供でしかなく、根元の欲望をさまざまな方法で具現化しようとうごめくものだったのだ。自由意思の名のもとに死をいとわずに攻撃を繰り返す無数の頭。その母体である根元は、その首によって完全に隠されていた。

「すぐに、電源を落とすんだ」

 誰かが叫んだ。

「無駄だ、自家発電に切り替わるだけだ」

「ネットワークを物理的に切断するのは?」

「手遅れだ。プラナリアはあらゆるローカルコンピューターに寄生している」

「それじゃ、メインサーバーだけでも、何とか切り離さなければ」

「だが、それがどこにあるのか、われわれだって、つかんじゃいないんだぜ。どうやって、それがMOMUSの本体だと知ることが出来る?」

 広報部は、すべての方策が手遅れであり不可能であるという結論に向かって、苛立ちを加速していった。揣摩摂愈ですら、端末に背をむけ、腕組みをして歯ぎしりをしているのであった。そこへ、通武頼炉がまた「あれ?」というすっとんきょうな声を上げた。

「ボスから、メールが届きました」

 この非常時にそぐわない、ピンクの熊のキャラクターが、えっちらおっちらと葉書をかついで現れた。

 揣摩摂愈はメールをいち早く読み、それからニヤリとした。


”こちらでもプラナリアの活動を捕捉した。こいつらはMOMUSを制圧しようとしている。好都合ではないかね?

それから、調査資料を分かりやすいフリップにまとめておいてくれたまえ。パネルディスカッションをしたいのだ”


 広報部の喧騒は止まない。揣摩摂愈が部屋を出ていったことに気づいたものは、一人もいなかった。

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